第1章 第4話 神殿(パンデモニウム)


次の日、杏華は久々に気持ちよく起きる事が出来た。

何故か昨日の夜はあの夢を見なかったのだ。



カーテンの隙間から零れ落ちる朝日は、まるで今日が素晴らしい日になると告げている様だった。目覚ましが鳴る前にベットから出ると、パジャマのまま部屋を出た。


部屋を出ると直ぐ、既に制服に着替えてる弟に出くわした。


「おはよう!」

ご機嫌に声を掛けると、弟は少し驚いた顔をしたが同時に「ふん」顔を背けると自分の部屋に入っていった。


「何あれ!」


折角のご機嫌気分に水をさされ憤慨したが、所詮は中学生のお子様だ。

子供相手に相手に張り合うなんて馬鹿らしい、と自分に言い聞かせた。



父親は既に会社に出かけて居なかったため、パジャマのままゆったりテレビを見ながら朝食を取った。

「父さんが見たら怒るわよ。」母親が呆れた声で言ったが、それ以上何も言わなかった。



朝の情報番組では定番の星占いのコーナーが始まる所だった。

かわいいアナウンサーが出ているとクラスの男子から人気だという番組だ。


普段はギリギリに起きるため、なかなか見る事ができないが

今日は早起きのお蔭でゆったりと見る事ができる。


「今日の星座占いはおとめ座が1位です!」

「お~、今日はおとめ座が一位だって! 今日はなんだか良い日になりそう。」


「あらいいわね。やぎ座は何位なの?」

「お母さんは3位だって」とやり取りしていると


「行ってきます。」と投げやりな声が玄関からし、扉が閉まる音がした。



「丈耀機嫌悪いのかな?」と母になんとは無しに聞くと

「ふふふ、お姉ちゃんに照れてるのよ。」と意外な答えが帰ってきた。



「昨日も「下着のままでうろつかないで欲しい」って言ってたわよ。」とデリカシー無く言った。



「あ~」子供の癖に自分の事を意識しているなんてと思いつつ、いつまでもお子様だと思っていた弟が随分成長したんだなと、姉として感慨深い気持ちにもなった。



「そうだね、これから気を付けるよ。」大人の余裕を見せて言うと

「あらあら、杏ちゃんは随分お姉さんだね」とおどけていって笑った。



その日は何時もより早い電車に乗り学校に行った。

折角早起きしたのだから、少し何時もと違う事がしたかったのだ。



「やった!一番乗りだ。」

案の定この時間はまだ誰も登校していなかった。



誰も居ない朝の教室は新鮮で、今日一日勉強がはかどる気がした。

意気揚揚とまだ誰も居ない教室に入ると、何故か妙な違和感を感じた。



普段は時間ギリギリで教室に飛び込むので

まだ生徒が疎らな教室が珍しのかとも思ったが、なんだか釈然としなかった。



結局午前中は朝感じた違和感が気になり授業に集中できなかったが

お昼休み前になりようやく違和感の原因に気がついた。



クラスの席の配置が微妙に違うのだ。



杏華の席は変わらなかったが、昨日と席が違うクラスメイトが数人いて、更に机が1つ足りなくなっている。

今日は休みのクラスメイトは居ないはずなのに、何故か机が無くて困っている生徒は居ない。



どういう事?



杏華は心の中で不思議に思ったが、自分以外にその事を不審に思っているクラスメイトは居なそうだった。

誰か居なくなっているはずだが、それが誰か全く思い出せなかった。



こっそりクラスで仲の良い友達にそれとなく聞いたが、その友達は杏華が何を不思議がっているかすら理解できていない様だった。

担任の先生にも聞いてみたが、先生も反応もまったく変わらなかった。



昨日までと違う席順、減った机、いなくなったと思われるクラスメイトの誰か。

クラス全員の顔が乗った集合写真を携帯から探しだし、居ないクラスメイトを食い入るように探したが、写真に写るクラスメイトの人数とクラスの机の数は同じだった。



放課後になり、ようやく「自分の勘違いでは無いか?」と結論にいたったが、少し納得いかなかった。



自分がおかしいと認める事が、こんなにも難しいんだと思いながら帰りの道を歩いてると、何故か通学路から見える廃工場が異様に気になった。



通学路から見える建物の1つだが、廃墟特有の独特雰囲気を持っているため

以前から気になっていたのだ。



杏華は立ち止まると、回りをフェンスで囲まれた廃工場の敷地中をぼんやりと眺めた。


「私有地」「立ち入り禁止」「危険はいるな!」と描かれた看板には

無数の落書きがされ、あまり近づきたく無い嫌な雰囲気を醸し出していた。



入ろうと思えば容易に突破できる形ばかりののフェンスだから、中に入って悪さをする人間が多いのだろう。



以前聞いた話だと、杏華が高校に通い始める大分前に閉鎖され、今に至るまで放置されているらしい。



廃墟好きやカップルには、そこそこ人気のスポットらしいが、今まではそんな人達の気持ちがまったく理解できず、世の中には物好きがいるもんだと呆れていたというのに、今はその気持ちが分かる気がした。



少し見に行ってみようか…

好奇心に負け廃工場の方に踏み出そうとした時

「あれ?杏華? どうしたの?」と声をかけられ我に返った。



杏華が振り向くと、廃工場の方を見て呆けている杏華を

不思議そうに見ている遼子がいた。



「あの廃工場に何かあるの?」不思議そうに言って遼子は廃工場をマジマジ見た。



「あ~、えっと、そうそう、何時まであのままなのかな?って少し気になっちゃって。」杏華は咄嗟に口から出まかせを言った。



「ふうん、なんでそんなに気になるのかな?」遼子は何かを察した顔をすると

「もしかして、彼氏から夜のデートに誘われてるとかかな?」杏華の顔を見てフフフと笑った。



「!?」意外な方向から勘ぐりに、杏華は驚いた。


そもそも彼氏など今まで出来た事が無いうえ、夜の廃工場でデートをするなんて想像の遥か上だった。



「ごめん、ごめん冗談だよ。」

遼子は困惑する杏華を遼子はニヤニヤして見ていたが

自分の問いが見当違いだったと気づくと、やりすぎたと反省し杏華に謝った。



「もう、私に彼氏なんていないって知ってるでしょ!」

杏華は恥ずかしさを隠すように、強く言った。



「ごめんね。でも杏華にも早く彼氏ができるといいのにね。」

杏華は謝りながらも、全く懲りずにそんな事を言ってきた。



「こんなカワイイのに、世の男達は何をやっているのだろうね。」

いきなり遼子に抱き着かれて、杏華は悶えた。



遼子は少しスキンシップ多寡な所があり、ちょくちょく杏華に抱き着いてくるのだ。



別に嫌ではないのだが、その度に遼子の女性らしい身体を感じてしまい。

自分の筋張った身体との違いにへこむのだった。



特に胸の発育が段違いで、申し訳程度しか無い杏華とは対照的に

高校生離れした豊かな実りを誇っていた。



本人曰く、邪魔だし肩が凝るし、無駄に男子の視線を集めて嫌だとの事だが。

そんな物とは縁のない杏華には、羨ましい限りだった。



遼子みたいのがとは言わないが、せめて年相応のサイズぐらいは欲しいと思うのは欲張りなのだろうか。



遼子のスキンシップが落ち着いた後、二人で一緒に帰宅した。

帰りの途中先ほどの廃工場で、本当に深夜デートをしているクラスメイトがいるらしいという話を聞いた。


一体深夜の廃工場で何をするのか!?

杏華は訝しんだが、若い男女が人気のない場所でする事といったら一つしかないと気がついた。


いくらお金がないからって、あんな所で事を済まそうなど論外だ。


「女の子を大事にできない男子なんてサイテイ!」

自分が誘われた訳でもないのに、杏華は急に怒りが沸いてきた。



遼子はそんな杏華に苦笑いしていたが

杏華にはどこか表情に陰りがある様に見えた。



家に帰ってからも遼子の態度が気になり、お風呂からでて部屋でごろごろしながら遼子の事を考えた。



遼子は杏華が中学2年の時にクラスが同じになってからの友達だった。


最初は単なるクラスメイトだったが、3年になる頃には

いつの間にか一番仲の良い友達になっていた。



だから遼子と離れ離れになりたくなくて、死ぬ気で勉強して

遼子と同じ高校に入ったのだ。




先輩の失踪から始まった杏華の辛い時期には、誰よりも親身になって励ましてくれた。精神的に不安定になり、酷い有様の杏華が辛くあたっても。


まるで女神の様に杏華を受け止めてくれたのだ。


どうしてそこまで親身になってくれるか分からず、反発心もあって泣きながら問いただした杏華に「友達なんだからあたりまえでしょ。」と笑って言って抱きしめてくれた遼子。


その時を境に、悪夢は和らぎ体調も回復の兆しを見せはじめ

数週間後には、再び登校できるまになった。


今の自分があるのは、遼子ちゃんのお蔭だ。

今度は自分が遼子ちゃんに恩返ししなくちゃ。



いつか遼子が困難に巻き込まれた時は、今度は私が手を差し伸べる番だと密かに決意していた…。

そんな遼子が見せた小さな偽りが、杏華にとって心にできたシコリの様に気になった。



別にそんな大したことでな無いと自分自身に言い聞かせるが

そんな簡単に気持ちを切り替えられるほど杏華は器用では無かった。


ベットでそんな事をウジウジ考えていると、急に眠気に襲われ意識を失った。






突然強い風が吹き、フェンスが軋む金属音で杏華は目を覚ました。



「あれ?」

気がつくと杏華は、何故かあの廃工場の前に立っていた。



さっきまで部屋でゴロゴロしていたはずなのに、なんでこんな所に?

杏華は驚きつつ自分を見ると、パジャマ姿のままで屋外にいる事に気が付いた。



「ええ? なにこれ!?」


杏華は驚きつつも、再び辺りを見渡したが

辺りは真っ暗で、やや離れた所にある外灯や、遠くにビルの灯りが見えるのみだった。



時折吹く強い風がフェンスを激しく揺らし、金属がぶつかる音が鳴り響いた。

周囲を見渡すが周囲に人影は無く、自分ひとりがぽつんと廃工場前に佇んでいるだけだった。



「どうしてこんな所に?!」

誰に言うまでも無く、自然とそんな言葉が口をついたが



「やあ、1日ぶりだね。」

誰もいないはずなのに、どこからともなく声が聞こえた。



その声を聴き、杏華は瞬時に悟った。

またあの自称悪魔のせいだと。



起きている間は忘れていたが、今はしっかりと思いだせる。

昨日授業中に夢の中に出てきて、思わせぶりな事を言っていたことも。



またこんな夢の世界に連れてきて、何を言い出すのかと厳しい顔で辺りを見渡した。



「まあ、まあ、そんな怖い顔をしないで。」

いつもの軽薄な声が聞こえ、杏華をなだめた。



「昨日は良い所で邪魔が入ってしまったからね。

 今日は実例を身ながらゆっくり話しをしよう。」


相変わらず姿は見えないが、声ははっきりと聞こえた。



今回は黒い靄のように視界を遮るものは無いが、やはり姿は見えないようだ。



「あなたと話す事はないわ!私を直ぐに元の場所に戻して!」

杏華は声に対して言い放った。



「この廃工場に興味を持ったみたいだから

 折角その理由を教えてあげようと思ったのに。」


声は杏華の苦情を気にせず言った。



理由?


何故その事を知っているのかと思ったが、好奇心がその疑問を押しのけた。



「いったいここに何があるっていうの?」

杏華は完全に自称悪魔を信用した訳では無いが、その答えには興味があった。



「ふふふ」

自称悪魔は少しほくそ笑むと、杏華が自分との会話に乗ってきた事を喜んだ。



「いいかい、ここは昨日僕が呼びだしたあの異世界では無い。」


「君はまだ夢だと思っているかもしれないが、ここはまぎれもない現実の世界だ。」


それは意外な言葉だった。

確かに見た目は現実と遜色が無いが、どうにも現実味を感じさせないのだ。



時折強い風が吹き、周囲の物を激しく揺らすが、杏華にはその風を感じる事ができなかった。映像は本物そっくりだが自分はそこに居ない感覚、それが違和感の正体だった。



「だけど君は違う。」


「君の実際の身体はここには無い、今君が自分の身体だと思っているものは

 君の精神が視覚化した物だ。」


「本当の身体は今もベットの上で寝ている。

 だから、他に人がいても君の事は見えないし声も聞こえない、そう普通の人間にはね。」



ああ、そうか。だから夢を見ているみたいに現実味が無いのだ。


宙に浮いたまま近くのフェンスに触ってみたが、杏華にはなんの感触も無く

手は幽霊のようにフェンスを素通りした。



「お~すごい!」

感動して改めて自分の身体を見るが、現実の自分と見た目変わらなかった。



「今の君は幽体離脱してここに来ているような物だ。」



「現状への説明はこれでいいかな?」

まるで塾の講師のような口調でいわれ、はしゃいでいた杏華は少し恐縮して頷いた。



今までは夢の世界で話をしただけだったが、こうして現実の世界で常識を超えた行為を見せられると、改めてこの声の主は悪魔かそれに近い存在なんだと実感した。



これ以上関わるのは危険だという声が頭に響いたが、杏華の好奇心はそれを黙殺した。


「よろしい。」

声は少し嬉しそうに言うと。



「ではお待ちかねの、何故今君がこの場所にいるかについて説明しよう。」

先生風の口調になると、楽しげに言った。



「まず、前回説明した様に、悪魔は人の魂をエネルギーとしてこの世界に存在する。

 悪魔がこの世界で活動するには、沢山の人間の魂が必要なんだ。」



「だから、悪魔は生き延びるために人間を定期的に食べなければならないが

 君は悪魔に人間が食べられたなどというニュースや噂を聞いた事があるかい?」



そうだ、それは気になっていた!

杏華は自分が感じていた違和感に気付き、少しドキドキした。


悪魔が人を食べるなら、食べられた人は行方不明扱いになるはずだ。

悪魔の数がどの程度が知らないが、定期的に人が居なくなったら絶対問題になるはずだ。



まあ、この自称悪魔の言う事が真実だとしたらだけど

この不思議の体験をしている事自体が、その発言の真実味を増しているのは確かだった。



「僕が推測するに、この世界にいる悪魔は数千という所だ。」


「数千!!!」

そんな数の怪物が世の中に隠れ潜んでいるかもしれない事に、杏華は驚いた。



「そして、1体の悪魔が1ヶ月間存在するために必要な魂の量は大体10個程度。

 つまり1月間に数万人の人間が悪魔に喰われている計算になる。」


「!!」


あまりの人数に杏華は声も出なかった。

1月に数万人という事は、一年で数十万人…そんな規模の人間が消えているなんてとても信じられなかった。



「そんなバカなって顔をしているね。

 でも、それがこの世界に隠された真実さ。」



今もどこかで、多くの人達が悪魔に喰われている。



あまりの規模に正直杏華の理解の範疇を超えていたが、いくらなんでもそれには無理があるとも思った。



「そんな数の人間が消えたら大問題になってるわ!

 それにそんな数の人間が襲われていたら目撃者だっているはず!」



杏華を脅そうと数字を盛ったのかもしれないが、現実離れした数字に説得力を感じなかった。



「それもそうだね。」

杏華の反論を悪魔は肯定した。



「昔ならいざ知らずこの情報化進んだ世界で、その数の人間が消えたり襲われたら

 とてもじゃないが悪魔の存在を隠しきれないだろうね。」



「普通はそう思うよね。」

杏華は悪魔の言葉に空恐ろしい何かを感じた。



「でも実際のところ人間に気付かれてはい無い、そう普通の人間にはね…」



「…」



杏華はここに来てようやく、自分が好奇心で覗いてはいけない何かを覗き見ようとしている事に気づいた。

ここから先を知ってしまったらもう今までの生活には戻れない、そんな予感を強く感じた。



「まずは消えた人間が気付かれない理由だが、実は今日既に体験している。」


「居なくなったのに、誰もそれに気付かないという現象をね。」


その悪魔の言葉に杏華は唐突に思い出した。

今日クラスで感じた違和感に。



席が減っているのに、誰も気付かない。気付いていない。誰も不思議に思わない。

かくゆう杏華自身も、最初は不思議に思い色々調べていたはずなのに、いつの間にかすっかり忘れていたのだ。



「今日教室の席が一つ足りないって思ったの、何故そう思ったかは覚えていないけど。でも、クラスのみんなも先生も、誰もそれに気が付いていなかったの。」



「私の気のせいだと思っていたけど……」

そういいつつ、杏華は恐ろしい結論に自分が辿り着いている事に気が付いた。



そんなの有り得ない…

あるはずが無い…


きっと何かの間違えだ…



だが、実際に自分が体験した現象がもし、もしそうなら…。



「君のクラスメイトは悪魔に喰われたんだ。」

杏華は世界の殻がひび割れる音が聞こえた気がした。



背筋は氷付き、自分がもう戻れない場所に来てしまった気がした。



「ああああ…」

嗚咽に似た声にならない声が漏れた。



平和で暖かく幸せに満ちた世界に、どす黒い何かが流れ込み

その無常な激流に引き裂かれ散り散りになる幻想が見えた。



正直今までは悪魔だの喰われるだの話は、どこか遠い世界の出来事のように思っていた。世界のあちこちで起こっている凶悪な事件や、紛争と同じように



自分には縁の無い世界の出来事だと信じていた。



だが、そうでは無いのだ。

目には見えないどす黒い悪意は、杏華のすぐそば、そこかしこに潜んでいたのだ。



そして杏華の気付かないうちに、一人、一人とその手にかかり命を散らしていく。

このままでいけば、クラスメイトはもちろん、家族や杏華自身にも魔の手が及ぶかもしれないのだ。



世界が暗闇に包まれた気分だった。



「悪魔に喰われた人間は、他の人間の記憶から抹消される。」



「いや、その言い方は正確では無いな、世界から無かった事にされると言うのが正しいかな。」

「だからどれだけ悪魔は人間を喰らっても、人間にはそれに気づく事は出来ないのさ。」


「だって喰われた人間は、元々居なかった事になってしまうのだからね。」



そんなのどうしようもない、直ぐ隣にいた人が食べられても

食べられた瞬間に、その人の事を忘れてしまったら。


食べられたという事に気づけるはずが無い。


避ける手段は無い、対策を取りようがない、誰もすぐ傍にある危険に気付けないのだから。



自称悪魔は嬉々として語ったが、杏華の脳はショックで機能停止しており

言葉の半分も理解できていなかった。



「さて、十分絶望してもらえたかな?

 悪魔の所業の前には、人間は成す術も無く狩られるだけの存在だってね。」



「でもね、幸いな事に悪魔にも天敵は存在するんだよ。」

悪魔は杏華の耳元で囁くように言った。



「悪魔が恐れ、忌み嫌う存在を…

 君は知りたくは無いかい?」


悪魔は杏華に問いかけたが杏華は無反応だった。



「おや、少し刺激が強すぎたなか?」

放心状態で立ち尽くす杏華に、悪魔の声は悪びれずに言った。



その声が終わらないうちに、廃工場のフェンスに近づく2つの影があった。


影は近づいてくるにつれ、薄らと姿が見えるようになった。

それは2人の男女だった。


男は三十前後の男でスーツの上着を片手に持ち、フェンスを通り抜けようとしていた。女は男より少し若そうな見た目で、少し気合いの入った装いだった。



女は明らかにこの場所に入るのを嫌がっていたが、男の強引な誘いを断りきれない様子だった。


男に言いくるめられた女が渋々フェンスを通りぬけると

二人の影は廃工場の壊れかけた扉の奥に消えた。


二人が見えなくなって暫くすると、廃工場の周囲が薄らとぼやけ始め

遠くに見える街の灯りが、少しづつ薄く消えた。


廃工場を取り囲むフェンスは、急激にうねり始め、錆びた金属状の表面には

異様な文様が浮かび上がってきた。



「では実際に本物の悪魔を見に行くとしよう。」

声はそういうと、放心状態の杏華に呼びかけた。


「懐かしい人に会えるかもしれないよ。

 君が大好きだった先輩にね。」


その言葉に杏華は我に返った。


「せんぱい…?」

聞き間違えだろうか、悪魔の声から先輩と聞こえた気がした。



「ああ、1年前に失踪した君の先輩だ。」

「ずっと探していたのだろう?」


「あの廃工場にいけば会えるかもしれないよ。」


自称悪魔の声はやさしく杏華に囁いた。

それは正しく悪魔の誘いだった。



「なんで先輩がこんな所に!?」

杏華がそう質問を投げながら辺りを見た。


「ひっ!」

杏華が居る場所はさきほどまでとは一変し、まるで悪夢の中の世界の様な変貌を遂げていた。


「なにこれ!?」

杏華は自分に纏わりつくように伸びた触手を払いのけると悲鳴のように叫んだ。



先ほどまで目の前にあったフェンスは植物の蔦のように捻じれ、表面から無数の触手を蠢かせていた。


「神殿さ、悪魔のね。」


「悪魔は喰らった魂を使用して、自らの「神殿」を造るのさ。

 神殿内では悪魔は現実世界よりも強力な力を行使できる。」



「ここは、いわば悪魔の根城さ。」


「そしてここに人間を誘い込み、魂を喰らう。」



「幸い今君は魂の状態だから、悪魔に襲われる危険は高く無い。

 安心して悪魔の作った神殿を見学に行こうじゃないか。」


杏華の返事を待たず、悪魔の声は廃工場だったと思われる禍々しい建物の方に消えていった。



杏華は少し躊躇したが、ここに一人で残される恐怖の方が勝ったため

慌てて蔦状になったフェンスに触れない様に避けながら、建物の方に向かった。


建物の中は意外に明るく、外に居た時よりも遠くまでぼんやりと見えた。

「ほら奥の部屋を見てごらん、面白い物が見れるよ。」


悪魔の声に杏華は建物の奥を見ると、何かかが動く様子がぼんやり見えた。


「?」

最初は何が見えるか分からなかったが、目を凝らしてみるとそれは人間の男女が抱き合っている姿だった。


「!!」


この異様な空間で、お互いを貪るように愛撫しあう男女の痴態に杏華は赤面した。

思わず漏れそうになる声をあわてて両手で塞ぎいだ。



「なんでこんな所に人がいるの!?」

悪魔に小声で文句をいったが、その目は男女の行為から目が離せなかった。



二人は周囲の異変に気付いていないらしく、濃厚な口づけをしながら互いの身体を愛撫し続けた。


「大丈夫、僕達の声は誰にも聞こえないよ。」


悪魔の的はずれな返答に腹がたったが、もっと近くで見たいという誘惑に耐えるので精一杯だった。



「不潔すぎる…」口では否定しつつも、目は二人の痴態に釘付だった。



大人の濃厚な抱擁を見ていると、自分の身体が熱く火照ってくるのを感じた。

さきほどまで人間の運命に絶望していたはずなのに…



杏華が二人に見とれていると、半裸になった二人の前に何かが現れた。

それは人の背丈を軽く超えるほどの大きさで、何の前触れもなく杏華の視界から二人を遮った。


「!」


全身から血の気が引き

熱を帯びた身体に、氷水をかけられた気がした。



「あ、あれは何!?」


「きゃああああああああああああああああ」


杏華が声に問いかけると同時に、空気を引き裂くような女の金切声が鳴り響いた。



男の驚きの声と、罵倒が続けて聞こえた後、何かが砕ける鈍い音したかと思うと

あたりは再び静寂につつまれた。



暫くの静寂のあと

巨大な何かがゆっくりと動き出した。



巨大な何かは、全身が深い緑色をしており

手足や頭と人間を思わせる何かが付いていたが、その比率は人間とは大きく異なっていた。


それがゆっくりこちらを振り向いた。



本来顔がある場所には、長い尻尾の様な物が生えており

身体の中央部に、目や口に似た部位がついてた。



その部位も人間の物とは明らかに違い、あくまでもそう見える程度だった。

その見た目は杏華が知る地球上のどの生物には似ていなかった。



「悪魔…?」


何かの絵画で見たことのある、グロテスクな姿の生き物。

それに近い物を感じ、杏華は呟いた。



「そうだ、あれが悪魔さ。」

声は抑揚なく言った。



「あんな不格好な姿の物はここ最近珍しいが、悪魔らしいといえばらしいと言える。」



緊張感の無い声で肯定されたが、杏華はもうそれどころではなかった。

なぜならその悪魔の不格好な手に、さきほどの男性がぶら下がっていたからだ。



男は必至に手を振りほどこうと必死にもがいたが、頭部を固く握られ

呼吸する事すらままならないありさまだった。



「!!」


目の前で繰り広げられる現実味の無い光景に、杏華は息をのんだ。

この先起こるであろう恐ろしい事を予感しつつも、自分の指一本動かせなかった。



巨大な化け物はゆっくり移動すると、空いた片方の手で工作機械を操作した。

機械は始動に少し震え、機械の上部に設置された透明のケースの蓋が空いた。



化け物はその透明のケースの中に男を投げ入れると

慣れた手つきでケースの蓋を閉じた。



男は落下した衝撃で暫く蹲っていたが、自分が閉じ込められた事を知ると

怒鳴りながらケースの内側を力いっぱい殴った。



ケースは非常に固く、男の殴打程度では何の変化も生じなかった。

それでも男は狂ったように、ケースを殴り続けた。



そんな男には興味を示さず、化け物を少し離れた所に設置してあった金属製の箱を手にとると男をいれた機械の近くに置いた。



男はなおも両手を抱えながら叫んで助けを呼んだ。

どうやらケースよりも先に、男の両手が壊れたようだった。


嗚咽の入り混じった叫び声は周囲にこだましたが、当然のごとく助けなど来なかった。



杏華は先ほどの女の人が気になり、二人が居た場所を見ると

そこには、半裸の女性が倒れていた。



目立った外傷はなさそうだが、このままでは二人の最後は時間の問題だ!

そうおもった瞬間、杏華を縛り付けていた恐怖の呪縛が取れた。



「あの人達を助けて!」


杏華は声に向かって言った。

それまで恐怖で何もできなかった遅れを取り返そうと必死で懇願した。



それが無茶な事だとは分かるが、言わずにはいられなかった。

あれが悪魔なら、あの二人は確実に殺されるはずだ。



「ああ、いいとも僕に協力してくれるならね。」

声が耳元で囁いた。



「そうすればあの二人は助かる。約束しよう。」


意外な返答に、杏華は戸惑った。

てっきり、無理だと返答されると思ったのだ。



「わかった、協力するから早く!」

もう、夢だとか、悪魔とかどうでも良い。


目の前でだれかが襲われているなら、助けなければいけない!

杏華は頭に鳴り響く警鐘を無視して言った。



「それで君が死ぬとしてもかい?」

声はそう言った。



「え?」

杏華は声が何を言っているか、一瞬理解できなかった。



黙る杏華に声は続けた。



「あの二人が助かる代償として、君は全てを失う。

 それでもあの二人を助けて欲しいかい?」


「あの二人のために君は全てを捨てる覚悟はあるかい?」



杏華はその問の重さに返答できなかった。

人の命は大事だ、だけどその代償に自分の命が必要だなんて。



目の前で人が殺されるのは嫌だが、自分が死ぬのはもっと嫌だ!

当たり前の事だが、実際に殺人が行われようとしている現場を前にその判断は重すぎた。



杏華が返答できず苦悶してい間にも、化け物は嬉々として泣き叫ぶ男を見ていた。



「残念、時間切れだ…。」

声がそういうと、男の声は絶叫に代わっていた。



「ぎゃあああああああああああああああああああ」

透明のケースは赤く染まり、男は狂った様に暴れた。



杏華には何が行われているが理解できなかったが

今男が死につつある事だけはハッキリ分かった。



「あああああああ」

杏華は惨劇から目を逸らし、耳を両手で塞ぎ蹲った。



やがて男の絶叫は消え、再び辺りに静寂が戻った。

杏華は全てが終わったと理解し、閉じた目から涙を大量に流し嗚咽した。



罪悪感と恐怖が入り混じった感情がヘドロのように湧きあがり

杏華の意識を小舟のように押し流した。


「このまま消え去りたい」そんな思いだけが空っぽになった杏華の心に残った。



「終わったよ。」


どれだけ時間が経ったであろうか、その声で杏華が顔を上げると

怪物は既にいなく、男も女の姿も跡形もなかった。



先ほどまでの出来事が、夢か幻だったらと思ったが

赤く染まった機械や、周辺に散乱した肉片が


あれは現実だったと雄弁に語っていた。



周囲に散らばる肉片には、明らかに腐敗しているのもあり

今回だけでなく、過去にも多くの惨劇が行われていた事を示していた。



既に涙も枯れ、空っぽになった杏華は何も感じずその惨劇後を見た。


「そろそろこの神殿は閉じる、また現実世界に戻る前に目的を果たそう。」



「目的?」

何が閉じるのかは分からなかったが、目的という言葉が引っかかった。



「こっちだ。」

声が少し先から聞こえ、姿は見えないが声はどこに移動したかは分かった。。



「何があるの?」

杏華は何の気力も湧かず、その場で声のする方を見た。



「これが今日の目的さ。」

声は先ほどの工作機械の近くから聞こえた。



「?」

杏華は気乗りしなかったが、渋々声の方に移動しようとし

足元に散乱する肉片に怖気づき足を止めた。



「なに、飛んでくれば直ぐさ。」


「今の君は生身の身体では無いのだから。」


声の説明に、こわごわジャンプしてみると

杏華の身体はまるで風船のように空中を漂った。



「どこに行きたいか考えれば、その場所に移動できるよ。」

思ったより自在に移動できるのに驚きつつ、声のする場所を目指した。



「目的って何?」

杏華は声が聞こえた場所に降りながら言った。



「これさ」

声は床に無造作に置かれた金属の箱の近くから聞こえた。



箱に気づいた杏華がその箱を見ると、側面は空いていて何か入っているようだった。

杏華が箱の空いている方を覗き込むと、そこには女の頭部が入っていた。



「!」


杏華は驚きと恐怖で咄嗟に目をつぶり背を向けた。

恐怖で目を背ける杏華に声が語った。



「それが君の先輩さ。

 ずっと探していたんだろう。」



「先輩?!」

半信半疑だが、こわごわ箱を覗き込むと、箱の中の生首は綺麗で整った顔をしていた。



「せんぱい?」


確かに記憶の中の先輩の面影がある。

整った顔立ちに長い黒髪、長い睫、すっとした眉毛。



ああ、たしかに先輩だ。

でも、どうしてこんな無残な姿に…



自分が敬愛した先輩の死を目のあたりにして

杏華の枯れ果てたと思った涙が再び零れ落ちた。



世界は無常だ、あんな悪魔が人を喰い散らかし

優しかった先輩も、あの悪魔に手にかかって…



再び泣き出した杏華に声はささやいた。

「彼女はまだ死んではいないよ…」



「え?!」

驚く杏華は再び首だけの先輩を見た。


最初は恐ろしくて凝視できなかったが、徐々にわずかな違和感に気がついた。


好奇心が恐怖を押しのけ、どこに違和感を感じるのか首を凝視すると。

綺麗な唇がわずかに震えている事に気がついた。



風なら髪も動くはずだが、髪は少しも動いていなかった。

唇以外にも、瞼が時折震え、微妙に表情も変化している事に気が付いた。



「先輩?」

おもわず声を変えると、首だけの女は目を見開いた。



「ああああああああああああああああああああ」

驚きのあまり杏華は飛び跳ねた。



杏華の声は辺りに響き渡り、首は怪訝そうな顔で杏華の方を見た。



「おっと気づかれた様だ、今日はここまでにしておこう。」

声が聞こえた瞬間、杏華は意識を失った。

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