第1章 第3話 狭界


辺りは薄暗く、目を凝らせばどこにいるか分かりそうだったが

同時に、ここはどこでも無いだろうという予感があった。



「まさか授業中にここに来るとは、君もなかなか大物だね。」

どこからともなく呆れた感じの、軽い笑いを含んだ声が聞こえた。



その声を聴いた瞬間自分に何が起きているのかを、杏華は理解した。


またあの夢だ!



起きてしまえば内容は忘れてしまうのに、同じ夢を見たという事だけは覚えてる

そんな理不尽な夢。



ここ最近続けて見る夢、その夢の世界に杏華はいたのだ。

いや、夢の世界にいるわけでは無く、ただ夢を見ているだけか…。



杏華がそう感じたのも無理もなかった。

その夢は夢というには妙に現実感があり、今そこに本当に居るという感覚があった。



「またあなたなの! 私はもうやめてって言ったはずなんだけど!」

杏華は声の持ち主に文句を言った。



何故か起きている間は忘れていたが、今なら思い出せる。

杏華はこの数日毎晩この声の主の夢をみていたのだ。



起きている間は記憶が曖昧になり忘れてしまうが

夢の中では何故か今までの夢の内容が鮮明に思い出せた。



「そうはいかないよ、これはとても大切な事なんだ。」

 

「君にとっても、君に関わる人達にとっても。

 そしてゆくゆくはこの世界にとっても。」


「もちろんこの僕にとってもね。」

声の主は杏華の言う事などまったく気にせず言った。




声はすぐそこから話しかけている感じだが

辺りを見渡しても、靄のせいで何も見えなかった。



声から感じる距離感的には、いくら視界が悪くてもうっすらと姿が見えても良さそうだが、まるで空気が話しかけているように、声の持ち主の姿は見えなかった。



「いいかげん姿を見せたらどうなの?」


こちらの言い分を無視する声にいいかげん頭にきていたため、怒った口調で言い返した。


つい勢いで言ってしまったが、要望通りに姿を見せられたら余計困るのは自分だという事に言い終わった後に気がついた。



なぜならこの軽い調子の声からは想像もつかないが

こいつは自称悪魔なのだ!



まだその片鱗は見せていないが、自分を悪魔と呼ぶ人間なのだからどう考えても危険人物に違いない。



「あ、やっぱり今のは嘘!」

杏華は慌てて先ほどの言葉を取り消した。



「姿は見せなくていいから、早く私を元の場所にもどして!」

本当は相手に弱みをみせずに撤回したかったが、要領の悪い杏華には無理な話だった。


 

「姿も何も、今の僕には姿なんてものは無いよ。

 なにせ今僕がいる場所は、君のいる世界とは隔絶した所だからね。」



「かなり前に説明したはずなんだけどね…」

「まあ、君の事だから忘れていると思ったよ」とブツブツ愚痴まで言われた。



以前そんな事を言われた気がしたが

そもそも起きれば全て忘れてしまうのだから、少しぐらい忘れるのも仕方が無い。



だが、本当に相手は姿を現す事はできなさそうだった。

杏華は少しだけほっとした。



しかしだ、これは些細な問題にすぎない!



一番の問題はこの夢自体だ。

連日連夜安眠を妨害された上、こんな昼寝の最中まで出てこられては、今後の生活に支障がでる!



今回は昼寝のためか、いつもより意識もはっきりしているし

ここでアイツを追っ払って、二度と私の夢に出でこれないようにしないと!



いくら自称悪魔でも、ここは私の夢の中なんだから主導権はこっちにあるはずだ!

杏華はそう思うと決意を固めた。



「ぶつぶつうるさい! いいこと、さっさと私の夢から出て行きなさい!

 そうでないと酷い目に合わせるわよ!」


杏華は後の事も考えず勢いだけで見えない悪魔に言い放った。



「だから、今君のいるこの場所は、君の夢の中じゃ無いんだって。」

それは出来の悪い子供をもった父親の様な、やるせない気持ちが籠った返答だった。



「君の意識体、いや魂といったほうが分かりやすいかな?

 それが君のいる世界から抜け出し、別の世界であるここ来ていると思って欲しい。」



「………ほんとうに?」

杏華は暫く周囲や自身を見みわたし、何度も首を傾げた後に言った。



別世界?魂だけ? 前にも似たような話を前にもされた気がするが

どちらにしろ証拠を見せられ無い限り、そんな話信じられるはずがない。



「まあ普通の人間には判断出来ないし、そもそもここは普通の人間がこれる場所では無い。」


「悪魔に誘なわれたのでない限りね。」



その一言に杏華は一瞬悪寒を感じた。



それを知ってか、声の持ち主は少し声のトーンを落としながら話を続けた。


「ここは神に封じられた悪魔が、唯一人間の魂を喰らえる場所だ。」


「!」


「悪魔はここに誘い込んだ人間の魂を喰らい、その魂の力を使い君の世界に実体化する。」



「君の世界に悪魔が居続けるには、多くの魂が必要だが

 こことは違い、君の世界なら人間の魂はよりどりみどりだ。」



「こうして悪魔は君の世界で人間の魂を喰らいつづけるのさ。」



魂を食べる?

それって死ぬって事!? そんな話聞いた事が無い!


悪魔の言う事を完全に信じた訳ではないが、死を連想させる言葉に恐怖を感じた。



「あなたも私を食べるつもりなの?」

杏華は辺りを警戒しつつ、相手に動揺を悟られまいと気丈に聞いた。



悪魔に魂を喰われたら、それは死んだも同然に違いない。



死…


ずっと遠い場所にあると思った死という概念が、突然自分の目の前に姿を現した様に感じられた。



返答を待ちながら、いつでも駆け出せる様に足に力を込めた。

この薄暗い世界で、どこに逃げればよいかは分からなかったが…。



「僕は悪魔みたいな物がだ、悪魔になって君の世界に行く気は無い。」

さっきまでの口調はやめ、何時も通りの聞き慣れた口調で言った。



「僕がなりたいのは『天使』さ」

そう聞こえた瞬間強烈な痛みで目が覚めた。





「痛い!」思わず叫んで辺りを見ると、そこには教科書の角で杏華の頭を一撃したであろう数学教師の井沢が冷たい目でこちらを見ていた。



「霧崎、ようやくお目覚めか。」

杏華はその言葉に、自分が置かれた立場を理解して焦った。


どうやら寝不足のせいで、授業中に寝ていたらしい。



「俺の授業がそんなに退屈なら…」井沢が杏華にそう言いかけた時、終業のチェイムが響いた。気を削がれた井沢は「いいか、次回はこれじゃすまないぞ」と言って教卓に戻った。



杏華は安堵すると、大きくため息をついた。


寝ている間に、また同じ夢を見た気がするが

それがどんな夢だかまったく思い出せなかった。



「また何時もの夢か…」

夢の内容が気になったが次の授業の準備に気が回り、直ぐに夢の事自体を忘れてしまった。





同じ頃、杏華の高校への通学路にほど近い廃工場に、1匹の猫が彷徨いこんでいた。


猫は当ても無くうろついていたが、廃屋の奥に光る何かを見つけ中に潜り込んだ。


そこには、幾つもの工作機械が並んでいたが、どれも蜘蛛の巣に覆われ、錆びの塊と化していた。


工作機械の並びの奥には、道具類をしまう棚が幾つもならんでおり、光りの出所はそこにあった。



それは棚の中段に辺りに、様々な工作機械のパーツと一緒に並んでいた。


猫は棚に飛び乗り、綺麗に光るパーツを興味深げに観察した。

光る物の正体は透明な容器にはいったベアリングの玉だった。



猫は容器を手ではじいた。容器は音を立てて棚から落ち、ベアリングの玉が周囲に音を立てて転がった。


猫は自分の立てた音に驚き、硬直して辺りを見渡した。

その時猫は見た、棚の奥に無造作に置かれた箱を。



箱は奥まった暗い場所にあるのに、何故か淡い光に包まれていた。

そしてその箱の中から、かすかな音がわずかに聞こえてきた。



猫は棚の上に飛び乗ると、箱に近づいた。

箱は反対側が開いており、箱の中に何かが入っている様だった。



猫が箱の中を覗き込むと、中には人間の首から上がスッポリおさまっていた。



美容院に置いてある、練習用のマネキンの様に首から下が無く

長い髪は箱の下に敷き詰められていた。



猫は好奇心に駆られ近づいていくと、その目が突然見開いた。

身体の無い首から上だけの人間の頭部、それが生きている様に動いたのだった。



猫は驚き棚を飛び降りたが、いつの間にか廃工場の周囲は真っ暗な靄に覆われ

周囲の壁や機械は、おぞましい不気味な形状に変貌していた。



猫は鋭い叫び声をあげると棚から飛び出し、一目散に逃げ出そうとした。


だが猫が飛び降りた先は、さきほどまでの固いコンクリートでは無く

ブヨブヨした生々しい何かでできた大きなすり鉢状の穴だった。



猫は傾斜のついた穴の壁を這いあがろうとしたが

壁に張り付いた粘液に足をとられ、蟻地獄に落ちた蟻のように手足は空しく空回りするだけだった。



叫び声をあげて慌てふためく猫の背中を、突如現れた巨大な腕の様な物が掴みあげた。猫を抱えた腕は異様に長く、その表面には異様な文様が刻まれていた。



猫を抱えた巨大な腕は、壁と同様に変貌した工作機械の前に立つと

機械上部についた透明なケースの蓋を空け、その中に猫を優しくいれた。



猫がケースの中から見ると、その何者かは非常に大きく

人間の背丈を大きく超えた巨体の持ち主だった。



そのシルエットは人間とは明らかに違っていた。

それはまさに異形といって良い姿だった。



その何かは首の入った箱まで移動すると、猫が入った機械が良く見える場所に置いた。箱の中の首は無表情のまま機械を見つめていた。


異形の物は何かを呟くと、工作機械のスイッチらしき物を押した。



工作機械は暫くするとブルブルと振動し始めた。

猫は透明なケースの中で警戒して辺りを見ていたが、突然金切声をあげて飛び跳ねた。ケースの内側は赤く染まり、猫は狂ったように暴れた。



振動する機械のケース内では、下からスクリュー状のパーツが回転しながら徐々にせりあがり猫の足や腕を容赦なく切り裂いた。



既に猫の手足は肘や膝近くまで削り取られ、飛び跳ねる事すらできず全身をスライスされていた。



ケース内に飛び跳ねた血は、上部から噴射される洗浄水で洗い流され

猫がに肉片になる様子がぼんやりと見えた。



暫くして工作機械が停止すると、化物はケースの蓋を空け

まだ原型を留めていた猫の頭部を取り出しすと、一瞥もせずに放り投げた。



猫の頭部は、さきほど猫がもがいていたすり鉢状の穴に転がり落ちた。



穴の中には様々な年代の人間の頭や、腕や足、もう原型をとどめていない無数の肉片が積み重なっていた。



まだ原型をとどめている人間の頭部は一様に苦悶の表情をしており、その苛烈な最後が想像できた。



「そろそろかもね…」

どこからともなく声が響いたが、その声を聞いているものは誰も居なかった。

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