第1章 第2話 過ぎ去りし日常

杏華の通う高校はこの辺では有名な進学校で、杏華の住む町から電車で15分ほどの距離にあった。


あまり勉強が得意でない杏華には、自分には縁の無い学校だと思っていたが

中学3年の春に、親友の遼子が受験すると知ると「私も受ける!」と宣言し猛勉強をし始めた。


最初は誰もが長続きしないと思ったが、それから約半年間に猛烈な追い込みを見せ

見事に合格を勝ち取ったのだ。



普段はやや抜けた感じのする杏華だが

一度覚悟を決めれば、類まれなる集中力と忍耐力を発揮する才能を持っていた。


その才能は普段は部活動にのみ活かされ、所属する陸上部では県大会の常連だった。


勉強は苦手だが、運動は得意を地でいく人間だった。


実の所、合格の決め手はテストの点数よりも、陸上で出した成果による所が大きいのだが、彼女がそれを知る事は無かった。



何時もよりも大分家を出る時間が遅れたため

いつも歩いていく駅までの距離を猛スピードで走り抜けた。


高校では早々に陸上部を引退し、帰宅部になってしまったので

走るのは久々だったが、身体を動かすことは元々好きなので少しも苦では無かった。


むしろ久しぶりに風を切って走る感覚に、気持ちよさを感じていた。


道行く人達を俊敏に躱しながら駆け抜ける彼女の姿は

サバンナを優雅に飛び回るガゼルの様にも見えた。



歩けば10分以上かかる距離だが、全速力で駆け抜けたため

ものの数分で駅にたどり着く事ができた。



駅のホームに入ると、ちょうど電車が着ており。

降車する人の波をかき分け、ぎりぎり遅刻しないで済む電車になんとか飛び込めた。



久々の運動で心地よい疲労感を感じながらつり革につかまる杏華に、同じ制服を着た少女が声をかけてきた。


「おはよう!」


声の方を振り向くと、それは中学からの友達である中野遼子だった。


中学で同じクラスになったのをきっかけに仲良くなり

今では一番の親友と言っていい仲だった。


杏華に今の高校を受験させる決意をさせた張本人でもある。



遼子は去年杏華が休学していた時も、辛く当たる杏華にめげずに親身になって励ましてくれた。今杏華がこうして立ち直れたのも彼女のお蔭と言っていいだろう。



「今日も元気そうだね。」

彼女は杏華の隣に来ると、髪を少しかき上げると可愛らしく笑って言った。



色素が薄めの長い髪は丁寧に編み込まれ、淡いピンクのかわいらしいリボンで纏められていた。



何時も折り目正しく品性方向で、いかにも良家のお嬢様という雰囲気の彼女は

寝癖すらそのままのずぼらな自分と明らかに釣り合っていないが、何故だか凄く気が合うのだ。



体つきもやせ気味でスレンダーな杏華と違い、制服の上からその豊満な肉体が想像できるほどグラマーで横に並ぶと自分の身体の貧祖さに泣きたい気持ちにさせられた。



だが、遼子に言わせると杏華のスリムな身体の方が羨ましいらしい。

確かにどんなに食べても太る事とは無縁な杏華の身体は、甘い物が大好きな遼子からすれば羨望の的なのだろう。



「遼子ちゃん! おやよー。」

全速力で走ったため、息が上がったままで返事をしたせいか、息が続かず少し間抜けな返事になってしまった。


「なにその挨拶……、ぷっ、ぷぷぷ」


笑い上戸な遼子は、杏華の間抜けな返答がツボに入ってしまったらしく

杏華にしなだれかかりならが笑い続けた。



まわりの奇異な視線を浴びながら、杏華は出会って早々友人を爆笑の渦に突き落とす自分の才能に戦慄した。



「もう杏華はあいかわらずだね…」

遼子は笑から立ち直ると、ハンカチで涙を拭きながら言った。



「えー、遼子ちゃんのツボが広すぎるだけだよ。

 この前も鬘の取れかかった人を見て爆笑してたし、つられて私まで笑いが…、ぷっ、ぷぷぷぷ」


杏華は反論したが、言いながら自分も思い出し笑いが止まらなくなった。


「ちょっと、あれはそんなんじゃ…、ぷっ、ぷぷぷぷ」

遼子は杏華を非難しながら、自分も釣られて笑はじめた。



笑いのドツボにはまってしまった二人は暫く身体を寄せ合い笑いあった。



高校生になりクラスも分かれたため、最近では朝にこうして話す以外は

会わなくなっていたが、会えばそんな事を感じさせずに楽しい時間が過ごせた。



お互いの最近の話や、遼子のクラスであった奇妙な出来事の話をしているうちに

電車はあっという間に杏華の高校がある駅に着いた。



駅では杏華達が通う高校の生徒が大量に降りるため、駅のホームは瞬く間に学生服の生徒達で埋め尽くされた。



「杏華、遼子おはよう。」その生徒の波から、別の学生が声を掛けた。

その子も今は別クラスだが、去年同じクラスだった友人だった。

三人で高校までの道すがら、それぞれのクラスの話で盛り上がった。




杏華の高校は、駅前のこじんまりとした商店街を抜け、緩やかだが長い坂を上った場所にあった。

一人だと少し憂鬱な登り坂も、こうして友達と話ながらだとまったく気にならなかった。



坂を半分ほど登ると、あたりの住宅街や小さな町工場が立ち並ぶ風景が見渡せた。


坂道の街路には桜の木が並び、その青々と茂った枝葉で坂道を登る学生たちに

心地よい日陰を提供していた。



まだ少し強い日差しは、木漏れ日となり隣を歩く友達を眩しく照らした。

光と影が生み出す美しいコントラストは、一瞬ある人物を幻視させ杏華ははっとした。



それに呼応するかの様に遼子が立ち止まると

「そういえば、去年は美夕さんも一緒だったね。」と寂しげに言った。



遼子のその言葉に、杏華は先ほど幻視した人物が誰なのかを確信し

去年の今頃同じようにこの坂を一緒に登校したある女生徒の姿を思い出した。



木漏れ日の下で微笑みながら杏華に話しかけてくれたとある先輩の事を。




美夕は杏華の1年上の先輩で、この高校では下手な芸能人より高い人気を誇る女生徒だった。


1年時から生徒会に所属し、その美貌と常に学年TOPに君臨する学力から

学校側からも一目置かれるほどの逸材だった。



杏華がその姿を初めてみたのは、杏華達の入学式で

彼女はそこで進行役を務めていた。



生徒は勿論、先生や保護者が見守る中、檀上で凜と振る舞うその姿は

杏華をはじめ多くの新入生を魅了した。



長い黒髪に少し釣り目がちな大きな瞳。

細見の身体に、すらりと伸びた長い脚。



芸能人やモデルと比較しても遜色ない見た目に加え

透明感のあるよく通る声が発せられる度に、杏華はドキドキと胸が高鳴ったのを覚えている。



一部の隙も感じさせない優雅な立ち振る舞いに加え

時折ウイットにとんだアドリブを交え、式の品格を損なわずに場を盛り上げた。



中学時代は陸上一筋で芸能人などには興味がなかった杏華だが

目の前に現れた学園のアイドルに一瞬で心を奪われた。



入学式が終わった後、真っ先にあれは誰なのかを遼子に問い詰めるほどだった。



遼子も残念ながら彼女の事は分からなかったが

式の後に教室に戻ると、誰も彼もが彼女の事について関心があるのが分かった。



上の学年に兄弟の居るクラスメイトが、得意げに彼女の事を語ると

クラス中から感嘆の声が漏れた。



てっきり最上級の3年生だと思っていたが、自分達と1年しか変わらない2年生だと知り杏華を更に興奮させた。




そんな学園の有名人が杏華達に声をかけてきたのは

ゴールデンウイークが明けてすぐの頃だった。



それまでは美夕を廊下で見かけては、勝手にドキドキするぐらいで、杏華とはなんの接点も無かったが、その日美夕のほうから杏華に声をかけてきたのだ。



美夕の第一声は今でも鮮明に覚えている。


「あなたが噂の陸上部期待のホープね。」


陸上部の活動を終え、バレー部の遼子が来るのを校門前で待っている時

突然声をかけられたのだった。



何の心構えも無い状態で、あこがれの人に声をかけられ

杏華の脳は簡単にフリーズした。



「中学時代は県大会の常連だったって聞いたわ。

 さっき練習で走っているの姿を見てたのだけど、すごく綺麗なフォームだったわ。」



呆然と立ち尽くす杏華を見て、寡黙なタイプと判断したのか

美夕は押し黙る杏華を気にせずそのまま語り続けた。



「うちって進学校でしょ。

 だからあんまり運動系の部活は盛んじゃないの。」


「かくゆう私も運動は得意じゃないしね。」

美夕はそう言うと、おどけて微笑んだ。



美夕の言動は杏華が持っていたイメージとはほど遠い、気さくなものだった。

それは杏華には嬉しい驚きだった。



普段杏華が見かける美夕の姿は常に隙が無く、少し近寄りがたい雰囲気を感じていたのだ。だが、それは杏華の先入観で決めつけたものだったのだ。



「だからあなたみたいな人に頑張ってもらって

 うちの運動部も、もっとやれるぞって所を先生達に見せて欲しいの。」



あの美夕先輩が自分に期待してくれている!

杏華は自分の中で何かに火が付いたのを感じた。


その熱は全身を駆け巡り、フリーズした杏華の頭を目覚めさせた。



「わ、私頑張ります! 絶対、絶対先輩に後悔させません!!」

杏華は叫ぶように言った。



胸に湧きあがった気持ちをそのまま口にしたため、意味の分からない返事になったが

当の杏華は気持ちが舞い上がってしまい、そんな事には気付きもしなかった。


「うん、ありがとう!

 あなたなら絶対できるわ!」


美夕は杏華の急な反応に少し驚いたが

直ぐに杏華の想いに気付き、杏華の両手を取って喜んだ。



その日は後から来た遼子も合流し、3人揃って下校した。


それからというもの、美夕とはちょくちょく一緒に下校したり

お昼も一緒にするようになった。


学校外でも一緒に遊ぶようになってからは

憧れの先輩から1つ年上の友達というほどまで仲が深まった。



なぜ美夕先輩は自分達とこんなにもに仲良くしれくれるのかと

不思議に思う事もあったが、気持ちが舞い上がったままの杏華は

それについて深く考える事は無かった。



ついこの間まで、憧れるだけの存在だった人とすごく親密になれた事で

杏華は今までに経験した事が無いほど舞い上がっていた。



どうしてこんな凄い人が自分達に付き合ってくれるのだろうと、戸惑いつつも誇らしく思ったものだった。

去年あの出来事があるまでは…



「先輩…」

杏華はそう呟くと、美夕との数々の思い出が関を切ったように溢れて来た。



「ごめん、私…」

遼子が突然自分が言ってはいけない事を言ってしまったと気づき、杏華に慌てて謝った。



「何言ってるの、美夕さんはきっと大丈夫だよ。だから…謝ったりしないで…」

言いながら杏華は胸の奥が締め付けれらる感覚に耐えた。



もう一年近く経つのに…、もう覚悟を決めたはずなのに…

未だに自分がこんなにも動揺している事に杏華は驚いた。



杏華はなんとか表面を取り繕ったが、みんなの表情を見れば隠し切れていないのはバレバレだった。



その後はみんな遠慮しがちな微妙な会話になってしまい、早く教室に逃げ込みたい気持ちで一杯だった。



結局その日は授業に身が入らず、午前の授業は半分上の空で過ごしてしまった。



別段頭が良いわけではないのに、受験勉強がたまたま上手くいったため

分不相応な学校に受かってしまった杏華は、授業についていくだけでやっとだというのに。



杏華の席は窓際で、日中の温かい日差しがやんわりと降り注いでいた。

そんな陽気と寝不足のせいで、授業中に何度もウトウトしてしまった。



昨日読んだ夜更かし用の小説が思いのほか面白く

気が付いたら新聞配達バイクが走る音する時間まで起きてしまっていたのだ。



3時限目の数学になり、眠気はピークに達した。



寝たらだめだ、寝たらだめだ、必死に眠気に抵抗したが

温かい日差しと、少し開けた窓から吹き込む涼しい風は、あっという間に杏華を眠りに落とした。



…あれ、ここはどこだっけ…



杏華は気が付くと濃い靄に覆われた場所にいた。

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