埋火
第二〇三航空魔導大隊には秘密の連絡網がある。
秘匿呼称〝気象情報〟というそれは、副長、副官を起点として極めて重要な情報として大隊長を除く大隊将兵に伝達されている。今ではサラマンダー戦闘団の幹部士官らもその連絡網に組み入れられており、毎日の生活の質を改善するために大いに役立っている。
その日、統一暦一九二七年五月二八日。東部軍前進拠点へと将校伝令の受領に出かけていた戦闘団長殿が帰還した際にセレブリャコーフ中尉から発せられた〝気象情報〟は『嵐』。即座に二〇三将兵は襟を
訓練は適切に行わなければならない、というのが二〇三での鉄則であり、訓練には目的と手法と評価と反省が伴わなければならない。大隊の予算を消費するものでもあるから、決済者が瑕疵を見出すような計画などは出さない方がマシというもの。特に〝気象条件〟が悪い時に無意味な訓練計画など出せば、自分が落雷の被害に遭うこと請け合いである。
その点、二〇三配属から二年となるグランツ魔導中尉には、経験と同僚という力強い味方がある。今大隊に必要とされている訓練を嗅ぎ分けることができる程度には練達している。
「うん、やはり歩兵直協訓練だな」
この訓練の良いところは、一つの訓練でグランツ中尉、ヴュステマン中尉、トスパン中尉の士官三人とその部下が駆り出されるところである。グランツはヴュステマン、トスパン両中尉の教育を指示されているところであるし、未だ手際の点で見劣りする両名を教導することは先任の義務でもある。何より、彼らと彼らの部隊が精強になることは、サラマンダー戦闘団にとって絶対必要なことなのだ。
理論武装完了。
大掛かりな訓練は後の講評や報告書の作成などが面倒なのだが、一人では大変な作業も三人で分担できるのも良い所だ。
書類を抜き出して日付を記入し自署を
「士官総呼集!」
士官室に飛び込んできた僚友の言葉に、グランツは天井を仰いだ。
書類が無駄になった。でも自分一人が貧乏籤を引くのではなくてよかった、と。
畏れ敬わざるを能わざる我らが戦闘団長殿が苦虫を噛み潰した表情をしている時に朗報を期待するのは、夏に雪を求めるほどに愚かしい。
凶報の一つ目は、一箇魔導中隊の分派であった。
サラマンダー戦闘団の将校全員が、それによる戦力低下に
そして二つ目は、ソルディム528陣地への進出である。
「一個魔導中隊を欠いた状態でですか⁈」
次席指揮官のヴァイス少佐が驚愕したのも無理はない。通常、部隊分派となれば次席指揮官が分遣隊の指揮を採るものだ。作戦行動中の別行動とは異なり、一時的にも指揮系から外れる以上は、相応の指揮権の持ち主でないと不都合が大きい。規模は中隊でも、序列的には大隊に近いのだ。
しかし、サラマンダー戦闘団から次席指揮官であるヴァイス少佐が抜けるというのは、単なる戦力低下に留まらない問題が生じる。
そもそも臨時編成を旨とする戦闘団では、その指揮系統における冗長性が著しく低い。中佐が一人、少佐が一人、大尉が二人、という構成は、連隊規模の部隊編成としては異常とも言える少なさだ。
戦闘団長が戦闘団の指揮に専念しようと思えばヴァイス少佐は第二〇三航空魔導大隊の指揮を採らざるを得ず、中佐が二〇三を直卒してしまうと留守指揮官が砲兵大隊長であるメーベルト大尉に預けられることも珍しくない。
最近物凄い勢いでメーベルト大尉の指揮能力が向上しているとはいえ、次席指揮官として過不足ないかと言われると厳しい。特に魔導大隊の指揮を採れない点は如何ともし難い。中佐が戦闘団の指揮を採ろうと思えば魔導大隊を指揮できる将校は必須なのだ。
中佐が下した判断は、分遣隊指揮官にグランツ中尉を宛てる、というものだった。
不安そうな眼差しがグランツに突き刺さる。
「しかし、その……大丈夫でしょうか」
中佐の判断は理解できる。大隊の戦力損失を許容範囲内に留め、かつ分遣隊として先方に受容してもらえるギリギリのバランスを考えた結果だろう。
歴戦の第二〇三航空魔導大隊の中でもグランツは初期メンバーではない補充組であり、部隊の損耗よって繰り上がりで中隊長の任を任されてはいても、なかなか一人前の扱いを受けていないところがある。ヴュステマン中尉の補充中隊を分遣するのが練度的に論外である以上、選択肢として理解はできるのだが。
ヴァイス少佐の顏には大きく「不安」と書かれていたが、グランツは敢えて明るく、場を和ませようと口を開いた。
「中佐殿の信任に背かぬよう、全力を尽くします!」
打算がないと言えば嘘になる。この分派が大尉昇進への足掛りになると心の中で囁く声があったことは否めない。士官の出世レースは中尉からが本番だ。実のところ戦功は勳章には繫がっても、昇進には繫がりにくい。実績を積み上げ、指揮能力を証明していくことが昇進への評価に繫がるのだ。
俗にピーターの法則と呼ばれる出世と能力の不均衡問題を未然に防ぐため、帝国軍はその能力を証明した者にだけ昇進の道を啓く。サラマンダー戦闘団の将校の階級が全体的に不足気味なのも、結局はその原則が未だに厳守されているからだ。ここで自分に能力を示すチャンスが訪れたことが、グランツには魅力的に思えたのだ。
ヴァイスに言わせれば、そういう所が不安なのだ、ということになるのだが、ともあれ命令は発令され、グランツは意気揚々と中隊を率いてサラマンダーに一時の別れを告げたのだった。
東部方面B集団司令部に出頭し、暫しの右往左往の後、グランツは求める人物に出会うことができた。
背筋を正し、敬礼して発唱する。
「サラマンダー分遣中隊、ヴォーレン・グランツ中尉以下一二名、只今到着いたしました!」
「うむ、ご苦労」
鷹揚に頷くゼートゥーア中将を見た第一印象は、将軍らしくない、というものだった。野戦指揮官にありがちな猛々しさ、荒々しさは感じられず、むしろ学究の徒と言った面差しで、グランツを観察する視線も分析的だ。
「任務は聞いているかね?」
「はッ。閣下の護衛として指揮下に入るよう仰せつかっております」
護衛として指揮下、か。申告を受けたゼートゥーアは内心笑う。建前上護衛なのでゼートゥーアの身側から離れることができないくせに、指揮下に入って自由に使われろという矛盾に思い至っていないらしい。ゼートゥーア程の職位となると中尉程度に命令を直接出す機会など滅多になくなるが、なるほど、上手く使わないと当意即妙には動いてくれない駒というわけか。
一介の魔導中隊長に期待し過ぎだな。
どうも魔導兵科に疎い上に、普段接している魔導士官のがアレなので、少々基準に狂いが生じているのだろう。
「よろしい。では別命あるまで待機だ。出動の前には連絡する」
「は! 待機に入ります!」
そんな評価を受けているとは夢にも思わず、グランツは再び敬礼して、執務室を後にする。
集団司令部内に用意された二〇三分遣隊の待機室に戻ると、先に宿舎に荷物を置いてきた中隊員が、既に武器の整理を始めているところだった。
「我々は待機ですか?」
「命令はな」
中隊先任下士官である准尉にグランツは頷き返し、しかし、と続ける。
「実際の護衛任務に着く前に時間が得られたと考えよう。手分けをして兵要地誌の確認や、建物の構造、周囲の状況、友軍配置を掌握したい」
「それは大切ですな」
准尉が同意してくれたことに、グランツは内心安堵する。
彼に付けられた中隊先任下士官がV六〇一生え抜きであることの意味は、彼自身よく分かっている。中隊長として未熟だった自分をよく支えてくれ、そして今は中隊をまとめる代えの利かない右腕だ。
「どうも中将閣下は、ここは安全だと思っておられるらしい」
名状しがたい表情が中隊員の顏に浮かぶ。
相手が尉官なら暴言を吐いていただろうが、流石に相手が中将ともなると遠慮するものらしい。
「B集団の首刈り対策を確認する必要がありますね」
次席の小隊長が唸る。
「司令部内だからと油断して出歩かないよう、釘を挿すべきだったのでは?」
「流石にその程度は弁えておられるだろう」
東部、というものに対する中央の一般理解は相当低いが、それでもあの戦闘団長殿の上官なのだ。
「戻ったら護衛のフォーメーションを検討しよう。少し負荷は高いが、旨い飯が食える対価だと思って諦めてくれ」
「ははは。原隊の連中に恨まれない程度に仕事をするとしましょう」
暫くは野戦炊事でも戦闘糧食でもない、ちゃんと調理場で調理された料理が食べられるのだ、と中隊員はその点だけは自分たちの境遇を祝いで、仕事に取り掛かるのだった。
東部方面B集団司令部の防衛体制は危惧していたよりは堅固であり、その点は分遣隊員を安堵させたが、それでも東部が全体として空隙だらけであることには変わりはない。
測量部から地図を入手し、中隊員が集めた情報を書き込み、その上で全員で体制を検討する。その後は要人警護のフォーメーションの検討。これも普段することではないので駒を使っての図上演習を散々に繰り返す。
「やはり、一箇小隊の防禦膜で閣下を包んでしまい、残る二箇小隊で優先脅威を積極排除、という形が基本でしょうな」
「亀になっても得はなし、か」
護衛という任務なので一箇中隊で防禦陣形を作ることも想定してみたのだが、増援なしではジリ貧になるだけだった。
一撃を凌いだ段階で要人を後退させ、もう一方の手で脅威を排除する。最悪の場合は中隊全力で要人を抱えて離脱。これが順当と言えそうだった。
「小隊の防禦膜が飽和する程の攻撃がなければ、このバリエーションで対処だな」
グランツが全員の意見をまとめる。
「明日から護衛訓練で地べたを這いずり回ることになるから、覚悟するように」
グランツはこの後訓練計画の策定と、需品の手配に司令部内を駆けずり回らなければならない。
とはいえ、自ら買って出た苦労だ。ここで意気込みを見せ、実績を上げればグランツの未来は明るくなる。
「あと、通常の技倆維持訓練も欠かさないからそのつもりで」
うえー、と中隊員から訓練が増えるのか、と怨嗟の声が上がるが、これは半ば冗談だ。訓練不足で死ぬくらいなら訓練で死ね、というのが第二〇三航空魔導大隊の掟だ。原隊復帰した時に技倆が落ちていたなどと評定されたら、中佐殿に何をさせられるかわかったもんじゃない。
彼らは常在戦場を心がけるプロフェッショナルなのだ。
とはいえ、常在戦場では望み得ないものも司令部にはある。
彼らの労働に報いる質と量が、司令部の食堂には備わっているのだ。マウルタッシェのような手の込んだ料理が味わえる上に、魔導師用の増加食も規定通り提供される。
近年の前線では望み得なかった好待遇だ。
食事から戻った待機室では、中隊員が口々に調理員を褒めそやした。
「こういう食事も役得というものですな」
「案外、中佐殿もご自分こそ分遣隊を率いたかったと思っておられたのかも知れませんね」
「おお怖い。味わった分は働くことにしましょうや」
とは言え、その二週間後に彼らが叩き込まれる戦場は、到底それどころの騷ぎではなかったのだが。
正式に分遣の任を解かれた二二日。少ない荷物を司令部から回收してソルディム528陣地へと戻ったグランツたちを、中佐が会談中ということでヴァイス少佐が迎えてくれた。
「サラマンダー分遣中隊、ヴォーレン・グランツ中尉以下一二名、現刻を以って原隊に復帰いたします」
「任務ご苦労だった」
とはいえ、一八日以降実質的に二〇三に復帰していたので、飽くまで形式の話には過ぎないのだが。
「さてグランツ中尉、分派中の報告書の提出という喜ばしいお仕事を早速こなしてくれたまえ」
「ははは。日誌は書いていましたが、まとめるのには苦労しそうです」
「ほう、そんなに困難な任務だったかね」
「何と言いますか……」
最初の裡は、食事の美味さに感動していられた。続く待機の間には、ソルディム528陣地の戦況を聞いては焦れる日々を送らされ、そして最後は……。
「さすがは中佐殿の上官であらせられるな、と」
グランツは特段の意図を込めて、中将と中佐が会談している建物に視線を飛ばす。今あそこは人外魔境に違いない。
彼らの戦闘団長も大概だが、そのさらに上役である戦務参謀次長閣下は輪をかけて無茶な要求を強いてくる方だった。中将ほどの階級の人間から直接無理強いされると、下っ端尉官としては抗う術がない。嫌らしいことに、向こうはそれを承知で横車を押してくるのだから始末に負えない。
「いくら食事が美味くても、あの閣下の下でもう一度というのはご勘弁願いたいです」
分遣前の甘い考えなど吹き飛んだグランツは、万感の思いを込めてあのようなストレスフルな職場はもっと階級が高い人が担当すべきだと訴えた。
「まあ、美味い話には裏があるものだ」
グランツの、まさに甘い考えに苦い笑いを浮かべながら、ヴァイス少佐はそう引き取った。
中将という雲上人、しかも参謀将校などという悪魔の親戚と面識を持つということは、否応なく面倒事が降ってくるようになるということだと、いつ彼は気づくだろうかと思いながら。
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