渡舟
間々史絃
平太の物語
冬の雪解け水で水かさの増した川面を、白鷺がつうと撫でるように飛び上がり、春霞の空に消えて行く。白鷺の消えた川面には、上流から流されてきた桜の花びらが、いくつも、いくつも小舟の前を過ぎて行く。
それを小舟の上で眺めていた平太は、盆の回転燈籠のようだなあ、とぼんやり夢見心地であった。
平太は生まれた時から、この川とともに育った。だから、川が夏の嵐に怒り狂ったように荒れる時も、秋の赤く染まった山々を映し出す時も、冬の氷の張りそうに、透明度が増す時も、この川が大好きであった。
渡し舟の船頭である父とともに、幼い頃から平太は日に何度も川を上り下りしてきた。その父が亡くなったのは、平太が十五の時だった。
あの日も今日のように穏やかな川面であった。十五歳の平太は川向こうの山にある寺へ、和尚様を呼びに、初めてたった一人で舟を漕いで出たのだった。
寺へ向かった行きの途は、明るいうちであったので、平太も難なく舟をこぐことが出来た。
しかし、和尚様に父の葬儀を頼んだ後の、薄暗くなった帰りの途は、うまくいかなかった。
平太は、暗くなるにつれて、川の流れがいつものものから、全く変わってしまったように感じていた。
舟を漕ぐ手には汗をかき、目は霞み、耳には川のごうごうという音ばかりが轟いていた。体に嫌な力が入り、うまく漕ぐことが出来ないし、振り落とされそうな恐怖を抱いていた。
そんな時、川の対岸に提灯の行列が通って行くのが見えた。どうやら葬列のようであった。黒い紋付をきた弔問客がしずしずとどこかへ歩いて行く。おかしいことに、彼らにはふさふさの尾が生えていた。
「狐狸たちだ!」
平太は亡き父の言ったことを思い出した。
『ここらには昔から、狐や狸がよく化けて現れる。俺も昔会ったことがある』と。
平太は、「狐や狸が挨拶にくるつもりなのだろうか」と少し可笑しくなった。
提灯をいくつも揺らし、可笑しな弔問客たちは、川面に光を当てる。すると、狐火なのだろうか、青白い光で川面が明るく照らされ、昼光の下のように浮かび上がって見えた。
平太は明かりを頼りにして、ついに岸に舟をこぎつけた。その瞬間、狐火も、弔問客の姿も、おびただしい提灯の灯も闇に消えたのだった。
その話をすると、平太の集落の仲間達は皆口を揃えて、「親父さんをばかしたことを詫びに来たのだ」と言った。そして、「どんなに獣だの、畜生だのと言っても、恩義というものがあるのだろうかねえ」と、小首を傾げるのだった。
あの十五歳の平太が父の葬儀を無事に出してから、十八年が経っていた。
桜は変わらず川を薄桃色に染め上げているが、平太にはすでに嫁がきて、子らができていた。平太は大人になっていたが、それでもこの川が大好きだった。恐ろしい思いはしたが、そこもまた川の一面だと感じていた。
夕暮れ近くなり、そろそろ家に帰ろうかという頃、平太に声を掛けてくる者があった。それは、年若い女であった。
黒々と長い髪を後ろで束ね、笠をかぶり、守り袋を首から下げた上品そうな女で、身分あるどこかの姫であると言ってもよさそうである。
ただ、おかしなことに、連れのものはないようだった。
「向こうの岸まで渡していただけませんか」
女は三文銭を平太に渡すと、足音も立てずにしずかに舟に乗り込んだ。
「揺れますから、お気をつけくださいよ」
平太と女を乗せた舟が、岸を離れる。
ぎい、ぎい、と櫂の音。大量の水の流れる、ごう、ごう、という音。時々どこかで魚が跳ねる音も混じる。平太が口笛を吹き始める。春の風が心地よく平太の頬をなでる。花びらが舞い、小舟に小さな影を落として消える。
「いい気持ちだなあ」
平太は、相槌を求めて、振り向く。が、平太は何も見なかったかのように、再び前を向く。
口笛を吹くのも忘れて、平太はいま見たものが信じられない、と言った風に目を見張っていた。
もう一度、そっと女を横目で見る。
女の尻には、ふさふさの茶色い毛の、尾が生えていたのである。
平太は十五歳の頃のことを思い出さずにいられなかった。
狐も狸も、化けるということを、思い出していた。
(これはどうしたことだ。尾からみると、この女は狸だぞ)
平太は先ほどもらった三文が、果たして本物だろうかと考え始める。三文でなければ、川を渡してやる義理などない。それに、もう暗くなるのだ。人でないなら、川に蹴落としてでも、とっとと帰ったほうが自分のためにも良いのではないか。このまま川を渡して、自分が無事でいられるかもわからない。
(いや、でも……)
脳裏に浮かぶのは、青白い狐火に染まったあの日の川。
(獣たちにも、恩義や詫びの気持ちはあるのだろうか)
平太は、意を決すると、女の方に顔を向けた。
「これからどちらへ行きなさるのですか? もう暗くなりますのに」
女は一瞬驚いた顔をして、平太の目を見つめ返した。女の目には、涙が浮かんでいる。尾は、すでに仕舞われていた。
「山の上のお寺へ参ります。和尚様がお病気だと噂で伺ったものですから」
今度驚くのは、平太の番であった。
「えっ、では、あなた様は、和尚様にご用事だったのですか」
「はい。幼少の頃、うっかり猟師の罠にかかってしまったのを、助けていただいたことがあるのです。ですから、ご恩返しに伺いたいのです」
そう言って、女はさめざめと泣くのだった。
平太はその女に化けた狸の律儀さに感服して、正体に気づいたことを黙ったまま、対岸に舟をつけた。
すでにあたりは暗くなっており、風が出てきて、冷たい空気に変わっている。ざわざわと木々が揺れ、黒々とした影を震わせる。
「お気をつけて」
平太が女の手をとって舟からおろしてやると、女は平太に深々とお辞儀をする。
「お気付きのこともあったでしょうに、お助けくださりありがとうございます。お渡ししました三文は、確かに三文でございます。どうか明日の朝早く、もう一度私をこちらから、元いた岸にお渡しくださいますか」
深々と頭を下げる女に、平太は「ああ、いいよ」と笑いかける。顔をあげた女は、目を丸くして驚き、それから愛くるしい笑顔を見せた。
「ありがとうございます。帰りの三文を、先にお渡ししておきます」
なんども何度も頭を下げて、それから、女は寺に続く道へと走り去った。
「なんとも、不思議な縁だなあ」
平太は慣れた手つきで、すっかり暗くなった空の下、舟を漕いで帰るのだった。
翌朝早くから、平太は狸が化けた女を待って、岸で朝靄が川の上を漂い流れるのを見ていた。
次第に朝日が黄色い光を増し、川霧が消える。
女はまだ来ない。
透明な春の日差しが川面の上ではね初めても、女はこない。
夕暮れ近くなって、平太は不安になってきた。
もしや、あの律儀な狸に何かあったのではないだろうか。
寺への道を平太は急ぐ。あの十五歳の日のように、胸が重く苦しい。日は落ちかけ、影となった木々が覆いかぶさるように平太を急かす。動悸が激しく、耳の中でわんわんと鳴る。平太は、父親の面影をまぶたの裏に見ていた。それから、狐火に照らされた川と、黒い紋付をきた異形の葬列。
山門の前に来たとき、平太は自分の勘が正しかった事を知った。
「遅かったか……」
ひどく打ち据えられた狸が、山門の前にぐったりと倒れていた。
息を荒くしたままに、平太は狸を抱き上げる。狸の体は、ぐんにゃりとして、力なく平太に抱きしめられた。うっすらと、狸が目を開ける。
「夕べ、和尚様がお亡くなりになりそうだと伺ったものですから、私は一生懸命に山門の外で読経させていただいたのです。すると、寺男が私を中に招きました。それで、和尚様のお側にいられるのがただ嬉しくて、一生懸命、一心に読経させていただいていたら——尻尾が出ていたみたいです。ふふ、失敗です」
「お前さん……。なんということだろう、俺がお前さんを、いっそ舟から蹴落していれば」
平太は止まらない涙を拭う事もせずに、狸に謝る。
「ごめんよ、ごめんよ」
狸は、にっこりして、言った。
「私の望んだ事です。後悔などしていません」
丸顔の可愛い狸は、涙を一筋こぼし、幸せそうに目を閉じた。
平太は、事の次第を和尚様に告げたかったが、危篤の和尚様に告げる事もできず、狸を黙って寺近くに葬る事にした。
「お前さんにもらった行きと帰りの三文が、ちょうどあちらの川を渡る六文銭になるなんて……」
木の葉でくるむと、平太は六文銭を狸と一緒に埋めてやる。
寺が騒がしくなり始め、読経が聞こえ始める。
平太は、とぼとぼと山道を下る。真っ暗な山道で、誰もいない闇が平太を包む。平太は初めて、声をあげて泣いた。怒声交じりに叫び、大きな声で泣いた。
ふと気づくと、目の前を葬列が通って行くのが見えた。誰も提灯をつけていないのに、ほのかに白く浮かび上がって見える。
「これは、幻なのか」
平太はふらふらと立ち上がる。葬列は、山の上の方へと登って行く。
「和尚様を迎えに来たのだろうか」
平太は山頂の寺を見上げる。光はお堂の上に集まると、すうっと、煙のように立ち上り、消えて行った。
見上げると、空には一面、星が輝いていた。すいっと、流れ星が一つ走る。それを追いかけるように、いくつも、いくつも、星が流れた。
平太は涙を拭うと、いつもより明るい星明かりの下で舟を漕ぎ、家路に着く。
平太は家に帰ったら、このことをすっかり子供らに話そうと決めていた。
六文銭を置いて来たことを嫁に言えば、平太は怒られるだろう。が、あの立派で悲しい狸の話をしないままではいられない気持ちだった。
ぎい、ぎい、と舟は川面を滑っていく。川霧が立ち込め、どこかで鳥がギィギィ、ギチギチと鳴いている。夜の桜は灰色に散っている。
静かな夜の川を、小舟が渡る。
平太は川をわたることを、生まれてはじめて、悲しいことだと思った。
渡舟 間々史絃 @sizurumama
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