十九世紀 その③

 前回と前々回では、パリとベルリンで行われた売春統制について述べていきました。では、ヨーロッパの他の都市ではどうだったかというと、多くは細部は異なるけれど似たような制度を採用していたそうです。

 娼婦の登録について例を挙げると、パリやベルリンでは既婚の女性でも強制的に登録できたけれど、ブダペストでは夫の同意が必要だった。またミュンヘンやウィーンでは、たとえ本人の同意があったとしても、既婚の女性を娼婦として登録することはできなかったとか。検診の頻度においても同様に、五日に一度の検診を義務付ける都市があれば、月に二度でよいとする所もあるなど、結構まちまちだったようです。

 こんなんで本当に性病の蔓延を予防できるのかなと思ったりしますが、そもそも当時の識別技術は極めて不正確でした。加えて検診自体ずさんだったし(八十六人の検診を一時間足らずで終わらせたこともあるらしい)、前々回述べたように検診が原因で感染が広まったりしていたぐらいです。つまりはっきり言って検診をやる意味なんてあんまりなかった。まあ、やらないよりは公権力の体面を保てるでしょうが。だったらなぜ検診が行われ続けたのかというと、その理由の一つは軍当局にありました。


 前々回述べたように、ナポレオン戦争――つまり軍隊の移動は性病が広がる原因となりました。軍隊の間に性病が広まると、兵士は使い物になりません。でもなぜ軍隊で性病が蔓延するかというと、兵士が性病に感染している女性――多くは売春婦と性行為するからです。ではなぜ兵士が性病に感染する危険を冒してまで娼婦を買うかというと、男はおセッセを必要とし求めるけれど、良家の(性病に罹ってない可能性が高い)女性は伴侶以外との性行為に応じないから。だから売春は必要とされるのです。

 と、いうように、当時のヨーロッパでは考えられていたそうです。ま、本当は兵士が性欲を我慢すりゃあいいんでしょうけど、そんなことは不可能なのだとこれまでの歴史が証明してますもんね!


 ヨーロッパ各国の軍当局の性病への警戒心が大きくなりゆく最中、イギリスでも娼婦の検診制度によってこの問題を解決しようとしていました。しかもイギリスはこの問題を各地の役人任せにせず、国会の議題に挙げ、1864年、1866年、1869年に伝染病予防法という一連の法を可決しました。では、以下でその内容について触れて生きたいと思います。


 1864年の法律は、三年をめどに設置された、最初の法律でした。この法律では、十一の指定された港町の娼婦の監督を海軍省と陸軍省に委ねることで、陸海両軍の駐屯地における性病の蔓延を予防しようとしたのです。指定をうけた市では、公娼と密告されたり、警察が公娼だと判断した女性に、市の認定病院で医師の診察を受けるよう軽罪判事が命じることができました。自発的に診察を受けるのを拒む女性を強制的に拘留することも可能で、病気持ちだと判明している娼婦を匿う者は罰金を科せられるか、投獄されました。


 1866年の法律は、1864年の法律を補い、拡大するためのものです。1866年の法律により指定地域は一つ追加されました。また、娼婦の登録制度ができあがり、定期的な医師の検診も必要となりました。

 検診に引っかからなかった女性には性病に感染していないことを示す証明書が与えられます。逆に感染していると判明した女性は、軽罪判事の審問もないまま六ヶ月拘留されることもあったようです。


 1869年の法律では更に六つの地域が追加され、拘留期間は九か月に延長されました。それだけでなく、取り締まりを強化するため特別警察が設置されました。

 特別警察は娼婦が検診を受けているのかチェックするのが仕事で、私服で大衆、特に貧しい人々の間をパトロールしました。一旦娼婦として登録されると正規の厳しい手続きを踏まなければ名簿から名前を削除してもらえず、しかも娼婦であるかどうかに関わらず検診を受けるよう命じられることがあり、断れば投獄されたそうです。が、この検診も一回に三分から五分しかかけないというずさんなもので、成果はほとんどありませんでした。それどころか、最終的には性病発生率が増加するという始末です。しかも警官が娼婦ではない女性をゆすったり、脅したりしていたそうだから、もうやらない方がましという他ありませんね!

 

 警察は貧しい女性ならばほとんどを娼婦として登録しました。読み書きのできないか、年若く「娼婦」というのがどんなものなのかすら分からない女性たちが、自分は娼婦であるという書類にサインするよう求められていたのです。

 一度書類にサインしてしまえば、それが事実に反するものだとしても、訂正することはほとんどできません。また真実娼婦であった女性が、売春をやめ他の職に就くか結婚を望んでも、登録を取り消す唯一の方法は軽罪判事の認可を得なければなりませんでした。つまり、認可を取り消すのは極めて難しいことだったのです。


 こういった実情もあってか、三つ目の伝染病予防法が成立したまさに同じ年に、統制の方針に異を唱える団体が二つ結成されました。そしてそれから十年間法の廃止を求めるキャンペーンが繰り広げられ、活発化してきた女性解放運動やこの法律の階級差別的な性格に対する労働者の怒りの声、医学と法律の両面からの論議などの後押しもあり、1883年には娼婦の検診の義務を非難する決議案が通ったのです。が、法律そのものが正式に廃止されたのはそれから三年後のことだったのだとか。

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