十九世紀 その④
前回述べたようにイギリスは売春の統制を目指し失敗しましたが、当時のヨーロッパの他の国も似たり寄ったりの事情を抱えていました。結局のところ、統制したところで目的――性病の減少、私生児の出生、売春と売春に関わる悪弊の抑制・除去は果たせなかった。それに、統制は効率がいい売春対策ですらなかったのです。なぜなら当時の警察がどんなに努力したところで、多数の娼婦が登録から漏れるのは自明の理だったから。
そもそも売春によって、当時の経済活動や産業活動に支障が出たわけではなかった。不潔な下水やコレラに結核を始めとする当時の病気に比べれば、国民の健康をさほど害したわけでもなかった。ではなぜ、売春婦の登録制はこれほど多くの支持を得たのでしょうか。その理由は、十九世紀に起った社会変革の性質にありました。
既に十八世紀に変革が進んでいた国もありますが、十九世紀は大都市の発達やそれに伴う社会秩序の崩壊によって伝統的な生き方が揺さぶられた時代でした。だからこそ売春は、前述したように当時の社会にさほど大きな影響を与えたわけでもないのに、病める都会の象徴として槍玉に挙げられたのです。他の、アルコール中毒やポルノグラフィー、子供の虐待といったはっきり目に見える都会の悪と一緒に。当時は原因の大半が分かっていなかった社会不安の根本原因に対処するよりも、「都会の悪」を糾弾する方が簡単だったから。つまりスケープゴートですね。いや、確かに対処すべき事柄ではあるのですが、こと売春に限って言えば対処の仕方が間違っているとしか言いようがないような……。
これは私の根拠のない推論ですが、スケープゴートの役割は中世ヨーロッパではユダヤ人が担っていたのではないのでしょうか。ペスト流行の責任を被せられ、ユダヤ人が迫害されたように。まあでもそれはヨーロッパに限ったことではなく、日本人だって、関東大震災の後の混乱の中、デマに踊らされて朝鮮人を虐殺したりしていますから、そもそも人間とはそういう生き物なのでしょう。
そう言う訳で、当時の自称改革者先生方は人々に社会の悪について認知させるため、娼婦になる原因を考察したりなどしていましたが、本当の原因に辿りつけた者は少なかったようです。
なお、当時のヨーロッパである女性が娼婦となる原因には、経済上の理由や社会的混乱の影響の他、当時の結婚の形態も関係していました。例えばオーストリアでは、読み書き能力の向上を図るという目的で、1821年に読み書きそろばんのできない男性は結婚できないと議会で決定されました。
上記の法律、目的自体は大変殊勝なものかもしれません(読み書き能力向上させたかったら、無償の学校を建てれよって話ですが)。が、結果的には、売春や法律外の(つまり婚姻関係にない男女間でのという意味か?)性関係を助長させることになったそうです。いやほんと古今東西の政府って、全く「分かってない」ことしでかしてきたんですね! ここまでくると笑えて来る! まあ、当時の政策を立案する側は貧しくて教育を受ける余裕もない人々の事情なんて分からないだろうし、分かろうともしなかったってことでしょうね。でもそれは現代社会でも同じだから。
ところで、十九世紀の研究者先生方の大半は売春を下層階級の問題として捉えていたのですが、これは奇妙なことだと思いませんか。確かに、大半の娼婦は下層階級の出です。しかし他の商売と同じで、売春だって買い手がいなくては成り立たないのです。そして、当時の下層階級の男性には足しげく娼館へ通うゆとりなどないから、娼婦の客とは大抵中流もしくは上流階級、もしくは専門職に従事している男だということになる。
だからこそ当局は売春統制や娼婦の検診に関心を寄せたのでは。統制とは、下層階級に対して上流階級が抱いていた不安――性病を感染させられたらたまったものではないに対処するための方法ではないのか。当時の人々も実は、このように考えていたのです。
いやあ、本当にクソみたいな事情ですよね。色々対策してたのは結局、自分たちの身可愛さなのかよ、という。性病に罹るの怖かったら、自分の性欲を制御すればいいだけの話だし、そうした方が確実に安全だし楽なのに。人間の醜さここに極まれりって感じ。
未来の花嫁の親が課題な経済的要求を持ち出すようになったため、十九世紀には男性の結婚年齢はどんどん高くなり、三十過ぎまで結婚しないことも多くなりました。となると、もし仮に結婚できたとしても、子供を沢山作ろうとは考えません。そりゃ、子供が成人する前に自分が死ぬかもしれませんしね。
そうなると男性たちは子供の数を制限するため娼館に通うか避妊具を使うかするかないのですが、当時のヨーロッパでは避妊具を使うのは売春よりも悪いことだと考えられていました。ま、宗教上の事情ってやつですね。
となると、当時の残された時間は多くはないけど余裕はある殿方は、性欲のはけ口を下層階級の女性に求めることになります。人間の尊厳が富や地位といったもので測られていた時代、下層階級の女性が自分たちより上の立場の男性を拒むのは困難なことでした。同じ下層階級出身者が多い警察も、彼女たちを助けてはくれません。
だから当時の貧しい女性は、もういっそ売春で生計を立てようと決意したのです。もしかしたら上手く金持ちのパトロンを捕まえて高級娼婦になれるかもしれないし、もっとありえないことだけれど王侯の愛人になれるかもしれないから。
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