梅毒 その②
梅毒がおセッセによって感染することが分かると、丁度宗教改革の時期と被ったということも相まって、売春に対する激しい反発が起きました。1536年には神聖ローマ帝国議会が婚姻外の性行為の全てを禁止。次いで官警が取り締まり条約を次々と発布したため、処罰は厳格化していくばかりでした。
神聖ローマ帝国以外の国も売春撲滅運動に加わっていき、ロンドンやパリでは公営の売春宿が閉鎖されていったりしました。娼婦に対する処罰もだんだんと厳しくなっていき、特に酷い場合(フランスのトゥールーズで十八世紀になっても行われていた刑)だと売春したとされた女は市庁舎に引っ立てられ、後ろ手に拘束されてからの市中引き回し。その上、裸に剥かれて鉄の檻に押し込まれて溺死寸前になるまで川で水責めされたそうです。しかも水責めは三回もやられたそうな。
ちなみにこの場合、三回の水責めが終わると檻は岩の上に放置され受刑者はびしょぬれのまま晒し者になり、その後私設の救貧院に引き取られて残りの刑期を勤めることになりました。……って、罪は市中引き回し→三回の水責め→晒し者に、では償いきれないとされていたんですね。あまりに厳しすぎる。
なお、売買春したため罰を受けるのは娼婦ばかりではなく、客も罰せられていました。たとえば神聖ローマ帝国のある町では、娼婦でもあったある職人の妻といかがわしい行為をした二十四人の市民がパンと水だけで四週間塔の中に押し込められたそうです。
また、厳罰化とは逆に売春に関する規則や服装、居住地域の制限を撤廃し、娼婦を表す印まで廃止した地域が多かったそうなのですが、これはなぜなのでしょう? 売春を撲滅する=娼婦を根絶するなら、娼婦であることを表す印や娼婦だけに課せられる規則、娼婦が住まう地域など必要ないからでしょうか。
とにかく、上記のような厳罰が課せられたため、十六世紀初めのヨーロッパでは売春宿が消えていく傾向にありましたが、それも一時的な現象に過ぎませんでした。特にプロテスタントの都市では組織売春は衰退したけれど、個人的な売春は途絶えることなく続いていたからです。
性病に対するパニックめいた恐怖と宗教改革者の熱意が薄れると多くの地方は公娼制度に戻り、一般の売春を禁止しました。これには、性病対策には売春を組織化した方が有効である、との当時の意見の影響もあるでしょう。こうして、売春はたちまち往時の活気を取り戻したそうです。地域によっては何の翳りも見られなかったところもあるのだとか。ま、そりゃそうですよね。
売春が再び盛んになるどころか、一般の売春が違法とされたため却って当局が取り締まりに苦労することもあったそうです。コネがある人間が不実な愛人を売春婦だと非難して仕返ししたり、立場が弱い町の女性を脅してやりたい放題するとか。ほんとどうしようもないですね。
売春が法律で処罰されるようになると、上流階級では個人的な愛人関係が人気を博し、性病の心配のない処女が珍重されるようになったそうです。ま、それだって飽きられたら捨てられたり他の女と交換されたりしたから、安泰には程遠いんですけれどね。
いつもよりちょっと短いけれど今回でとうとう「売春の社会史」の上巻分のまとめが終わったので、次回からは下巻の内容に入ります!
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