第3章

 あれから本当に支援が必要だという施設、聖ルノー教会、カイ孤児院に連絡を取ってくれたメイシーから不足している物もリストを貰い、参加を申し出てくれたキース、ヴァンフォートそれからアッシュと共に必要なものを揃えて輸送した。

 それからすぐ18部隊はそれぞれの役目を負ってそれぞれの地へ飛び立っていった。

 ニーナたちハミューズ王国の捜査部隊はハミューズ王国内に置かれている支部に部屋を借り、しばらくここを拠点に活動することになる。

 支部長や管理部に挨拶をして荷物を整理した一行はさっそく計画通りにペアに別れ、街での聞き込みを開始した。

 キースとペアになったニーナはまず西側の基地へと向かう。基地の武器が適正に管理されているか、行方知らずになっている武器がないかどうか地道に確認する。問題がなければ次の基地へと向かう。その繰り返しで地味な作業が永遠と続く。

 だが特に問題点が発見されないまま1日目は無駄足に終わった。

 1日目に有力な情報が得られないのは当たり前と心得ていてもやはり1日歩き回って何一つ得られないとなれば疲労感が募る。

 そもそも闇ルートで違法に売買されているのだから表面的に分かるようにはなっていないだろう。資料だって改ざんされている可能性もゼロではないし、そもそも政府は違法ではない正規のルートでバルトと取引をしているのだしわざわざ闇ルートで解放軍へ武器を流すだろうか。かといって政府でないとすればIPUが把握していない組織が存在することになり、それはそれで大事件だ。

 よくないことなのだがハミューズ軍が関わっていてくれれば捜査が楽で助かる。

 そんなIPUにあるまじき思考を巡らせながらニーナはベットに沈んだ。





 それから約2週間をかけてハミューズ軍のすべての基地の捜査を終えた。

 最後の調査を終えて支部の会議室に集まったメンバーの間にはどんよりした空気が流れている。

「資料の改ざんがなければ軍から闇ルートで武器が流れている可能性は限りなくゼロに近い状態になった。同時に捜査に行き詰ったわけだが……」

 全員の報告を聞き終えたところでリーダーのカルロス・フィジーが眉間に深いしわを刻んだまま言葉を発した。

 フィジーは座っていてもわかる程ここにいるメンバーの誰より立派な体格で、まくり上げたワイシャツから覗く腕の毛が濃いため隊の中では「クマ」という愛称でしられている。

「何か引っ掛かった情報はないか?わずかでも気になる事があれば噂程度のものでもかまわない」

 すがるようにメンバーを見渡すフィジー。

 そこでひとりのメンバーが控えめに手を上げた。

「本当に噂程度でまったく裏付けは取れていませんが……」

「かまわない」

「中央のアルフィン基地での聞き取り中にちょろっと出た話なのですが、武器を売買している『霧』と呼ばれる組織があるそうです。ただ話していた本人たちも噂程度でしか聞いたことがなく、全く正体が掴めないので『霧』と呼ばれているとか」

「『霧』ねぇ……。まさに正体のつかめない存在か。だが今は噂レベルの捜査を地道に続けていくしかない。引き続き政府関係の施設の捜査、聞き込みを続け、一方で『霧』の捜査も開始しよう。存在するかしないかその確信だけでも得たい」

 その後で改めて政府関係の捜査チームと『霧』について調べるチームに分けられた。

 ニーナはキースとともに少人数の『霧』捜査チームにあてられ、げんなりした気持ちになる。

 現状わかっている情報が『霧』と呼ばれる組織が存在しているかもしれないということだけなのだ。どこを調べればいいのか、誰に聞き込みをすればいいのか、まったく不明でどこから手をつけていいのかわからない。

 明日の活動内容が決まっていく会議の中でニーナはひとり途方に暮れていた。





 翌日キースと共に支部を出たニーナは朝だというのに身体のだるさを感じていた。

 自分の中で『霧』について情報が得られる自信が何ひとつなかったからだ。

 『霧』についての噂が得られたアルフィン基地にはいち早く先輩隊員が向かった。

 つまりニーナたちのもとに残されたカードは何もない。

 進む方向すら決まっていない状態でやる気が出るはずもなかった。

 それはキースも同じようで隣で立ったまま脱力している。

「……軍関係は先輩たちが調べてるんだし、俺たちは少しずれて警察署にでも行ってみるか?警察でも銃器の取り扱いはあるんだし、もしかしたら何か知ってるかもしれない」

「そうだね……。とにかく手あたり次第行くしかないもんね」 

 とりあえず一番近いハミューズ警察本部を訪ねてみることで意見が一致したふたりは重い足取りのまま西へ足を向けた。

 この辺りは官公庁など国の重要な施設が密集しているエリアで、IPUも同じエリアに支部を置いている。警察本部は支部から芝生の敷き詰められた広場を挟んで西側に位置している為まさに目と鼻の先だ。

 捜査の関係上協力体制を組むことも多いため全世界的に支部と警察本部は近くに置かれているのだが、地元警察はIPUにあまり良い印象を持っていないらしく友好的に迎えられることはほぼない。

 ニーナはIPUの制服が白を基調とした派手なデザインだからではないかと密かに思ったりもしていたのだが、制服を着るのはほぼ本部にいる時だけなのでそういう見た目的な問題ではないのだと早々に悟った。

 噂では警察関係者にはIPU養成学校の入学試験で落ちた者や、途中で脱落した者が多く在籍している為、自身の手が届かなかったものを手に入れている隊員が憎いのではないかとも言われている。だがそうだとしたらそこに文句を言われてもどうしようもない。

 IPUを卒業できるのは実力のある者だけ。そこでは家柄も財力も全く効力を発揮しない。能力のないものは容赦なくふるい落とされていく、完全実力社会なのだ。

 厳しい訓練を乗り越えたころを褒められるのはわかる。だが嫉妬や憎悪の対象になるなど到底納得がいかない。

 そう思っても相手は年上ばかりだし、捜査のノウハウを知っている先輩には違いないのであまり強くは言い返せない。下手に口答えしてへそを曲げられても困るし、実際国際的な認知度が高いと言ってもIPUは地元警察の下についているようなものだ。常に機嫌を窺って情報を出し惜しみされないようにうまく事を運ばなければいけない。地元警察から情報を引き出すのは結構精神力を使うのだ。

そのあたりの事を警察関係者があまり理解していないのはある意味いいことなのだろうが。

 本部へ足を踏み入れた二人は1階の受付でバッチを掲示し、簡単な手続きを済ませるとまず公安課のある2階へ進んだ。公安なら半政府組織の捜査も行っているし、もしかしたら『霧』についても何か有力な情報を持っているかもしれない。

 開け放たれたままの公安課のドアを叩くと、私服姿の二人をあからさまに不審な目で見ながら若い男がニーナたちの前に立った。

「何か用?君たち見た事ない顔だけど所属は?」

「初めまして私はニーナ・ライラックと言います」

「俺はキース・ウエーバー。共にIPU18部隊所属です」

「IPU?……ああ、確かに間違いないな」

 銀バッチを確認した男は、世間的にはIPUの方が身分は上であるにも関わらずそのぶすっとした態度も口調も改めることもなく、むしろ先程よりもあからさまに不機嫌オーラを全開にして「マオ・シンディです」と名乗る。

「それでそのIPUが何の用?」

「実は『霧』という組織についての情報を聞きたくてですね。どなたか『霧』についての情報をお持ちの方はいらっしゃいませんかね」

 できるだけ低姿勢で相手の懐に飛び込もうとしているキースの努力は認めるが、笑顔が引きつっている。

 さすがにここまで露骨に邪見にされると心にくるものがあるのだろう。

 その気持ちはわかる。

 何事にも敬意とか尊敬とかの気持ちは大事だと思う。お互いに。

 二人はぐっと気持ちをこらえて大人の対応を続ける。

「は?『霧』?――ああ、なんか武器の密輸をしてるとかいう噂の?あんなもん誰も調べてないよ」

「え?なんで調べないんですか?立派な犯罪ですよね」

 純粋なニーナの疑問にシンディは「あのねぇ」と少し苛立ったような声を出す。

「こっちはもっと実害のある組織の取り締まりで忙しいの。そんな姿も見えない組織追ってる暇はないの。そもそもハミューズに害をなしてるわけでもないし」

「そうですけど違法な武器の売買は国際法で禁止されているんですよ?それを全く何も手をつけないで放置しているんですか。その武器がどこに輸出されているかも知らないんですか」

「武器の売買は公式ルートだってあるんだし、それ自体が禁止されているわけじゃない。こっちに被害がなければどうでもいいよ。大体国を跨いで売買されてるってんならそれを調べるのがおたくらの仕事でしょう。とにかくこちらからは何も提供できる情報はありませんのでどうぞお引き取りください」

 どうぞの部分を妙に強調したシンディが二人の肩を強めに押してドアの外に出すと、そのままドアを閉め何事もなかったように部屋の奥へ去っていった。

 その様子を静かに見守っていた二人はやがて諦めたようにドアに背を向ける。

 そして同時に舌打ちした。

「なんなんだあの態度。てことは何か?もう俺たちの許可なんていらねぇから勝手に調べろってことか?」

「いいじゃないのやってやろうじゃないの。もーあいつらの手は借りないわ。そっちがその気ならこっちだって好き勝手やらせてもらうから。行くわよ」

「おう」

 声も低く、全身から怒りをあふれ出させた二人はドシドシとわざと足音を立てながら廊下を進む。

「IPUで鍛えた根性舐めんじゃないわよ。例え孤立無援であろうとも突き進むのがモットーなんだから。絶対『霧』を捕まえてあいつらの前につきだしてやる!」

「おう!」

「――大分ご立腹みたいだね」

 不意に二人の背後からこわばったような声が聞こえ、反射的に足を止めて振り返る。

 その先にいたよく知る人物に「あ」と声が漏れた。

「――ジニー!」

「やぁ……」

 筋肉もないわけではないのだが、キースと比べると圧倒的に線が細く、たれ目で全体的に弱々しい印象を受ける。

 ジニー・ローファウスは私服である事以外は養成学校時代から全く変わっていなかった。

 立ち止まった二人に足音を立てずに近づいてくるジニーの眉は見事にハの字を描いている。

「その様子だと『霧』についての情報は貰えなかったみたいだね」

「そうなのよ。知らないなら知らないでもう少し言い方があると思うんだけど、本当に腹が立つ!それを調べるのがおたくらの仕事でしょう、だってー」

 シンディの口調を真似たニーナに「似てる!」とキースが笑う。

 シンディを知らないジニーは愛想笑いに失敗していた。

「ははは……。まあみんながみんな非協力的じゃないと思うけど、実はこっちも『鷹』についての情報収集がうまくいってないんだ」

「えー?そっちも?でもそっちは確実に実害あるよね?さらわれた人たちの中にはハミューズの国民だっているんでしょ?」

「それが、酷い話なんだけど」

 何か話そうとしたところでちょうど人が通りかかり、一旦口を噤んだジニーが手招いて空いている休憩室へ二人を導く。

 ガラス戸を締めてしまえば外へ会話が漏れることはないだろう。

 扉がしっかりと閉じられたのを確認してからジニーは再び口を開いた。

「――『鷹』が誘拐するのは主にスラム街の人間ってのは知ってるよね?」

「もちろん」

「ハミューズでは軍も警察もスラム街のことはないものとして扱ってるみたいなんだ。つまりあそこにどれだけの人が住んでるかも、いつ誰がいなくなったのかもわからないってわけ」

「スラム街が無法地帯ってのはありがちだけど、そこまで放置ってのも珍しいよね……」

「僕たちも地道に自分たちで捜査するしかないってわけさ……」

 先程の怒りも忘れて呆れかえってしまう。

 そんな管理体制では重要な情報が穴抜けになっていても当然といった感じだ。

 それにしても人がいなくなったかどうかもわからないなんて信じられない。

 そこでニーナは『鷹』の一員と思われる男たちを引き渡したあの光景を思い出していた。

 あの男たちが警察官に笑いかけた意味。

「――――」

 いよいよ嫌な予感が大きくなってきて頬が引きつる。

 考えたくもないが警察に組織とつながっている者がいるのではないか。

 賄賂を受け取る代わりに犯罪を見逃し、万が一捕まった場合に優遇する。そんな取引があったとしたら、あの男たちがあっさりと釈放されたことにも説明がつく。

 それにアッシュは『鷹』を掃除屋だと言っていた。

 ヴァンフォートは仮説に過ぎないとも言っていたが、このまま捜査が進めば仮説が仮説ではなくなるかもしれない。

 だがそうなればハミューズ国内に大きな混乱をもたらすことは間違いない。いくらハミューズ国民がスラムの人たちを厄介者とみなしていても政府が悪の組織とつながっていたとなれば黙ってはいないだろう。それをきっかけに生活の不満が爆発する可能性もある。

 慎重に進めなければバルトの二の舞だ。この国でも内戦を起こさせるわけにはいかない。

「ジニー。もしかしたら政府がお土産を渡しているかもしれないから気を付けて」

 お土産はIPUの隠語で賄賂を指す。

 賄賂で政府と『鷹』が繋がっているかもしれない。

 隠された言葉の意味を理解したジニーが神妙な顔で頷いた。

「そっちも探りは入れてる。できれば何も出てきてほしくないけどね……」

 やはりジニーも最悪の結果を危惧しているらしい。

 再び眉がハの字を描いた。

「お互い大変ね」

「うん……。でも、これ以上被害を増やさない為にもがんばらないと」

「うん!私たちも『霧』の正体掴んでシンディの前に突き出してやんなきゃ!」

「お前の目的ちょっとずれてないか?」

「えー、そう?」

「あ、そうそう!例の男たちのアジトで見つかった黒く塗りつぶされていたメモなんだけど、解読がさっき終わったんだ。で、新鮮ホヤホヤの情報なんだけど、そのメモにはなぜか聖ルノー教会って書かれていたんだよ」

「聖ルノー教会?」

ニーナとキースの視線が咄嗟に交わった。

キースの顔が訝しげに歪んでいる。

それはそうだろう。なにせつい先日聞いたばかりの教会だ。

ふたりの様子にジニーが首をかしげる。

「どうかした?」

「あ、と、その。別に大した事じゃないんだけど、私たちが先日支援物資を送った中に聖ルノー教会も含まれていたからちょっと驚いて」

「え!?そうなんだ……。すごい偶然だね」

「で?その教会と『鷹』になんの関係があるんだ?」

「さあ……。ただその教会は行き場のない難民や孤児を一時的に保護しているらしい。普通に考えれば『鷹』の獲物が溢れている場所ってことになるんだろうけど……」

「でもわざわざそこにターゲットを絞らなくてもスラム街には難民や孤児が溢れているし、難民やスラムの子を支援している教会や孤児院は他にもあるでしょ?」

「そうなんだよねー。こっちとしてもまだ謎だらけで……。聞き込みに行ってはいるけど今のところ収穫なしさ……」

 はあっと大きくため息をついたジニーががっくりと肩を落とした。

 どうやら『鷹』の捜査も難航しているらしい。

 『鷹』はIPUがもう何年も追っている組織だからそう簡単にしっぽを掴めないのは当たり前なのだろうが、やはり何も進展がないとなれば気分が落ち込むのもわかる。

「――よっし!私たちも聖ルノー教会に行ってみよう!支援物資が役に立ったか確認したいし、『霧』がスラムに隠れている可能性もゼロじゃないしね。こうなったらもうしらみつぶしよ」

「面倒だけどじゃーないな」

「ええ!?でも聖ルノー教会にはうちの部隊が聞き込みに行ってるし、今はやめておいた方が――」

「大丈夫よ。こっちはこっちの捜査で行くんだし、それに着くころには撤退してるって」

「そうだといいけど……。頼むから問題はおこさないでよ……?」

「どーいう意味?」

 にっこりと微笑みながら問いかけたのにジニーは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げて一歩遠ざかる。

「ジニー?」

「あんまりいじめるな。ほら、そろそろいくぞ」

「あ、ちょっと襟を掴むな~!私は猫か!」

「こんな狂暴な猫はいないって」

「なんですってー!?」

「じゃ、じゃあまたね……」

 背後で小さく手を振るジニーに見送られながら二人は警察本部を後にした。





 聖ルノー教会があるのはスラム街の西のはずれだとジニーに教えてもらった二人は以前訪れた時に通った露店街は通らずに目的地を目指していた。露店街を通ると遠回りになってしまうからだ。

 露店街を外れた地区を進むことになったのだが、この辺りは本当に酷いありさまだ。

 あの辺りはまだおんぼろながらも建物が立っていた。けれどこの辺りは本当のスラム街だ。

 道を避けてほとんどがつぎはぎだらけのテントで埋め尽くされており、中にはビニールシートをつなげただけのものもある。

 臭いも酷い。

 思わず鼻呼吸をすることをやめてしまうほど、何かが腐ったような、生ごみに近い臭いが漂っている。風が吹いてもその臭いは消し去られることはなく、むしろ生暖かさを増して臭いもさらにきつくなった。

 スラム街を進んで行くとそこかしこでゴミを漁っている子供の姿が見られ、ニーナは反射的に眉を寄せた。

 胸のあたりが締め付けられているように痛む。

 物資がまだまだ足りていないのは一目瞭然だった。

 できる限りもっと物資を送らなければと思うのと同時に、これだけの人に行き渡らせるには個人では無理だとも思う。

 IPUの給料は悪くはないが、さすがにこれだけの人たちに計測的な支援をしていくとなると厳しい。

 やはりシュナイザーの言う通り国際的な取り組みが必要なのだ。

 彼らが国へ帰れること、その国が正しく発展していくこと。

 根本的な部分を解決しなければいずれ限界が来る。

 不意にゴミを漁っていた子供たちが二人を見た。

 その瞬間その顔にあからさまな恐怖を張り付けて一斉に逃げ出していく。

 あっという間に通りには人がいなくなってしまった。

 まるで悪魔を見たかのような反応に少し傷つく。

 小さく肩を落とした隣で「……子供にはお前の本性がわかるんだな」という呟きが聞こえたので軽く太ももの後ろを蹴り飛ばしておいた。





 スラム街の奥、全く手入れされていない雑木林の中に聖ルノー教会はあった。

 本来は純白であったであろう外壁は薄汚れ、クリーム色に変化している。それどころかところどころ外壁自体剥げている部分もあり、コンクリートが露出していた。

 長い間修復されている様子はない。

 それに難民や孤児を一時的に保護していると言っていたのに外から見た礼拝堂は小さく40人も入ればいっぱいになってしまいそうだ。

 扉が閉ざされているせいで中の様子を窺うことはできず、正確にはわからないが。

「見たところIPUにやつらはいねぇな」

「帰ったか、それとも中にいるかはわからないけどね」

「とりあえずあいつらに話を聞いてみるか」

 キースが顎で示したのは教会の扉の前に立つ二人の男たち。

 ひとりは黒に近いスーツで細身、もうひとりは薄汚れた服を着てはいるが、反して身体はキースに負けず劣らずの立派な筋肉がついている。その組み合わせに若干の疑問を抱きつつもニーナはキースと共に男たちに近づいた。

「あの、すみませんちょっとお伺いしたいんですが」

「あ?なんだあんたたち」

「私はニーナ・ライラックと言います。私達は先日こちらに支援物資を送らせていただいた者でして、近くに寄ったものですからちょっと寄らせていただきました」

「キース・ウエーバーです」

 警戒心を抱かせないようまずはIPUであることは打ち明けずに相手の心の扉を開かせようと支援物資の話題を投げる。果たしてそれは成功し、相手の男たちの顔から怪訝な様子が消える。

「あー、この前届いたやつか。ずいぶんたくさん送っていただいて、助かりました」

「あったかい布団で眠れて子供たちも幸せそうでしたよ」

「よかったです。初めてこいういったことをさせていただいたので何かと不安で……。でも喜んでいただけたのならまた協力させていただきますね」

「すごく助かってますよ」

「あの、ぜひ教会の代表の方にもお会いしたいのですが、いらっしゃいますか?」

「ああ、今はちょっと話中ですけど、もうすぐ終わるんじゃないですかね」

「時間はあるので待たせてもらいますね」

「ええ、どうぞ。お茶も出せませんがね」

「お気になさらず」

 笑って冗談を言う男にニーナも笑顔で返す。

 そのまましばし妙な時間が流れた。

 しかしいつまで経っても中に招き入れられるどころか二人の男は扉の前から動こうともしない。

 どうやらニーナたちを中に入れる気はないらしい。

 キースと顔を合わせたニーナは頷きかけて、共に扉の前から離れる。

 小声で会話すれば声が届かないであろう距離で移動したところで二人は向き合う形で足を止めた。

「……なんか妙じゃない?」

「ああ。なんか頑なに中に入れたくないって感じだな。個人の家だったらわからなくもないが、ここは教会だぞ」

「だよねー」

 チラリと扉の前に立つ二人を盗み見る。

 何やら楽し気に会話している二人だが、よく見れば辺りを警戒しているかのように周辺に視線を向けていた。

 その姿はまるでよく訓練された門番のようだ。

「スーツの男は違和感ありまくりだが、もうひとりもスラム暮らしの身体つきじゃないぞ。あれ」

「私もそう思う。軍人なみの身体よね」

 スラムの教会にいるのは少し不自然だ。ましてやハミューズ王国には隣国バルトからの難民も多くスラムに流れ込んでおり、食料も十分に行き渡っているとは言えない。あれだけの身体をスラムの厳しい食生活で作れるとはとても思えなかった。

 では一体彼らは何者なのだろう。スーツの男はスラム暮らしとも思えない。

 バルトから逃げてきた元軍人、というのが最もしっくりくるが、それはそれで不自然だ。なにせバルトは未だ内戦中。そうそう軍人が逃げ出してこられるような環境ではないのだ。

 視線に気づかれないうちに観察をやめて再びキースに視線を戻す。

「『鷹』捜査チームは中にいるのかな?」

「どうかな。たくさん人がいる気配はあるんだが、その中に含まれているかどうかはわかんねぇな」

「うーん。とりあえず待つしかないか。待てば誰かしら出てくるだろうし」

 『鷹』か『霧』につながる人物が出てくる奇跡は起こらないだろうが、屈強な男たちが守る人物が出てくることは間違いない。あるいは守っている物。

 彼らが出てきた人物と共に去らなければ中に守るべき物があるということになる。

 不意に重厚な木の扉がギイっと音を立てて開いた。

「あ――」

 中から牧師の格好をした初老の男と共に出てきたのは予想もしなかった人物だった。

 白い肌、光に当たるとわずかに青みがかって見える黒い髪は肩まで伸ばされ、相変わらず上質な紺のスーツに身を包んでいる。間違いなく以前美術館を案内してくれたローゼン・シュナイザーだった。

 なぜここにと思ったが、よく考えてみればおかしなことではない。彼も支援活動をしているひとりなのだから。

「シュナイザー!」

 もうすでに懐かしささえ覚えてしまうその名を呼びながら反射的にニーナは駆け寄った。

 名を呼ばれ牧師と話していたシュナイザーが顔を上げる。

 その視線にニーナの姿を捉えて驚いたように一瞬目を見開いた。

 だがすぐに目を細めると優しく微笑んでニーナを迎える。

「やあライラック。久しぶり。再会を願っていたけど、まさかそれがここだとは思わなかったな」

「私もまさか会えるとは思ってませんでした。でもまた会えて嬉しいです」

「僕も会えて嬉しいよ。でもなぜここに?」

 問いかけたシュナイザーが、しかしニーナの答えを聞かずして「ああ」と納得したように頷いた。

 その視線はニーナのジャケットにつけられた銀バッチに向けられていた。

 その視線を感じ取って今さらながらに失敗したと思う。

 このバッチには善人にも無意識の内に警戒心を抱かせてしまう効果があるのだ。

 だがこれを外すという選択肢も忘れてしまうほど唐突な再会だったのだから仕方がない。

「君、IPUの人間だったんだね。ということは少し前に来た捜査の関係かな?」

「あ、いえ、私たちはまったくその捜査には関係ないんです。実は先日あくまで個人的な活動としてこちらに支援物資を送らせていただきまして、初めての事だったのでそれが本当に役に立ったのか確認したくなって来てしまいました」

 本当は別の目的もあったのだけれど、シュナイザーから滲み出るわずかな警戒心を感じ取って、咄嗟に笑顔で真実を隠す。

 それはIPUで働くようになって自然と身に着けた技だった。

 IPUの捜査は特に時間のかかるものが多い。最初に警戒心を抱かせたら捜査にかかる時間が倍増する可能性がある。何事もまずは相手の懐に飛び込むことが大事だ。

 そうすればより円滑に情報を得ることができる。

 自分を偽って相手を欺き、真実の情報を手に入れる。

 聞き取りでは相手に真実を語らせることが何より大事なのだ。

「――ああ!あなたがニーナ・ライラック様ですか?」

 牧師がたれ目の瞳をキラキラと輝かせながらポンと手を叩いた。

「送っていただいたものはとても役に立ちました。まさかこの教会に物資を送ってくださる方がいるとは思ってもみませんで」

「お役に立てたのならよかったです。でもシュナイザーもこの教会に支援を?」

「ああ。僕は万遍なくすべての施設に顔を出すようにしているからね。でもそれ故にひとつの施設に協力できる事は少なくなってしまうんだよ。だから君が活動に参加してくれてとても嬉しいよ。ありがとうニーナ」

「いえ、そんなお礼を言われるようなことでは……」

 先程と同じような微笑なのにどこか慈愛を含んでいるように感じられるその表情に心臓が高鳴った。

 わずかに息苦しい。

 どこかそわそわして落ち着かない。

 感じた事のない感覚に戸惑いながら、しかしその感覚に不思議と不快感は抱かなかった。

「そんなことはないよ。子供たちもとても喜んでいた。そうだ牧師、子供たちに彼女を紹介しても?」

「それはいい。子供たちも直接礼を言いたがってましたからな。私が呼んできましょう」

「あの牧師様?よければ私が行きましょうか?その扉の向こうに子供たちがいるのでしょう?」

 先程から扉の向こうで複数の気配が落ち付かない様子でそわそわと動き回っているのを感じていた。

 わざわざ呼んでこなくともニーナが赴いた方が早いのに、なぜか牧師の男は頑なに中に入ることを拒んだ。

 訝しんでいる事がわかったのかシュナイザーがわずかに眉を下げる。

「本来この扉の先は万人に開かれた礼拝堂なのだけど、今は生活エリアになってしまっていてね。散らかっているし、少しでもプライベートな空間を守らせてあげたいんだ。だからほぼすべての人に立ち入りは遠慮してもらってるんだよ。理解してもらえるね?」

「ああ、そうですよね。気がきかなくてすみません」

「謝る事じゃない。理解してくれてありがとう」

 難民も受け入れているというこの教会は行き場のない孤児たちにとっての家なのだろう。もしかしたら本来礼拝者が座る椅子は取っ払われて子供たちの寝床になっているのかもしれない。

 それほどの厳しい環境を思って目の奥が熱くなった。

 ニーナが子供たちの不遇に同情している間に牧師がわずかに開けた扉から中に入っていく。それからすぐに人ひとり通れる分だけ開いた隙間からわーっと子供たちがあふれ出してきた。

 想像以上に多い子供たちに思わず一歩後ろに下がるニーナ。

 その周りをあっという間に子供たちが囲んでしまう。

「おねぇちゃんがお布団くれたの?すっごい気持ちいいよ!」

「お菓子も美味しかったー!」

「おもちゃも!」

「いや、あのね、私もだけど私だけじゃなくて、ほらあそこにいるお兄ちゃんも協力してくれたんだよ」

 この状況に困ったニーナは遠くで傍観していたキースを指さす。

 突然巻き込まれる形となったキースはぎょっとしたような表情になったがもう遅い。半数の子供たちがキースにわっと駆け寄っていった。

 子供の扱いに慣れていない二人は子供たちの質問に一つ一つ答えていくだけで早くも疲労気味だ。

 あたふたするニーナを見守っていたシュナイザーがついにクスっと小さく声を出して笑った。

「こんなにはしゃいでいる子供たちは久しぶりに見たな。よければ少し相手をしてあげてほしい。ここにいるのは内戦で親や兄弟を亡くした子たちばかりだから、歳の近い君たちに遊んでもらえるのが楽しいんだよ」

「そう、なんですね」

 こういう時どういう言葉を返せばいいのかわからない。

 かわいそうだと思うし、もちろん同情心もあるが、目の前の子供たちはヒマワリのように明るく笑顔を咲かせている。

 自分だったら家族を失い、国を追われ、見知らぬ土地でこんな風に笑えるだろうか。

「君は優しいね」

 無意識にうつむいていた頭に大きな手が滑る。

 それが離れてようやくシュナイザーが頭を撫でたのだと気づいた。

「え――!?」

 意識した途端胸が詰まったようになる。

 呼吸がうまくできない。

 状況を理解しようとして逆にパニックになった。

「えっと、あの――」

「ああ、ごめん。つい癖で。ほら、いつもこの子たちの相手をしているから」

 そう言って優しい目で子供たちを見下ろすシュナイザーの言葉は嘘ではないようで、一連の流れを見ていた子供たちが自分も自分もとシュナイザーにねだり始めた。

 そんな子供たちの頭を「フフッ、わかったわかった。順番だよ」とひとりひとり撫でてあげている。

 そんな彼の姿は太陽に照らされてキラキラと輝いて見えた。

「シュナイザー、そろそろ」

「ああ、もうそんな時間か」

 不意に扉の前に待機していたスーツの男がシュナイザーの名を呼んだ。

 その声に銀の腕時計を確認したシュナイザーが残念そうに眉を下げる。

「ニーナ、せっかく会えたのだからゆっくり話をしたかったのだけど生憎今日は予定が詰まっていてね。また会えるのを楽しみにしているよ。できればナイトのいない時にね」

「ナイト?」

 首を傾げるニーナを背後を手で示すシュナイザー。指で示さない所に品位を感じながら振り返ると、キースが思い切り不機嫌そうに口を歪めてこちらを見ていた。

「なんであんな顔してるんだろう?」

「フフッ、さあ?もしかしたら苦手な虫でも飛んでいたかな?――それじゃあ僕はもう行くよ。またねライラック」

 ニーナの身長に合わせて腰を折ったシュナイザーが頬に触れるだけのキスをして離れていく。

 自然な流れに反応が遅れたニーナだったが、一瞬後に全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。

 ニーナの国、シヴァールにはない文化なので何回されてもこの挨拶には慣れない。

 呆けているニーナに軽く手を振ったシュナイザーはスーツの男を伴って去っていく。

 やはりスーツの男はスラムの人間ではなかったようだ。

「――あの男は結構ここに来るんですか?」

 いつの間にか近くに来ていたキースが側で見守っていた牧師に問いかける。

「お忙しい方なので頻繁にはいらっしゃいませんが、子供たちを気にかけてくれているようで時間が空いた時にふらりといっらっしゃることもありますね。そのたびに多くのものを恵んでくださいますから、とても助かっています」

「そうなんですね。でもそれだと相当資金が必要ですよね。何の仕事をされているとか聞いていますか?」

「ええ。確か美術商をやってらっしゃるとか。その世界では名の知れた方だと聞いていますよ」

「美術商なんですね。その道で成功していれば資金があるのも納得か」

「ちょっとキース」

 あからさまな探りをたしなめるが、キースは悪びれた様子もなく「さて、鬼ごっこでもして遊ぶか」と子供たちに声をかけている。

 子供たちも楽しそうに手を上げていたので仕方なくニーナも付き合うことにした。

 だが子供たちの遊びは永遠終わらず、結局夕方まで付き合うことになり仕事をさぼった形になってしまった。今日の事は二人だけの秘密にしておこうと支部に帰る途中で口裏を合わせたのだが、疲労した様子の二人を見てサボりを疑う者はひとりもいなかった。

 『霧』についての情報を今日も誰も掴んで来れられなかった事も少なからず影響しているのだろう。

 『鷹』捜査のほうも芳しくないらしく、なんとなく支部全体が重い空気に包まれている。

 収穫なしなので18部隊の会議も早々に終わり解散となった。

「さて、お風呂行くかー」

 キースとは別れ、廊下を進みながらぐぅっと身体を伸ばすニーナに正面から歩いてきた事務官の女性が「ちょうどよかった」と微笑んだ。

 足を止めた彼女に合わせてニーナも足を止めると目の前に白い封筒が差し出される。

「どうぞ。夕方届いたんです」

「ありがとうございます」

 手紙を渡すとさっさともと来た道を戻って行ってしまう女性を見送ることは早々にやめ、封筒に視線を落とす。

 真っ白だと思っていた封筒だが、よく見れば銀色で薄く百合の花が描かれていた。

 やけに上質そうな封筒に首を傾げるも、差し出し人の名を見て納得した。

 封筒に負けない綺麗な字でスコット・メイシ―と書かれている。

 しかしなぜメイシ―がニーナ宛てに手紙など寄こしたのか。

 IPUの中でメイシ―は総隊長に次ぐ実力者だ。ニーナのような新人にはまさに雲の上の存在。そんな彼から手紙を受け取れるような立場ではないのだ。

 ひとつ思い当たることと言えば支援活動に関することか。

 そう思ったらもうそれ以外は考えられなくなった。

 だが万が一、重要なことが書かれている可能性も考えて自室で開封することにする。

 支部の上層階が出張している隊員の宿舎になるため、ニーナは4階へと上り、階段を上がったところに設置されている扉に専用のカギを差し込んでその中に入った。

 4階は女性隊員専用フロアになるので専用のカギがなければフロアにすら入れない特殊な構造になっているのだ。その扉を抜けてすぐ右に折れたところにある部屋を自室として借りている。IPUは女性隊員が少ないのでほとんどの場合貸し切り状態になる。つまり借りる部屋は選び放題。ニーナは迷わず一番近い部屋を選択した。

 カギで部屋の扉を開けると入室後しっかりとカギをかけてそのまま小さな机に向かう。本来ならソファーにどっかりと腰を下ろして休みたいのだが、生憎そんな贅沢品を置けるほど部屋は広くない。ベットと机でほぼいっぱいだ。かといってまだシャワーも浴びていないのでベットに座るのもはばかられる。仕方なくニーナは机の前に置かれた固い木の椅子に座った。

 そこで先程受け取った手紙を丁寧に開封する。

 『霧』の捜査に難航しているようだね。

 手紙はそんな一文から始まっていた。



 『霧』の捜査に難航しているようだね。

 捜査は地道な聞き込みが大事だ。とにかく足を動かし、人の言葉に耳を傾ける事。そして少しでも疑問を持った話や物は徹底的に調べる事。

 収穫がなく心身ともに疲労が募るだろうけど、その努力が世界平和につながると信じて頑張ってほしい。

 ところで先日君たちが物資を送った先、聖ルノー教会について気になることを馴染みの輸送業者から聞いたので報告しておく。

 その人は私が物資を送る時もお世話になっている信頼のおける人物だ。

 彼が言うには聖ルノー教会に物資を届けに行った時、遠目に大きな木箱が数箱運び込まれるのが見えたらしい。

 どこか別の団体から支援物資が届いたのだろうと思ったのだが、支援物資を運ぶにしてはやたら体格のいい男たちが運んでいたし、いざ自分たちが物資を運び込んだ先にその木箱はなかった。小さな教会なので他に置いて置ける場所もない。しかも先に入った男たちの姿もなかったらしいんだ。

 気になって尋ねたところそんなものは運び込まれていないと首を振られたらしい。

 だが彼とその仲間も確かに見たと言っている。

 人が嘘をつくのは何かやましいことがある証拠だ。

 これが『鷹』や『霧』につながるとは言えないが少し調べてみてほしい。

 もし何かしらの犯罪に関わってとなればこれ以上の支援はできない。

 君の善意を彼らが裏切っていないことを信じている。




 手紙を読み終わったニーナの頭の中には最悪の結末がちらついている。

 もしその予想が当たっているとすれば木箱に入っていたのは武器の可能性が高い。

 だがまさかあんなに人のよさそうな牧師が犯罪に手を染めるだろうか。

 苦しい生活ながらシュナイザーからの支援でなんとか飢えずにいたようだし、周りの状況を見ればもっと苦労している難民がいるのだ。

 それに犯罪に手を染めているとしたらシュナイザーはどんなにショックを受けるだろう。

 あんなに熱心に支援活動を行い、子供たちは本当の家族のように接していた。

 彼を悲しませる結果だけにはならないといい。

 そう願うが、じわじわと不安が湧き上がってくる。

 これを消し去る為には木箱の中身を知らなければならない。それがあの教会が犯罪に手を染めていないという唯一の証明になる。

 ニーナの脳裏にシュナイザーの微笑と、子供たちが嬉しそうに走り回る姿が浮かんだ。

 あの笑顔を曇らせたくない。

 ニーナは祈るように目を閉じた。





 翌日朝食の席でニーナは昨日受け取ったメイシ―からの手紙についてキースに打ち明けた。

 彼も支援活動に参加してくれたひとりだし、知る権利はある。それにそのことについての意見も聞きたかった。

「……どう思う?」

 食後のコーヒーを一口飲んだキースがうーんと低い声でうなって腕を組む。

「確かに怪しいが、でもそれだけじゃ弱いだろ。運び込んだ木箱がなくなっていたってだけだろ?」

「そうなんだけど、でも昨日頑なに中に入れてくれなかったし。それにやっぱりただの教会の前にあんな強そうな男を置いていたのは怪しいでしょ」

「あー、あの男なー。でもあそこは子供を保護してるし、『鷹』の脅威から守るためなんじゃないのか」

「そうなのかなぁ……」

「まあそれも憶測に過ぎないけどな。消えた木箱は確かに気になるし、中に入れないどころか見せてさえくれないあの態度にもひっかかるのは確かだ。それとなく聞きに行ってみるか?」

「付き合ってくれるの?」

 最悪ひとりでも聞きに行こうと思っていたのでキースの答えはありがたかった。

 しかし言い方に失敗したと後悔する。

 この言い方ではからかわれかねない。

 だが予想に反してキースは真剣な眼差しでニーナを見ていた。

 めったに見せないその表情に心臓の脈が速くなる。

「ど、どうしたの。そんな顔して」

 戸惑いながら問いかけると、相変わらず真面目な顔でニーナを見つめているキースが「わかってるのか」と普段より幾分低い声で言葉を発した。

「何が?」

「あの教会が犯罪に関わっているとなれば当然関係者にも捜査の目が向く。つまりあそこに関わりの深いあの男、シュナイザーも黒に近い存在ってことになる」

「そんな!シュナイザーはただ彼らに支援しているだけでしょう?なんでそれだけで黒になるのよ!」

「可能性を言っただけだ。牧師とは付き合いが長そうだし、万が一の時はつながりがないとも言い切れないだろう」

「それは……」

「――お前、情に流されるなよ。俺たちはIPUだ。たとえ身内であろうと完全に白になるまで徹底的に調べないといけない」

「……わかってるけど、でも」

 本当は昨日手紙を受け取った時から可能性のひとつとして浮かんではいた。だがそうであるはずがないと考えないようにしていた。彼は調べなくても大丈夫。そう言い聞かせていた。彼が犯罪に関わっているなどという推測さえしたくはなかったのだ。

 考えたくないのに次々と嫌な未来が浮かんで自然と顔が下を向く。

 そんなニーナの前で厳しい表情を崩さずにいたキースだが、ついにその表情からいつものどこか気の抜けた表情に戻り、同時に大きなため息を漏らした。

「まあ、白ってことを確信できりゃあいいんだからそんな顔すんな。たとえ『鷹』のメンバーが意味深なメモで教会の名前を残しても、教会に謎の木箱が運び込まれていてもあの男が白の可能性はゼロじゃない」

「それってあんまり慰めになってない……」

「当たり前だろ。別に慰めてないからな!」

 何故か胸をはって偉そうに見下ろすようなポーズを取ったのでニーナは反射的にコップに入っていた氷を投げつけた。





 聖ルノー教会の入り口には今日も人こそ違うものの体格のいい屈強な男が立っていた。

 あからさまに不審がる門番だが、丁度そこに通りかかった子供たちがわっと二人にまとわりついて遊びをねだるのであっという間に警戒心は説かれる。

 だが今日はまず牧師に会わなければいけない。

 子供たちには後で遊びに付き合うと約束し、中にいるという牧師を呼んできてもらうことにした。

 素直な子供たちは競うように駆け込み、すぐに牧師を伴ってまた外に出てくる。

「おやあなたたちは」

「どうも」

 二人そろって驚きに目を見張る牧師に頭を下げ、ニーナが「今日は少しお伺いしたい事があってきました」と切り出した。

「はあ、なんでしょう」

「あの、先日こちらに送った物資、結構多かったと思うんですけど、どちらで保管されているんですか?今後の参考のためにもぜひ視察させていただけないかと」

「いえ、それは――。散らかっていて足の踏み場もありませんから」

 視察という言葉を出した途端牧師の顔がわずかに歪んだ。それは一瞬で消え、また人当たりの良さそうな微笑に変わる。

 だがそんな一瞬の変化を見逃すほど二人は優しくない。

「散らかっているのなら片付け手伝いましょうか?俺、力はありますし、そういったことでも力になれると思いますよ」

「それにちょっと気になってるんですよ。私達が支援物資を預けた輸送業者の方が先に運び込まれたはずの木箱がなくなっていたって言っているんです。それはどこにいったんです?」

「そ、れは、同じ部屋にありましたよ。ただシュナイザーからは他にもたくさん支援物資が届いたところだったので埋もれてしまったのでしょう」

(シュナイザーから――?)

 牧師が思わずといった感じでもらした言葉に一瞬ニーナの眉間にしわが寄る。

 だが動揺を悟られないように冷静を装って追及を続けた。

「おかしいですね。彼らは木箱が運び込まれてからすぐこちらに物資を運び込んでいるんですよ。木箱が他の物資に埋もれて見えなくなっていたとしても運び込んだ男たちとすれ違うはずなんですが、それもなかったと言っています」

 牧師の呼吸が乱れ始めた。明らかな動揺。

 こういう時はあえて黙るのも手だ。

 視線だけで相手に圧力をかけることが有効な場合もある。

「……その」

「地下があるんですよ」

「!」

 ずっと側に控えていた門番の男が牧師をかばうように前に歩み出た。

 牧師が目を見開いて驚いている。

「食料がたくさん詰まっていたので地下で保存することにしたんです」

「俺達も食料品は送りましたけど、何故それは地下に入れなかったんです」

「量が違いましたから。重いものは地下へ、が基本なんでね。ほらもういいでしょう。子供たちと遊んでやってください」

 これ以上話すことはないとばかりにぐいっと肩を押され、子供たちの方へ押し出される。

「ちょっと!まだ話は――!」

「お姉ちゃんお話終わった?」

「あそぼ―!」

「わ、え、ちょっと――」

 さすがに子供たちには強く出られないニーナにキースが「まったく、何やってんだ」とため息をついたのが聞こえた。

 だがこれ以上牧師たちから情報は得られないと判断したのかニーナを囲む子供たちに歩み寄ると「じゃあ今日は缶蹴りでもするか」と笑う。

 どうやら今日も収穫のないまま1日が終わることは確定したようだ。

 ニーナはそこらへんで調達した缶を蹴って逃げる子供を微笑ましく眺めながら、どうかこの状況が上司にバレませんようにと祈った。





 その夜ニーナとキースは聖ルノー教会に関する疑惑を部内会議で報告した。

 シュナイザーが関わっている可能性についてはニーナの独断で報告を避けたが、消えた木箱についてや牧師の動揺について話すと会議室の空気がわずかに明るくなったような気がした。

 ハミューズ調査のリーダーを任されて早くもげっそりした様子のフィジーも「確かに怪しいな」と目を輝かせる。これだけ情報がない中でわずかでも灰色がかって見えるものはありがたくて仕方がないのだろう。

 藁にも縋るとはこのことかもしれない。

「ニーナとキースは引き続き聖ルノー教会の監視についてもらうが、何かしらの動きがあることも考慮してマイケルとアルトのコンビにも加わってもらい、24時間体制での監視を開始する。それから『鷹』が関係している可能性もある事から16、17部隊にも協力を要請し、厳重な監視体制をとる。16、17部隊もメモの件からあそこには気を配っていたはずだからな」

 生き生きとした表情で言うフィジーは、しかし軍や警察関係者への聞き込みも続行するとした。そちらに割り当てられていたメンバーはハズレくじを引いたとばかりに不満そうだ。

 だがリーダーであるフィジーに逆らうことはできず素直に頷いている。

 ニーナたちは共に監視任務に就くことになったメンバーと打ち合わせをし、1週間ごとに朝と昼の見張りを入れ替えることになった。

 初めの1週間はニーナたちが昼間の監視だ。

 それほど得意ではないが諜報部隊ではなくとも監視や尾行の訓練は受けている。

 相手に気配を悟られない距離で、己の気配を消し、対象を見張る。

 かなり精神力を使うので早めに結果を出して終わらせたいのが本音だ。

 だが初めの1週間教会の門番が交代しただけであとは何の変化もなかった。

 シュナイザーも姿を現さなかった。

 そのことになぜかニーナはほっとした。

 支援活動をしているシュナイザーが教会に来ることは不自然ではないのに、この場に現れたら疑わなくてはいけない。

 彼が本当に犯罪に関わっていないのか疑うことは、シュナイザーを少なからず尊敬しているニーナにとってすすんでやりたい事ではなかった。

「まあとりあえず平穏無事に過ぎ去ってよかったじゃないか」

 そう言ってキースがニーナの肩を叩く。

「まあねー」

 そうは言うものの気分は晴れない。

 何もなかったという事は無関係であるという証拠も得られなかったという事なのだ。

「ああー、早くこの任務終わらせたい」

「他のメンバーが別のところで『霧』を捕まえてくれればいいんだがなー」

「ほんとにねー」

 姿の見えない敵を追うというのがこんなに疲れることだとは知らなかった。

 それに仮宿生活というのもじわじわと疲労感が募る。

 やはり自宅のベットで眠るのが一番だ。

 疲労と共に支部へ戻り、リーダーであるフィジーに報告を済ませると共に夕食を取って解散する。

 次週は夜番になるので1日半休んで身体を夜型に順応させなければならなない。

 休日はほぼ寝て過ごすことに決めた。





 ニーナたちが夜番に変わって早3日が経つ。

 夜番に変わるまで知らなかったのだが、教会の周りには絶えず松明がたかれていた。

 教会を守るかのように立っていた男も二人に増え、さらに松明の管理をしているらしい男もゆっくりと敷地内を見回るように歩いている。

 夜は昼間よりも厳重な警備体制が取られているようだった。

 この辺りは『鷹』の活動拠点になっているようだし、無防備な子供たちを守るためにはこれくらいの警備は必要なのかもしれないが、疑問は残る。

 なにせこの教会に続く道にはスラム街が広がっているのだし、あそこに住む人たちの家は普通の民家のようにカギがかけられているわけでもない。

 それならこちらよりスラム街の家を適当に襲って子供たちを誘拐した方が効率がいいような気がする。

 それはニーナたちと交代で監視していたメンバーも漏らしていた疑問だ。

 それにもうひとつニーナには気になることがあった。

 男たちの腰のあたりがわずかに膨らんでいるのだ。

 丁度自分たちと同じように。

 ニーナは無意識に上着に隠された腰に手を当てていた。

 固い感触が伝わる。

 それは万が一のために携帯指示があったオートマチックの銃だった。

 ハミューズ国内では一般人であっても許可があれば携帯は可能なのでそれ自体は問題視する事ではないのかもしれないが、そこまでの装備をしてこの教会を守る理由はなんであろうか。

 子供たちを守るだけにしてはおかしい。

 ニーナがひとり嫌な想像をして頭を痛めていると隣のキースがトントンと肩を叩いた。

 夜なのをいい事に昼間よりも近い位置で監視しているため顔だけを向けて目で問う。

 するとキースが指さした方向に固まって動く影が見えた。

 だんだんと教会に近づいてくる影はやがて松明に照らされてその姿を完全なものにする。

 それは少しくたびれた服を着た4人の男たちであった。

 そのすべてが吊り上がった目をしており、人相が悪い。

 彼らは一直線に扉の前に進んだ。

 門番の男たちと何やら話している。

 だが仲間でないことは門番たちの顔の歪んだ顔を見れば明らかだった。

 第一こんな時間になんの用だろうか。

 チラリと確認した腕時計は深夜の1時をさしている。

 普通は眠っている時間だ。

 ニーナとキースの間に緊張感が満ちた、その時。

 パアァァァンと乾いた音が響き渡った。

 門番のひとりが崩れ落ちるのと同時に全員が動き出す。

 残された門番と敷地内を見回っていた男が銃を抜き、人相の悪い男たちと激しい撃ち合いが始まった。

 夜の静寂が一気に物騒な音で満ちる。

 突然の出来事に一瞬固まったニーナたちだが我に返ると同時に銃を抜くと身を隠していた木の陰から飛び出した。

「何がどうなってんだ!?」

「知らないけどとりあえず鎮圧でしょ!すみません18部隊に連絡をお願いします!」

 前半は隣のキースに。後半は少し離れたところで『鷹』捜査の為張り込んでいた17部隊員に告げる。

 彼もツーマンセルだったようでひとりが慌てて街の方へ駆けて行き、残りのひとりはニーナたちに続いた。

 その間にも銃撃戦は続き、あっという間に教会の守備は崩されてしまう。

 腕や足を撃ち抜かれた門番たちが倒れ込んで苦痛に呻いているのを見向きもせず人相の悪い男たちは教会の扉を開けようとしている。

「マズイ……!」

 中には子供たちがいるのだ。

「お前たちとまれ!」

 射撃範囲に入ったキースが銃を構えて足を止める。

 だが最悪なことに二人の男たちが扉を背にこちらに銃を放つ。

 咄嗟にキースが横に飛んで物陰に隠れた。

 その間に銃撃に参加していない残りの二人が中へ入っていく。

 同時に子供たちの悲鳴。そして発砲音。

 ニーナの脳裏に最悪のシナリオが浮かんだ。

 唇を噛み締めてイチかバチか隠れていた物陰から飛び出す。

「馬鹿!無茶するな!」

「うるさい!援護!」

「チッ――!」

 幸い男たちは射撃に関して素人だった。

 わずかに身体をかする銃弾をもろともせず、ニーナは翻弄するように左右に動きながら素早く接近する。撃つ事に夢中になっていた男たちはキースと17部隊員にあっけなく銃を弾き飛ばされ、無力化されたところをニーナの飛び蹴り、そして強力な回し蹴りをくらって完全に鎮圧された。

 それを確認することもなくニーナは教会内に足を踏み入れる。

 初めて足を踏み入れた教会内は、本来礼拝堂に置かれている椅子はなく子供たちの寝床であろう布団が敷き詰められていた。

 逃げ遅れて撃たれたのか2、3人の子供たちがぐしゃぐしゃになった布団の上に倒れている。

 そしてその奥には二人の男。ひとりは壁に背を付けた牧師に銃を突きつけ、もうひとりは4歳ほどの男の子――確かアランといった――の首に腕をかけ、もう一方の手でその小さな頭に銃を突き付けていた。

 IPUはこういった場合に備えてありとあらゆるパターンで人質救出訓練も行っているが、中でも厳しい状況だ。

 ちなみにニーナはこのパターンでクリアしたことはない。

 汗で滑らないようにしっかりと握りしめた銃をアランを人質にしている男に向けた。

 牧師に銃を向けている短髪の男には追いついたキースが照準を合わせ、17部隊員は警戒しながら一番扉に近い位置で倒れている子供の安否を確認している。

 その服と布団を濡らす血の量から致命傷を負っていることは明らかだったが、祈る気持ちでその様子を見守る。

 だが隊員は苦し気に首を振った。

「――っ!」

 声にならない声がニーナの喉を抜けて行く。

 間に合わなかった。

 その事実がニーナを打ちのめす。

 悔しさや悲しさ、怒りといった感情が複雑に絡まって目の奥を熱くさせた。

「――お前たち銃を下ろせ!」

ニーナと同じくらい苦し気に顔を歪めたキースが警告する。

 だが人質を取られているニーナたちの方が圧倒的に不利だった。 

 それは男たちもわかっているのかニヤニヤと不快な笑みを浮かべてこちらを見る。

「俺たちはこいつに聞きたいことがあるんだよ。ちょっと黙ってろ」

「もし変な事したら、わかってるだろ?」

 アランを抱えた男がその子供ごとこちらを振り返った。

 アランは恐怖で声も出せないほど震えている。

 それを見たニーナは一瞬でこの男たちを無傷で無力化する選択肢を消した。

 子供と牧師の命を助けるためには外の男たちのように生ぬるい方法では駄目だ。

 それにどのみちこの角度ではいくらキースでも銃だけを弾き飛ばすことはできないだろう。

 人質と突きつけられている銃口の距離も近すぎる。

 男たちが引き金を引くよりも早く腕を撃ち抜いて無力化するしかないのだが、生憎今は射撃が得意なキースと意思疎通する余裕がなかった。

 こちらを向いている男から目を離さずに頭の中でシミュレーションを始める。

 まずはアランを人質にしている男の右腕を撃ち抜く。それからアランを捕まえている左腕も撃ち抜き無力化完了。だが問題はもうひとりの短髪だ。

 こちらに背を向けているのでピンポイントで腕を狙えない。

 一瞬で無力化できなければその間に牧師が撃たれる可能性が格段に上がってしまう。

 肩を撃ち抜けばいけるだろうか。

 ああでもそもそもアランに当たったらどうしよう。

 今さらながらにもう少し射撃を真面目にやっておけばよかったと思う。

 ニーナが唇を噛み締めた時、牧師に銃口を向けている短髪の男が苛立たし気に口を開いた。

「で?例の物はどこにあるんだ?」

「なんのことだが、わからんな……」

「ふざけんじゃねぇ!俺たちが何の情報もなくここに来るわけねぇだろうが!」

「知らんと言ったら知らん……!」

「このじじい!」

 短髪男の苛立ちが目に見えて酷くなっていく。

 男は牧師に何かを聞きたいようだからそう簡単には引き金を引かないだろうが、勢い余って、ということもありえそうだった。

 そこでニーナはひとつの作戦を思いついた。

 一瞬でもこちらに銃口を向けさせられれば、その瞬間に勝負はつく。

先程と同じように。

「――ちょっと!例の物って何のこと!?」

「ちょ、ニーナ!?」

 隣のキースが信じられないものを見るような視線を向けいているのに気づいていたがあえて無視をする。

「大体あなたたち何者なの!?」

「うるせぇ黙ってろ!このガキ殺されたいのか!」

 見せつけるように子供を抱えていた男が銃口をその頭にぐりぐりと押し付けた。

 アランが「ひっ」と悲鳴を上げる。

 再び顔を歪めたニーナを見て男は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 その顔についにニーナの我慢の限界を超える。

「――調子乗んじゃないわよ」

「あ?」

「調子に乗るんじゃねぇって言ってんのよ。大体私たちがここにいる時点でアンタたちの計画は失敗してんの。もうすぐこっちは応援も来るし、完全にチェックの状態よ。アンタたちが選べる選択肢はふたつ。大人しく投降するか、私にボコされるか。さあ選びなさい」

「なんだと?お前にはこの人質が見えないのか――!」

「アンタこそ見えないの?このバッチが」

 見せつけるように銃を握っていない手でジャケットの襟を掴んで示す。

 そこに輝く銀バッチにようやく男に動揺の色が見えた。

「そ、それは――!お前たちIPUか!」

「ご名答」

「なんだと!?」

 短髪男も確かめるようにこちらに顔を向けた。

「だ、だがいくらIPUでも人質がいるこの状態じゃあ勝ち目はないだろう!」

「そうね。今の状況じゃあちょっと不利ね。でも作戦次第では一瞬で黒が白に変わる可能性だってあるのよ」

「なんだと――」

「それに、わかるでしょう?私たちはアンタたちよりよっぽど訓練を積んでる。今すぐその脳天ぶち抜いてチェックメイトにしてやることなんて簡単なのよ?」

「――っ!」

 犯人を生かそうと考えるから人質救出作戦は困難なのであって、犯人の完全鎮圧が許されるのであればとっくに勝敗はついている。

 キースなら絶対にはずさない。

 この場にその許可を出せる人間がいないことだけが悔やまれた。

 その場合は例えどんな凶悪犯であろうと生け捕りが原則だ。そして生け捕りに失敗することなどIPUでは許されない。

「くそっ!」

「おいやめろ!」

 アランを人質に取っていた男がニーナにその銃口を向けた。瞬間IPUの三人が同時に動き出す。

 キースは瞬時にその銃を弾き飛ばし、ほぼ同時に17部隊員が男の右肩を撃ち抜いた。

 ニーナにはできない完璧な射撃にさすがだなと他人事のように思いながら倒れ込んだ男の横を通過する。

「くっ!」

 突然の出来事にパニックになった短髪男がニーナに向けた銃口は弾が放たれる前に強力な蹴りに寄って軌道を逸らされた。間を空けず回し蹴りをその横面に叩き込む。

 全力の蹴りによって吹き飛ばされた男はそのまま礼拝堂の壁に頭を打ち付けて沈黙した。

 ゆっくりとその男の前に歩み寄ったニーナは気を失った男の額にピタリと銃口を当てる。

この距離なら、外さない。

時々思うのだ。こいつらはこうまでして生かす価値があるのだろうかと。

 どうせ裁判にかけても一生を刑務所の中で過ごすことになるだけだ。それならいっそここで――。

 そう思うのに引き金にかけた指は凍りついたように動かない。

それは単純に自分の覚悟が足りないからではないのか。

 奪われた命に報いる対価を差し出す勇気が。

「やめとけニーナ」

 不意に銃を持った手にキースの温かい手が触れた。

 そのまま安全装置をかけ、そっとニーナの手を押して下げさせる。 

 ニーナは奥歯を噛み締めながらも素直に従った。

「それは俺たちの仕事じゃない」

「……わかってる」

「ならいい。ほら、まだやることはあるぞ」

 キースの言葉にもっとやるべきことがあったことを思い出す。

 見渡せば17部隊員は怪我をした子供たちの応急処置をてきぱきと始めていた。

 だがニーナは子供たちの数が圧倒的に少ないことに気付いていた。

 壁に背を預けて呆然と宙を見つめている牧師に駆け寄る。

「牧師様大丈夫ですか?」

「……ああ、はい、私は――。しかし子供たちが……」

「……」

 悲痛に顔を歪めて涙を流す牧師にニーナはかける言葉が見つからない。

 つられて目の奥から熱いものがこみ上げてきたとき、IPUの応援部隊が教会の中にも入ってきた。

 状況を瞬時に理解し、それぞれが犯人の捕縛、怪我人の手当てを始める。

 それを確認した後、ニーナの隣に立っていたキースが静かに問いかけた。

「――他の子供たちはどこです」

「……この先の地下に」

 牧師が指したのは自らが背を預けていた壁。見たところただの壁のようだが、ゆっくりとした動作で立ち上がった牧師がちょうど立った位置にあった十字架に触れた。それを押すとカチッっと音がして壁がわずかに奥へ窪んだ。そこを直接押すと壁は普通の扉が開閉するのと同じように開く。開かれた先は階段が続いていた。

 以前地下に物資を運んだと言っていたのは嘘ではなかったらしい。

 何故隠し扉のようになっているのかは若干疑問だ。

 見つからないように隠すようなものでもないと思うのだが。

 そんなニーナの疑問に答えるように牧師が「万が一のためのシェルターです」と口にした。

「中世の時代は貴重な品を保存する為に使われていたようですが、今は食糧を保存するのに使っています。結構広いので、『鷹』に襲われた時の為にここに瞬時に避難する訓練もしていたんです。日々の訓練は大事ですね。寝込みを襲われてもほとんどの子供たちは助かりました……」

 階段下を見つめる牧師の顔は相変わらず涙で濡れている。

 ほとんどは助かったが、ひとりの尊い命は失われたのだ。

 ニーナはぐっと拳を握りしめて涙を堪える。

 まだ、泣くわけにはいかない。

「ライラック、ウエーバー」

 低く厚みのある声に振り返ると、眉間に深いしわを刻んだフィジーの姿があった。

「何がどうなっている」

「俺達にもさっぱりですよ。突然あいつらがやってきて撃ち合いを始めたんです」

「……そうか。とりあえずあいつらは16、17部隊に引き渡す。――牧師様、お辛いでしょうが、あなたにも事情を聞かねばなりません」

「今は無理です。少し時間を空けては?」

「そうだな。どのみちここは現場保存で明日いっぱい使えない。子供たちと共に場所を移し、明日ゆっくり話を聞かせてもらいます。いいですね?」

「……はい」

 確認する言葉とは裏腹に有無を言わせない威圧感を漂わせるフィジーに牧師が弱々しく頷いた。

それからニーナに視線を移し「子供たちのもとへ行ってもいいでしょうか」と問いかけたので頷いて答える。

牧師は「ありがとうございます」と言うと素早く階段を降りて行った。

「この先には何が?」

 先程の牧師の話を聞いていなかったフィジーにキースが説明している間、ニーナは18部隊員の中でも若いメンバーに肩を抱かれたアランに視線をやっていた。

 先程人質にされていた子供だ。

 隊員の質問に反応はなく、ぼーっと虚ろ気にどこかを見つめている。

 耐えきれずニーナはフィジーに許可を取ると子供のもとへ駆け寄った。

「代わります」

「ああ、ニーナか。助かったよ。俺子供ってどうしていいのかわからなくて」

 心底安堵したように息を吐いてさっさと他の作業を手伝いに行く青年に、ニーナは心の中だけで「自分にもわかりませんよ」と苦笑した。

 ただ放って置けなかっただけなのだ。

 突然寝込みを襲われ、友を撃たれ、一時とは言え人質に取られていた。

 どれほどのショックを受けているのか想像もできない。

 ニーナは目線を合わせるように膝をつくと、そっと微笑かけた。

「あなたはアランよね。私がわかる?」

「……」

 声のないまま、しかし少しだけ頷く。

 その瞳には戸惑いの色が濃い。

 まだ何が起こったのか理解していないのかもしれない。

「怪我はしてない?」

「……」

 頷き。

 ニーナは歪みそうになる口角を無理やり引き上げて微笑を保って「そう。よかった」と努めて穏やかな声を出した。

 こちらが動揺すれば、アランはもっと動揺するだろう。

「他の子もすぐに来るから、ちょっと外に出てようか。おいで?」

 手を差し出すが、アランはじっとその手を見つめたまま動かない。

「もう大丈夫だから。怖くないよ。大丈夫」

 何度も言い聞かせる。

 アランの瞳から涙が溢れた。それから堰を切ったように大声を上げて泣き出す。

 そのあまりに大きな声に何人かがぎょっとしたようにニーナの方へ視線を向けたが、気にせずニーナはアランをそっと抱き上げた。

 あまりに細く、あまりに軽い身体。ニーナの力でも壊れてしまいそうなアランを優しく支えて外へと向かう。

 その際現場検証の為床に置かれたままになっている子供の姿を見せないようにアランの額を肩に押し付けるようにした。

 早く彼もちゃんとした場所へ寝かせてあげてほしい。

 このままでは他の子供たちもあれを目撃する事になってしまう。

 家族のように過ごしてきた友達が亡くなったという事実だけでもトラウマになるだろうに、血の海に沈んだ姿を見たら精神を崩壊させかねない。

 ニーナも養成学校に入りたての頃は大量出血した友を見た時はかなり動揺したが、今では血が流れたくらいでは動揺しなくなっていた。

 厳しい訓練で血が流れるのは当たり前だったし、卒業して正式にIPUに配属されてからは少なからず危険な現場で命のやり取りを経験してきた。命を奪わないまでも、犯人を撃った事もある。

 だからこんな現場でも取り乱して泣きわめく事はしない。

 それでも。それでも善良な市民の、しかも幼い子供の命が奪われたとあっては冷静ではいられない。気を緩めればすぐにでも泣き出してしまいそうだ。

 あの時なりふり構わず犯人を射殺していれば。と出来もしない事を永遠と考えてしまう。

 考え込むニーナの心をアランの泣き声がえぐる。

 あの時もっと違う選択をしていたら、違う作戦を選んでいればあの子の命は失われずに済んだのだろうか。アランが消えない傷を心に負うことも、こんな風に泣き声を上げることもなかったのだろうか。

 心を落ち着かせるため深呼吸しようとして、失敗した。

 この肩を濡らした涙はきっと一生忘れられないだろう。

 子供をひとり死なせてしまった。

 負けなしで来たニーナにとって初めての敗北だった。





 それから無事だった子供たちと牧師は調査が終わるまで一時的に政府の宿泊施設に身を寄せることになった。怪我をした子供たちや教会を守っていた男たちは警察病院で治療を受けている。

 教会では地元警察と16~17部隊の主要なメンバーが調査を進めているが、『霧』に関連するものは現在のところ出てきておらず、やはり『鷹』のターゲットになっていたという方向で落ち着きそうだった。

 教会を襲った男たちの内、怪我をしていない3人の男たちは支部に近い警察署に拘留され、そこで16部隊員を中心としたメンバーによって厳しい取り調べを受けている。だが現在黙止を貫いており、何も情報を得られていない。あの日17部隊員によって肩を撃ち抜かれた男も医師の許可が下り次第取り調べを開始する予定だ。

 ただ、ニーナには気になることがあった。

 教会の地下室も例外なく調べたが、木箱は数箱あったものの中に食料は保存されていなかったのだ。

 ニーナたちの送った食料は保存のきくものが約1か月分。礼拝堂の横に隣接されたキッチンに保管されていたが、約半分ほど消費されていた。

 扉を守っていたあの男はニーナたちが送ったものよりも多くの食料が木箱に詰まっていた為地下に運び込んだと言っていた。なのに中身が空で、さらにニーナたちの食料が半分ほど消費されているというのは明らかにおかしい。

 地下に運び込まれた木箱の中身は食糧などではなく、ニーナたちが送ったものだけで生活していたと考えるのが自然だ。

 だがそれなら中身は一体何だったのか。

 それに、牧師は木箱について訊ねた時「シュナイザーからは他にもたくさん――」と言っていた。つまり木箱はシュナイザーが送ったものということか。

 考えなければならない事、さらなる調査は必要だが、ニーナは今日の午前中臨時の休みを貰っていた。

 先日亡くなった子供の葬儀が別の教会で行われるのだ。

 アフターケアの為に訪れていた子供たちと牧師の仮宿でよければ出席してあげてほしいと言われたのでフィジーに相談し、部隊を代表してニーナが出席することになった。

 IPUの制服は白を基調としているので、私服として持ってきていた黒いスーツに身を包む。

 自分でも精神的な疲労で酷い顔をしている自覚はあったが、キースのみならずフィジーやたまたま出くわしたジニーにも心底心配されて、そんなに心配されるほど酷いのかと一旦冷水で顔を洗ってから出てきた。

 だがいまいちすっきりしない。

 これから葬儀に参加しようというのだから当たり前といえば当たり前なのだが。

 何度目かわからないため息をついてスラム街の外れへ向かった。





 朝から雲の多い空だったが、小さな棺が墓地に納められる頃にはどんよりと暗く重い雲に包まれ今にも泣き出しそうだった。

 空から視線を下げれば墓の前の子供たちが嫌でも視界に入る。

 棺が深く掘られた穴に沈められ、土をかけられてその姿を消していく。それでようやくもう友には会えないのだと理解したらしい小さな子供たちが大きな声で泣き出した。

 思わず耳を塞ぎたくなるくらい悲痛な叫びに胸が締め付けられ、呼吸が苦しい。

「……誰かを喪う事は初めてではないけれど、これは、きついね」

「シュナイザー……」

 ニーナの隣に黒のスーツに身を包み、きっちりとネクタイを締めたシュナイザーが並んだ。いつもはそのままにしている髪も今日は首の後ろで束ねられていた。

 その顔は何かに耐えるように眉間に深いしわが刻まれている。

 支援活動に熱心な彼はニーナよりよほど彼らと過ごした時間が長いはずだ。ニーナの感じている痛みなど、シュナイザーに比べれば針で刺されたくらいのものかもしれない。

 それでも痛い。じくじくと心臓が脈打つたびに痛みを伝える。

 それと同時に後悔が繰り返し繰り返し押し寄せる。

 助けられなかったニーナには謝罪の言葉しか浮かんでこなかった。

「……君のせいじゃない」

「え――」

 いつの間にか俯いていた顔を上げる。

 シュナイザーは相変わらず墓を、そしてそれを囲む子供たちを見ていた。

 噛み締められた唇の間から絞り出すような声で続ける。

「自分の手の中にあるものは自分で守らなければいけなかったんだ」

「――っ」

 その言葉にニーナは身体をナイフで刺されたような衝撃を受けた。

 遠回しに謝罪を拒絶されている。

 遠回しに守れなかったことを責められている。

 そんな気がした。

 それならいっそ正面から罵られた方がいい。

 お前の力不足であの子は死んだのだと責められた方がどんなにいいか。

 謝罪さえ許されないのは一番きつい。

 苦しみから逃げる機会を失ったのだ。いや、もしかしたらこれがシュナイザーの与えた罰なのかもしれない。

 いよいよ息が止まりそうだった。





 葬儀を終えて子供たちは教会の中へ戻っていった。

 精神的なダメージが大きく、しばらくここで休んでいくそうだ。

 本当ならニーナも仕事を休んですぐにでもベットに飛び込みたかった。それどころか国に帰ってしまいたいとさえ思った。だが、まだ仕事は残っている。

 先程からため息が止まらないのもその仕事のせいだった。

 今一番言葉を交わしたくないシュナイザーに話を聞かなくてはいけない。

 シュナイザーの事は葬儀のあと少し話ができないかとスラム街に近いこの喫茶店に呼び出してあった。

 小さな喫茶店は寂れていて、人気がない。だがかつては栄えていたのか席だけは多かった。

 カウンターから離れた席に座れば店員に話を聞かれる心配もなさそうだ。

 注文したアイスコーヒーに手を付けず、そのグラスに伝う雫をぼーっと眺めてどれくらい経っただろう。

 カランと鈴を鳴らして扉が開き、墓地にいた時よりはわずかに表情をやわらげたシュナイザーが入ってきた。

 待ち合わせをしていたのに席に着く前に「座っても?」と確認を取る。

 ニーナが「どうぞ」と声をかけると、その正面に向かい合う形で腰を下ろした。

 それから注文を取りに来た店員にホットコーヒーを頼む。

 店員にあまり聞かれたくない話なので、シュナイザーのコーヒーが届いてからようやくニーナは口を開いた。

「――あの子の葬儀の段取りをしてくれたのはシュナイザーだったんですね」

「ああ。彼らには葬儀を上げてくれる家族もいないからね。それにせめて人並みの弔いをしてやることくらいしか僕にしてやれることはないから」

「そんな……。シュナイザーはもう充分――」

「慰めはいらないよニーナ。それより、話したい事があるんだろう。あまり時間がないから、本題を話してくれると助かるな」

「……はい」

 いつの間にかシュナイザーとの間に見えない溝ができている。その向こうへ踏み込むことは許されなさそうだった。

 深く深呼吸を気持ちを入れ替えると、シュナイザーの要求通り本題に入る。

「――あなたがあの教会に運び入れた木箱の中身についてです」

 確認とはったりを込めて直球でぶつける。

 ひとつの変化も見逃さないよう注意深くシュナイザーを観察するが、シュナイザーは涼しい顔でコーヒーに口をつけると「それがどうかしたのかい?」と返した。

 やはり木箱はシュナイザーの指示で持ち込まれたものらしい。

 その事実に、逆にニーナが頬を引きつらせることになった。

 できればそれも違ってほしかったのだが、だがまだ可能性は残っている。

 シュナイザーが『鷹』にも『霧』にも関わっていないという可能性が。

「木箱を運び込んだことは認めるんですね?」

「あれはただの支援物資。食料品が入っていたはずだ。君が送ったものとそう変わらないと思うけど、何か変だったかな?」

「いえ。教会の扉前に立っていた男性も中身は食料だと言っていました。でも、だからこそおかしいんです」

「どう、おかしいのかな」

 余裕すら感じさせる微笑を刻みながらシュナイザーが首を傾げた。

「扉の前に立っていた男性がおっしゃるには、私たちが送った物資よりもシュナイザーが送った食料の量が多かったので地下に運び入れたそうなんです。でも不思議なことに例の事件の後調べたら中身が空だったんですよ。物資が運び込まれたのはつい3週間くらい前のはずです。私達が送った食料も半分近く消費されていましたし、そんなにすぐに、しかも跡形もなく食料が消え去るとは思えないのですが……」

 シュナイザーはまっすぐにニーナを見ている。

 その瞳には一切の動揺や困惑と言った感情は見つけられない。

 瞼にも、頬にも変化はなかった。

 本当にやましいことはないか。それともよほど訓練を積んで動揺を見せないようにしているのか。ニーナには判断できなかった。

 嘘を見破るのはニーナの所属する18部隊の隊長ヴァンフォートや副隊長であるアッシュの得意とするところだ。

 キリキリと痛み出した胃につくづくこういう心理戦は向いていないと改めて思う。

 そんなニーナを見てシュナイザーが「ふふっ」と笑った。

「そう、食料がね。でも送った後それをどうするかは受け取った側の問題だから。何かがあって大量に消費しなければいけない日があったのかもしれないし。そんな深刻そうな顔をすることでもないんじゃないかな」

「確かに、そうですけど……。あの木箱いっぱいに食料が詰まっていたとしたら余裕で二か月はもつはずですよ。何かがあったにしても異常な消費です」

「うーん。それは牧師様に確認することじゃないかな。もうすでに僕の手からは離れている事だよ」

「――わかりました」

 これ以上こちらに手札がない以上追及するのは不可能と判断し、ニーナは切り上げた。だがまだ聞きたいことは残っている。

「ではあと2つだけ質問に答えてください」

「なにかな?」

「ひとつ。違法な武器売買を行っているという『霧』という組織について何か知っている事はありませんか。噂程度でも構いません」

 ゆっくりと瞬きをひとつして「さあ」と困ったように眉を下げるシュナイザー。

「特に話せることはないかな」

「そうですか……。じゃあ最後の質問です。ハミルトン・ライラックについて知っていることはありませんか?ハミルトンは私の兄なんです。学生時代から孤児や難民の支援活動に熱心で、でも8年前に失踪してしまって。同じように支援活動をしているシュナイザーならなにか知っているかと……」

 世界にどれだけ苦しんでいる人たちがいるか、いつも熱心に両親に話して聞かせていた兄、ハミルトン。

 IPU養成学校に通い始めてからはよく海外視察団に参加して世界中を飛び回っていた。

 そこで何を見たのか、いつしかハミルトンは長期休みのたびに海外旅行を繰り返すようになる。旅行先で学校に通えない子供たちに勉強を教えたり、遊びを教えたりしていたらしい。帰宅したハミルトンがお土産を渡しながら嬉しそうに語っていたことを思い出す。

 だがそんなハミルトンに両親は無事に養成学校を卒業できるのかと小言を繰り返すようになる。そんな心配をはねのけるように主席で卒業したハミルトンを誇らしく思った。

 恵まれない人たちに手を差し伸べ、IPUの第1部隊に配属されたハミルトンはニーナの憧れであり、目標だった。

 IPUに配属されたハミルトンとは圧倒的に会える時間が少なくなっていたが、顔を合わせるたびに元気がなくなっていたのは感じていた。

 慣れない仕事で疲れているのだと言っていたが、それでも合間を縫って世界中のスラム街へ足を運んでいたらしい。いつだったかIPUでは世界を救えないと漏らしていたことがある。

 あの時もう少ししっかり話を聞いていれば、ハミルトンはIPUを辞めることも国を出て行くこともなかったのだろうか。

 何より悔しいのはIPUを辞職し失踪したというだけで両親がハミルトンをはじめからいなかったかのように扱い出したことだ。

 確かに第1部隊に配属されながら1年も経たずに辞職するなど異例で、しかもその後に失踪するというのは世間体が悪かったかもしれない。だがそれでも両親の態度は許せなかった。

 ハミルトンの存在をライラック家の汚点として話題に出す事すら許されず、ニーナは個人的に捜索するしかなかったのだ。

「――8年か。僕も活動を始めたのはそのくらいだけど、生憎君の兄についても話せることはないな。ごめんね」

「……そうですか」

 ハミルトンはこの国では活動していなかったのか。

 では一体どこへいってしまったのか。

 ぐっと唇を噛み締めるニーナをシュナイザーが感情の読めない瞳で見つめている。

 その視線は目の前のニーナを通り抜けて別の場所を見ているようだった。

 そんなシュナイザーが不意に「――『鷹』にさらわれていなければいいけどね」と言ったことでニーナの心臓が痛いくらい高鳴る。

「『鷹』に、さらわれる――?」

「IPUなら知っているだろう?鷹は身寄りのない難民や孤児を攫って売り払う。最近は北の医療工場を隠れ蓑にしているって噂だし、子供たちにも注意を呼び掛けているんだよ」

 シュナイザーの声がどこか遠いところを通り抜けていく。

 心臓の音がうるさい。

 『鷹』にさらわれる。どうしてその可能性を消していたのか。

 8年も見つからないハミルトン。

 スラム街で暗躍する『鷹』。

 ハミルトンが『鷹』に接触していた可能性はかなり高い。

 だがIPUを辞めたといってもハミルトンは養成学校を主席で卒業している。

 体術だってそこらの軍人ですら打ち負かせるほどだ。それに武器の扱いが違法でない国はたくさんあるし、銃を持っていれば簡単に捕まるはずがない。

 でもならなぜ8年も見つからない?

 『鷹』に捕まっていたとしたら説明がつくのではないか。

 そしてそれはつまり――。

 絶望的な結果を想像してニーナは思わず頭を抱えた。

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