第4章

「はぁ……」

 とても仕事ができる心境ではなかったニーナは結局午後も仕事を休んでしまった。

 自分の力不足で命を落とした子供の葬儀。

 『鷹』にさらわれたかもしれないハミルトン。

 様々な感情が体中を駆け巡って、自分でも自覚できるくらい精神的に疲労していた。

 部屋にこもっていては余計に気分が滅入ると思い支部の中庭にある東屋で休んでいるのだが、ため息が止まらない。

 ついにニーナはテーブルに突っ伏してしまった。

 そんなニーナに気配を殺して近づく影。

 痛んだ東屋の床に足を乗せても音ひとつ立てないその影は、しかし完全に存在を隠そうとしているわけではないようで堂々とニーナの正面に立った。

 それらをニーナはわずかな振動や空気の流れで感じ取る。

 影が剣を抜いた。だが鞘から抜いた音はしない。

 危険性はないと判断してそのままにしておくと、案の定丸みを帯びた鞘が首筋に触れた。

 反応しなかったことがつまらなかったのか、頭上から大きなため息が降ってくる。

「――お前、もう少し危機感を持て」

「――ヴァンフォート」

 よく知った声に顔を上げると、本部にいるはずのヴァンフォートがきっちり制服に身を包んで立っていた。

 光を集めたような金髪が太陽の光に透けている。

「なんでここにいるんですか?」

「銃撃戦があったと報告が届いてな。隊長不在ではさすがにまずいと急いで駆けつけたんだ」

 言いながら腰に鞘ごと剣を差し戻し、移動に2日もかかったとため息をついてニーナの正面に腰を下ろした。

「お前はずいぶんふぬけているようだな。支部内でも何があるかわからない。気を抜きすぎるな。私が本気だったらその首は胴から切り離されていた」

「それは、そうかもしれませんけど。殺気がなかったから大丈夫かと思って。それに相手が本気なら私もそれなりに対処しました」

「どうやって?」

「え?」

「私がお前を本気で狙ってきていたらどう対処していた?」

「それは―――」

 ここは中庭でわずかながら人が隠れられる木も立っている。命を奪おうとするなら銃で遠くから狙うことも可能だ。そうなればいち早く殺気を感じ取るしかないが、ヴァンフォートのように剣で直接始末しようと近づいてくるのなら素早く柵を乗り越え相手との距離を取り、相手の情報を収集する。

 それから動きやすい広場へ誘導し、得意の体術へ持ち込む。

 ニーナの対処法にヴァンフォートは「いいだろう」と頷いた。

「敵と対峙した時は常にあらゆる可能性を想定し、それに備えることが重要だ。もちろん対処できる力を身に着けている事が大前提だが」

「……遠回しに今回こと責めてます?」

 なぜ顔を合わせて早々にこんな話になっているのか、ニーナはすぐに予想がついた。

 恐らく報告書で大体の状況を把握したヴァンフォートは襲撃の際他にやりようがあったのではないかと言っているのだ。

 対処法、あらゆるパターンを想像し、それを実行できる力。

 今回ニーナにはそれが足りなかった。

「自覚してますからこれ以上傷えぐらないでください……」

 何もかもを見透かしていそうなブルーの瞳に見つめられ、耐えきれずに再びテーブルに突っ伏した。

 何も今傷口に塩をぬりこむような事をしなくてもいいではないか。

「ちょっとは慰めてくださいよ……」

「お前がそんな事を言うなんてよほど弱っているんだな……。だが慰めはなんのためにもならない。ひとつだけアドバイスをするのなら今の気持ちを忘れるな。もう二度と同じ過ちを繰り返さないためにももっと強くなれ。どんな状況でも冷静に戦略を練ることができるように精神力を鍛え、様々なパターンを想像し、それに対処できる力を身に着けるんだ」

「……今はそんな前向きにはなれません」

「今日中には浮上させるんだ。何もせずに過ごした1日を後悔したくなければな。それに状況は常に変化している。のんきに休んでいる暇はないぞ」

「えー、ヴァンフォート冷たすぎますよー」

 抗議のために顔だけ上げると、ヴァンフォートはいつもの無表情に近い顔ではなく、少しだけ眉を下げていた。

 どこか悲しそうなその顔にニーナは自然と身体を起こす。

「ヴァンフォート?」

「――いいかライラック。IPUにいればかなりの高確率で今回のような不測の事態に遭遇する。お前は少し早かったが、先輩たちの大半はそんな気持ちを乗り越えてきたんだ。――私もそうだ」

「ヴァンフォートも――?」

「ああ。今も忘れられない。19の時だ。当時第5部隊に所属していた私は第6、7部隊と共に国際的なマフィアを追い詰めていた。長い時間をかけ本拠地を探り当て、壊滅のため一斉捜査に入ることになった。マフィアだけに相手も武器は豊富で、部隊全体に近況が走っていた。そして案の定すぐに激しい銃撃戦に突入した。だが私たちは順調に深層部へ進み、確実にボスに近づいていた。5ブロック進んだところで作戦通り第5部隊は3つのグループに分かれ、捜索を開始した。不測の事態が起きたのはその時だ。いつの間にかボスの居住区に入っていたことに気づけなかった。物陰から酷くおびえた様子の少女が飛び出してきたんだ。逃げ遅れたボスの娘だった。私達は保護するため彼女に近づいた。その時彼女の護衛をしていた青年、いや、まだ16の少年だった。彼が飛び出してきて銃撃戦が始まった。本来ならすぐに足か腕を撃ち抜いて無力化するが、居住区とあって障害も多く私達は思い通りに攻められないでいた。そしてその銃撃戦の中、逃げていたボスの娘に流れ弾が当たってしまった。少年は怒り狂い、私たちに向かってきた。そして私は彼を殺した」

「……そんなことが」

「すべては己の至らなさ故だ。あの時の私はまだ100発100中で狙った場所を撃ち抜けるほど射撃の腕も良くなかった。言い訳にしかならないが、あの時も殺すつもりはなかったんだ。狙いが逸れ、最悪の結果になってしまった。さすがに落ち込んだよ。でも私は逃げなかった。寝る間も惜しんで射撃の訓練に打ち込んだ。もう二度と無駄に命を奪わないために。その結果が今だ」

「……意外です。射撃の腕はIPUの中でトップレベルですよね。てっきり初めから得意だったのかと……」

「努力の結果だ。養成学校時代は一度射撃で再試験になったこともある」

「ええ!?嘘ですよね?」

 次期総隊長候補に名を連ねていると言われるほどの優秀な隊長が養成学校時代の事とはいえ再試験を受けていたなんて衝撃的過ぎた。

 ニーナも射撃は得意ではないがギリギリ再試験は免れている。

 それほど苦手だった射撃の腕をIPUのトップレベルと言われるほどに引き上げたヴァンフォートの努力は想像もできない。

「本当だ。だが成長し続けなければまた失うことになるからな。それだけは絶対に嫌だったんだ。――お前も成長を止めるな。誰にも奪わせないため、そして奪わないためにも」

「はい」

 ニーナが力強く頷くとヴァンフォートがわずかに口角を引き上げて笑った。

 それから上着の内ポケットから15cm四方の綺麗にラッピングされた物を取り出すとニーナの方へ放り投げる。

「うわっ、とっと!」

  なんとか落とさずにキャッチしてすぐに気づいた。

  このラッピングは――。

「ハンリーベル!貰っていいんですか?」

「ああ」

 ニーナはぱあっと心が明るくなるのを感じた。

 ハンリーベルは世界的に有名なチョコレート専門店だ。だがそのこだわりから易々とニーナのような薄給の者が買えるような品は皆無に近い。

  このサイズで10粒ほど入っていて恐らく1万以上はする。

  とんでもなく高い。それでもやはり値段に合った味がするのだからセレブたちはこぞって通うのだろう。

 ニーナも5粒入りの物を一度無理して買ったことがあるが、見た目の華やかさはもちろん、甘すぎず苦すぎず鼻に抜ける香りの良さは群を抜いていた。

 自分で買ったものはもったいなくて一週間かけてちびちびと食べた事を思い出す。

 まさかそんな高級品を貰えるなんて。

「ありがとうございます!」

「疲れたときには糖分がいるだろうと思ってな」

  夕方の会議には出ろよと言い残して去っていくヴァンフォートは先程より倍輝いて見えた。

  この価値を知っているだけにニーナは元気よく敬礼して見送る。

「了解しました隊長!」

 高級チョコレートの力であっという間に気分を浮上させたニーナに、ヴァンフォートは振り向かないまま片手を上げてその声に応えた。

 その姿が見えなくなってさっそくラッピングを解く。包み紙も破るのは心が痛むので綺麗にはがし取った。

 包装紙の中から出てきたのはブラウンの箱。銀の文字でハンリーベルと書かれている。その箱を開けた途端ふわりとチョコレートの香りが鼻を通り抜けていった。

「わぁ……!」

 その香りだけでもうっとりしてしまうのだが、ハンリーベルのチョコは視覚でも楽しませてくれる。

 食べる前に視覚や嗅覚で楽しんでいるとまた誰かがやってくる気配がした。ただし今度は普通に足音が聞こえる。

 チョコレートから視線を上げると、どこか困ったように頭を掻きながらキースがこちらに歩いてくるところだった。

 片手に小さな紙袋を下げている。

「キース。お疲れ様ー。休憩?丁度今ヴァンフォートにハンリーベルのチョコ貰ったんだ。ちょっと分けてあげる」

「――ああ。見てたから知ってる。ハンリーベル渡されちゃあ俺の出番ないよなー……。隊長ちょっとは気使ってくれりゃあいいのに」

「えー!めちゃめちゃ気使ってくれてるじゃん!ハンリーベルだよ!?」

「いや俺が言いたいのはそうじゃなくて――。まあいいや。俺にもくれ」

 そう言ってキースは先程までヴァンフォートが座っていた場所に腰を下ろした。

 紙袋が無造作にテーブルの上に置かれる。

「それなに?」

「ああ、いや、ちょっと街でうまそうな和菓子屋見つけたから。お前大福好きだろ?」

 ほら、と差し出された紙袋を戸惑いながらも「あ、ありがとう」と受け取った。

 心臓が、妙にゆっくりと脈打っている気がする。

 それでいて頬が火照るような感覚。

 今まで感じた事のない感情に身体がロボットのようにギシギシと動く。

 その不自然な動きにキースが唇をへの字に曲げた。

「なんだよ。俺の大福はいらねぇってのかよ」

「いやそんなこと言ってないでしょ。なに拗ねてんのよ」

「別にー、ただ安物の大福で悪かったなーっと思ってー」

「なにそれ?大福はそんなに高くないもんでしょ?――あ!イチゴ大福!さすが私の好みわかってるねぇ!」

 紙袋には透明なケースにひとつずつ丁寧に詰められた大福が4つ入っていた。

 イチゴが見えるように包まれた大福は見た目にも可愛く、食欲をそそる。

 だがさすがに4つも食べられない。

 ひとつをキースに差し出した。

「一緒に食べよ。ひとりで食べても寂しいし。チョコも食べていいからね」

「さんきゅー。――お、やっぱり高級チョコは香りが違うな」

「でしょでしょ!隊長さすが!」

 チョコをつまんだキースに続いてニーナも桜色に染められたチョコを口に運ぶ。

 途端にカカオの香りが鼻を抜けていった。

 自然と頬が緩む。

 その様子を見てキースが「よかった」と呟いた。

「何が?」

 行儀が悪いとわかりながらもチョコを飲み込んでいない口で問う。

 いつもなら嫌味のひとつでも言いそうなキースだが、そんなこともなくふっと笑った。

 それに少し拍子抜けする。

「お前笑えてるから。朝会ったときは今にも世界が終わりそうなくらい暗い顔してたし、もしかしたらもう帰ってこないんじゃないかって馬鹿な事考えた。それに最近仕事でずっと一緒だったから、今日ひとりで仕事してすげぇ変な感じだったんだぞ。ホント戻ってきてくれてよかったよ」

 キースらしくもなくそんなことを言うので逆にからかってやろうかと思ったが、その顔に哀愁が浮かんでいるのを見つけてしまい言葉が消えていった。

 そんな顔は見た事がない。

「なんでも話せとか言わねぇけど、ひとりで抱え込むのはやめろよ?今回の事は俺にも責任あるし。それにお前が元気ないとこっちまで調子狂うから」

「……もしかして心配してくれた?」

「ばっ――!いや、その……。そりゃするだろ。いつもイノシシみたいに走り回ってるようなやつが今にも身を投げそうな顔してんだぞ。そんな奴の心配しないやついるか?それに俺達18部隊はチームワークが売りだからな。仲間が落ち込んでたら励ますのは当たり前だろう」

「イノシシって!さりげなく悪口!」

「とにかく!仲間だからだ!深い意味はねぇ!」

「大声で言わなくてもわかってるわよ!……でもありがとね。私18部隊でよかった」

「…………」

「ふがっ」

 無言で自身の前にあった大福をケースから取り出すとそれを口に押し込まれる。それだけでイチゴと小豆の香りが鼻をすっと通り抜けていった。

 ニーナはほぼ反射的に口を動かして噛む。

 絶妙なバランスで口の中にイチゴと餡子が広がって下を刺激した。

 餡子は少し甘いがイチゴの酸っぱさが緩和していて、スイーツなのに後味がすっきりしている。これなら2個は食べられそうだ。

 自然と口を開けて次を要求するニーナに二口目を押し込むキース。

「美味いか?」

「うん美味しい。あ、食べちゃったから私の代わりにあげるね」

 キースの手から食べかけの大福を受け取り、代わりに自身の前にあった大福を差し出した。

 それを開封してひとくち食べたキースが捨て犬のような顔で一言。

「――お前、辞めないよな?」

「突然なに。IPUなら辞めないよ。どれだけ苦労して卒業したと思ってるの。それにまだやる事あるしね」

「――そっか。やる事ってのはやっぱりハミルトンか?」

「……うん。それもあるけど、こんな状態で辞めたら一生後悔すると思うしね」

「そうだよな。お前はそういうやつだ」

「なにニヤニヤしてんのよ」

「べっつにー?大福美味いなーと思ってな」

「それは間違いない。よく見つけたね。お店どのへんにあるの?私も今度行ってみる」

「めっちゃ気に入ってんな。葵屋っていって、第三区商店街の通りにある。通り沿いに歩いていけばすぐに見つかるはずだ」

「結構近いね。覚えた」

「俺も別のやつ食べてみたいし、今度一緒に行こうぜ」

「いいね!案内してもらった方が確実だし。まあ『霧』の件が解決するまで休みが合う可能性は低いけど」

「だな」

 2人そろって苦笑する。

 基本捜査中は事件が解決するまで休みはない。

 もらえてもせいぜい半日くらいだ。

 ニーナのように不測の事態によって有休を申請すれば別だが。

「早く解決して国に帰りてぇよな……」

「ほんとにね……」

 はぁっと二人のため息が重なる。

 葵屋の常連になる前に帰れるといいと考えた頭に教会の子供たちの姿が浮かんだ。

 彼らにも今度差し入れてあげよう。

 彼らに対する責任の取り方はまだわからないけれど、彼らからも逃げるわけにはいかない。

 辛くても、苦しくても。

 向き合っていかなければ。

 見上げた空はいつの間にか晴れ間が覗いていた。




 バルト王国に潜入しているメンバーは現地での調査を続行しているが、夕方の会議には久しぶりに18部隊のほぼすべてのメンバーが揃っていた。

 ヴァンフォートや副隊長であるアッシュも来ているので、指揮権はようやくフィジーから隊長であるヴァンフォートに移り、どこかほっとした様子で席に着いている。

 実質捜査の拠点はここハミューズ支部だったのだから捜査の指揮を執っていたフィジーのプレッシャーは相当なものだっただろうと今さらながらに同情した。

 だが現状『霧』についての捜査はほぼ進展していない。

 報告する隊員は隊長を前にして今にも倒れそうなほど顔色が悪い。

「――で、不審な木箱の中身と不審な態度の牧師をはっていたら今回の銃撃戦に発展してしまったわけですね」

 どこか楽しそうな口調のアッシュにハミューズで捜査をしていたメンバーが一斉に顔を暗くする。

 撃ったのがIPUではないとしても一般人に犠牲を出してしまったことは失態だ。責められても文句は言えない。

 だが予想に反してアッシュは責める言葉を口にしなかった。

「今回の事は残念ではありますが、私たちは魔法使いじゃありません。報告書を読みましたが、あの状況では俺でも対処できたか微妙でした。それに襲撃グループを生きてとらえた事は称賛しますよ。16、17部隊の隊長達も感謝していました。何せ、彼らから『鷹』に関する重要な情報を得ることができたのですから」

 一気に会議室にざわめきが広がる。

「やはり彼らは『鷹』に関係があったのですか!?」

「だが何故『鷹』が聖ルノー教会を?」

「結局木箱は何だったんだ?」

 発言前には手を上げるというルールを無視してハミューズ王国で先行捜査していたメンバーが好き勝手に話し出す。

 『鷹』が教会を襲撃したという事実にはニーナも混乱している。

 なぜピンポイントであの教会が狙われたのか。

 それに人身売買組織である『鷹』のメンバーであるのなら、子供たちを迷わず撃っていることにも疑問が残る。彼らをどうしてさらわなかったのか。なぜ牧師を殺さずに銃を向けていたのか。

 それにあの時何を話していた?

 確か――。


 『例の物はどこにあるんだ?』


 そう言っていなかったか。

 例のものとは一体何だ。

 それこそが木箱の中身だったのではないか。

 中身が空だったので確かめようもないが。

 第一『鷹』が求めるものとは何だ。

「はいはい皆さんちょっと落ち着いて。今説明しますからねー」

 アッシュがパンパンと大きく手を叩いて、ようやく会議室は静けさを取り戻す。

 それからわざとらしく「ごほんっ」と咳をして続けた。

「あれからずっとだんまりを決め込んでいた襲撃グループのひとり、自称ギンという男が自分は『鷹』のメンバーだと告白したそうです。『鷹』は武器売買をしている『霧』と取引上のトラブルがあり、縄張りの関係上でももめていたみたいですね」

 そこでメンバーのひとりが今度はきちんと手を上げてから発言する。

「待ってください。取引上のトラブルはわかりますが、縄張りの関係でもめるとは?『鷹』も武器売買に手を出していたということですか?」

「そういうわけではないみたいですね。彼が言うには『霧』はとても偽善的な組織で恵まれない子供たちを支援する活動も行っているようなのです。つまり彼らが守っていた子供たちが大勢『鷹』の餌食になっていたということですね。それで『霧』と『鷹』の関係は修復不可能なほど悪化したという事です」

「子供たちを支援……」

 一気に教会と『鷹』、そして『霧』が繋がった。

 妙な沈黙が一時室内に満ちる。

 だが今回もそれをアッシュが打ち破った。

「ちなみにここまで我が18部隊にはほどんど役立たない情報ばかりですが、ひとつ朗報があります。ギンも噂程度にしか『霧』のメンバーについては知らないそうですが、その噂では『霧』のリーダーはカラスのように黒い髪を肩まで伸ばしているとか」

「――――!」

 一斉にメモを取るメンバー。

 だがニーナだけは固まっていた。

 黒い髪を肩まで伸ばしている男――。

 脳裏に浮かんだ人物はまさにその特徴に当てはまる。

 正確には青みがかった黒だが、遠目には漆黒に見えるかもしれない。

 それに彼は教会につながりがある。

 孤児や難民の支援にも熱心だ。

「シュナイザー……」

「なんだ?」

 思わず呟いた言葉だったが隣に座っていたキースには聞こえたらしい。

 だが正確に聞き取ったわけではないとわかるとすぐに「なんでもない」と誤魔化し、メモに集中するふりをした。

 隣からは何かを探るような視線が向けられたままだが、あえて無視する。

 まだ確信したわけではないのだ。

 シュナイザーは美術商をしていると言っていた。

 まだ、完全なる黒ではない。

 それでも限りなく黒に近づいている事が悲しかった。

 どうか外れていてほしい。勘違いであってほしいと心から願った。

「――まあなんにせよ『鷹』を追っていれば『霧』にたどり着く可能性が高いわけです。それでですね、ちょっと『鷹』捜査の方に協力するように言われてしまいまして。現状『霧』に関してはほとんど捜査も進んでませんし、可能性を信じて我が18部隊も『鷹』の捜査に加わる事になりました」

「そうかもしれませんけどそれなら『霧』を独自捜査するメンバーと『鷹』捜査に加わって探メンバーと別れた方がいいのではないですか?全員が『鷹』捜査に加わるとなるとリスクもあります」

 フィジーの発言にアッシュが「その通りですね」と頷く。

「本格的に合流となればまたチーム分けしなければいけませんが、今回は協力するといってもとりあえずって感じなんですよ。というのも尋問で『鷹』が最近アジトにしている場所が北にある医療工場と判明しまして。そこの捜査を手伝ってほしいという事みたいです。先行調査で得た情報をまとめた資料を拝見させてもらいましたが、確かに2部隊では包囲するのも攻め込むのも難しそうな広さでしたからね」

「つまりその捜査に協力して恩を売っておきたいってことですね?」

 アッシュの意図を感じ取ったらしいキースがげんなりした様子で発言した。

 そんなキースにアッシュは天井画に描かれた天使のような笑顔で「あまり大きな声で言ってはいけませんよ」と窘める。

「ここで恩を売っておけば向こうも積極的に『霧』の情報を探ってくれるはずですし、売っておいて損はないでしょう。というわけで今日16、17部隊長と簡単に打ち合わせしてきた内容を伝えます。配った資料を見てください」

 会議前に配られた資料を一斉に捲る音が響く。

 ニーナもずっと気になっていた資料を捲った。

 1P目には医療工場に常駐していると思われる『鷹』メンバーの数や、簡単なスペック情報が書かれている。

 そのほどんどが街の不良上がりだが、厄介なことに銃やナイフの扱いは慣れているらしい。ギンの証言によれば、簡単な訓練場もあり、時間があれば自主的に訓練しているのだとか。

 そういえば教会を襲った男たちも銃の扱いは慣れているようだった。それに人を撃つことにも躊躇いがなかった。

 さすがに長年IPUの手から逃れてきただけあって厄介な敵であることは間違いなさそうだ。

「まあほぼほぼギンの証言をもとに書かれているわけだけど、あいつの言っていることは信じていいと判断して君たちに見せているから安心して。俺も一度会ったんだけどああいった己の力量も知らず吠える輩ってのはなんでか自慢話は誇張して話をする。つまりここに書かれているより少し弱いと思っていい。だからこれだけ見てビビることはないですよ。でもさすがに数は多いし、建物内の戦いになるからね。油断は禁物です。で、肝心な配置については次のページを見てください」

 言われた通りに次のページをめくると見開きで建物内の見取り図が書かれていた。

 赤と青と、緑の線でそれぞれ囲まれている。

「見てわかる通り3ブロックに分けてあります。つまりそれぞれ16、17、18部隊が担当するエリア分けです。俺たちは青なのでそのエリアを見てください。今回はあくまで援護なので西エリアの、裏口辺りを一掃します。まあ簡単に言えば逃げ出してくる輩の捕縛担当ですね。しかし先程言った通り範囲が広いので18部隊も数人潜入させることになりました。こちらからも攻め込んで籠城を防ぎます」

 そこで再びキースが手を上げた。

「選抜メンバーだけで攻め込むということですか?しかし相手の数を考えるとかなり危険が伴うと思いますが」

「だからこそ選抜メンバーで攻めるんです。まあどのみち建物内の戦いになるので大勢で攻め込んでも足を引っ張り合うだけですから。では早速潜入メンバーを発表します」

 命がけの戦いに挑もうというのにどこか楽しそうなその表情に平隊員の顔色が引きつる。

 誰もが潜入部隊には選ばれたくないと思っているのだろう。

 ニーナだってできれば選ばれたくはない。

 潜入に危険が伴うことは共通認識であるし、建物の構造上制圧が簡単にはいかないであろうことはニーナでも予想ができた。銃も思い通りに撃てなさそうだし、たとえ接近戦になっても通常通りの戦いができるだろうか。おそらくできないだろう。

 接近戦は得意だが、相手の装備を考えると援護は必須。

 その援護も円滑にいくか不安だ。

 なぜ16、17部隊は工場の広い部分担当で18部隊は狭い事務エリアなのか。

 部屋も多いし、廊下もさほど広くはない。

 平面図を見ただけだと圧倒的に18部隊の方が危険で困難な潜入になりそうなのだが、違うのだろうか。

「俺、建物攻略戦て苦手なんだよな……」

 誰かが小さく呟く。

 その僅か数秒後に18部隊内で明暗が分かれることになった。

 ずーんと重い空気をまとって今にも机に突っ伏しそうになっているのはもちろん潜入組だ。

 外で実質待機の状態となるメンバーたちは頑張れよと表情だけは同情の色を浮かべているが、内心自分が選ばれなかった喜びで今にも舞い上がりそうになっているに違いない。

 隠しきれない目のキラメキを恨めしく思いながらニーナはがっくりと首を落とした。

 そんなニーナに声をかけるものはいない。

 何故なら隣の席に座っていたキースも潜入組に選ばれたからだ。

「俺、無理、これ、無理」

 アッシュに名前を呼ばれた瞬間からオウムのように同じことを繰り返し呟いている。

 養成学校から共に試練を乗り越えてきたニーナにはキースが誰よりも絶望する理由がわかっていた。

 恐らく射撃の腕がいいから選ばれたのであろうが、身体の大きなキースは昔から建物攻略戦が苦手だった。

 ニーナは小柄だからちょっとした隙間でも身を隠せるが、キースの体格ではそうもいかない。結果その場に足止めされ、奥へ進むという事が困難になる。

 キースの射撃の腕はニーナも認めているが、今回キースからの援護はあまり期待できなさそうだ。

 そういう理由もあってニーナもつい顔を下げてしまう。

 それに先日の失態もある。

 失った自信を取り戻すには至っていない。

 訓練がしたい。

 追い詰められた状況下で選べる選択肢を増やすためにも。

 そしてもう二度と失わないために。

「なお16、17部隊の確認裏付け調査が行われるので作戦実行日は明後日25時00となります。それまで一旦『霧』の捜査は中止。潜入部隊、捕縛部隊それぞれ会議を重ね、必要とあれば訓練場を使用して当日スムーズに作戦を実行できるようにしておいてください」

「おそらくこの医療工場は本拠地ではないが、ここをつぶせば『鷹』はかなり弱体化されると考えられる。私達は協力という形だが自分たちの獲物と思って取り組んでほしい。『鷹』の餌食となって行方知らずになっている人たちの為にも全力で叩き潰す。いいな」

「はい!」

 ヴァンフォートの言葉に全員が声を合わせて頷いた。

 『鷹』の餌食となった人たちはどこかへ売られていく。だがそれはまだいい方だ。最悪臓器を抜き取られ、ゴミのように捨てられる。

 その中にハミルトンは含まれているのだろうか。

 そうだとして、探し出すことなど出来るのだろうか。

 足元から闇に包まれていくような感覚。先の見えない不安が大きくなっていくのを感じた。

 その不安を拭い去るには訓練しかない。

 不安を感じる必要もないくらい、訓練をしなければ。





 パンッパンッパンッ……。

 パンッパンッパンッ……。

 断続的に射撃の音が響く夜の室内射撃場。

 夕食を終え、職務を終えたほとんどの隊員たちは自室で身体を休めている頃だろう。

 共に夕食を取ったキースもフラフラとした足取りで上へあがって行った。

 だがニーナはその足を4階へ向けることはなく、そのまま地下にある射撃場へ向かったのだ。

 休む間も寝る間も惜しんで自主的に訓練する。思えば学生時代はこんな事が当たり前だった。

 いつからか仕事に追われ、終業後はすぐに帰宅するとベットに倒れ込む生活になっていた。それがいけなかったのだ。

 すべては己の甘えが原因。

 取り戻せない日々をこんなにも後悔する事になるなんて。

 パンッパンッ。

 狙い通りに当たらない弾に苛立ちが募る。

 こんなにできなかっただろうか。

 もう少しできていたのではないか。

 変則的に動く的のポイントにかすりもしない。

 思い通りにならないせいか胃の辺りが気持ち悪い。今にも吐きそうだ。

「もう!なんで当たらないの!?」

 射撃の音に負けないくらいの大きな声が自然と口からこぼれ出た。

 もしかしたら学生時代より腕が落ちているのではないか。

 恐ろしい考えが浮かんで焦ったのか今度は大きく的を外して後ろの壁に当たった。

 9発撃って8発命中。ただし赤い印が付いたポイントに当たったものはわずかに3発。ほとんどが人型の的に当たっただけの素人レベル。

 銃を下ろして左手で乱暴に頭を掻きむしる。

 思わず舌打ちもしてしまう。

「……これじゃあ守るどころか、足手まといもいいとこだよ」

「――お前ちょっと腕の筋力落ちたんじゃね?」

「――――!」

 誰もいないと思っていた空間で突然声をかけられて大げさなほど身体を震わせて振り返る。

 そこには目を見開いたキースがいた。

「なんだキースか。驚かせないでよ」

「いや今驚いたのはこっち。俺が来たことにも気づかないくらい集中してたのかよ」

「……悪い?」

 呆れられたように言われてなぜか無性に腹が立った。

 自然と声が低くなる。

「いや、別に悪いってわけじゃねぇけど……。お前、イラついてんな。気持ちが乱れてるから狙いも逸れるんだよ。射撃は冷静に、だろ」

「わかってるよ――!でも、頭ではわかっててもイライラするんだもん!」

「焦ってるから余計に外す。で、イライラする。悪循環だろ」

「…………っ」

 この手が届く範囲にキースがいたら殴りかかっていたかもしれない。

 銃のグリップをきつく握りしめる。

「……キースにはわかんないんだよ。キースはいつも射撃の成績よかったもんね。どんなにうまくやろうと思ってもできない私の気持ちなんて――」

「ああ、わかんねぇよ。他人の気持ちが100%わかるやつなんてどこにもいねぇからな。でも、お前が焦ってイライラしてんのはわかる。言っただろ、ひとりで抱え込むのはやめろって。俺の射撃を認めてるならなんでアドバイス求めに来ないんだよ。まさかそういうのかっこ悪いとか思ってるわけじゃねぇよな。ひとりで頑張っても出来る事と出来ないことがあるってわかってるだろ」

「…………」

「ニーナ」

「……はぁ。ごめんあたった」

 自分に対するイライラをついキースに向けてしまった。

 イライラは治まったが、代わりに酷い自己嫌悪が襲ってくる。

「あー、ホント駄目だわ、私」

「そんな事言うなって。教会襲撃事件に関しては俺だってダメージ受けてるし、焦る気持ちもわからんでもない。だから尚更誘ってほしかったんだけど」

「ごめん……」

 どれだけ自分の事しか考えていなかったのか。

 辛いのも苦しいのも自分が一番だと無意識思っていた。

 あの場にいたキースだって同じ思いのはずなのに。

「ほんと、ごめん……。私、もうあんな思いをするのは嫌なんだ。だから、教えてほしい。どうやったらもっと射撃がうまくなるか」

 あれだけあたり散らしたら見捨てられてもおかしくないのに、ちらりと見上げたキースは笑っていた。

「そのつもりで来たんだから当たり前だろ。ほら、構えろ。お前にはどんなジャンルでも俺のライバルでいてもらわなきゃだからな。早く射撃でも追いついて来いよ?」

「――うん」

 キースの優しさに少し泣きそうになった。

「いいか。まず何より集中だ。撃つ一瞬の集中力で狙い通りに撃ちぬけるかが決まる」

 そう言ってキースは機械を操作して的を動かし、銃を構える。それから9発立て続けに発射した。

 ニーナのように一発一発構え直すようなことはしない。

 あっという間に撃ち終り、確認すると見事に全弾命中している。しかもしっかりポイントの中心を撃ち抜いていた。

 見事としか言いようのない腕。

 自分とは違い、学生時代よりも腕を上げているように見えた。

 その現実に内心落ち込む。

 しかしすぐに落ち込んでいる場合ではないと顔を上げる。

「どうしたらそんなにすぐに狙いを定められるの?」

「うーん。お前の場合やっぱり腕の筋力の問題じゃないか?一瞬で狙いを定め固定するには結構筋力がいるから。筋力がないと銃の重さでどうしてもブレる」

「えー……。それじゃあ今はどうしようもないじゃない」

「とにかく撃つしかないな!」

「そんな胸張って言うことか!ちっともアドバイスになってないし。もういい、ひたすら撃つからなんかあったら言ってよね」

 ふざけているキースは放って置いて再び射撃スペースに入るニーナ。

 銃を構えたところで背後から名前を呼ばれ、振り返らずに「なに?」と問う。

「建物攻略戦は動きが限られる。お前はすばしっこいから俺とは別行動になる可能性が高い。――無茶するなよ。はぐれてひとりになったら待機か、引き返せ。突っ走るな」

 思いもよらない真剣な声色に振り返ると、まっすぐにこちらを見ていたキースと目が合う。

 キースから伝わる空気の重さに、言葉が出てこない。

「本当はずっとお前の側にいたいけど、敵の人数と建物の構造を考えたらそうもいかないだろうからな。いいか?お前のフォローできるのは俺だけなんだから、くれぐれも無茶はするな」

「……わかってる」

 ようやくそれだけ言葉を返して射撃の構えに入る。

「本当にわかってるのかよ……」

 キースが少し泣きそうな声でニーナの隣の射撃スペースにおさまった。

 スペースを仕切る衝立で顔が見えないのをいいことに、ニーナは「ちゃんとわかってるから」と声をかける。

「――でも頼ってばっかりじゃ駄目だよね」

「え?今なんて――」

 パンッパンッパンッ。

 キースの声をかき消すように射撃を開始した。

 ニーナの言葉を待っているらしいキースだが、しばらくしてキースも射撃を開始したのが音でわかる。

 チラリと見た彼の的は相変わらずきちんとポイントを撃ち抜かれていた。

 キースは学生時代から優秀だ。

 本当は体術も剣術も、何もかも敵わない。

 それでもライバルだと言ってくれる。

 彼の期待に応えるためにも、これ以上情けない姿を見せるわけにはいかない。

 途中で音を上げたキースが射撃場を去ってもあと1回だけとひとり練習を続けた。

 その1回が終わればまた新たにあと1回という気持ちが湧いてきて、自分でも終わりどころがわからなくなってくる。

 結局ニーナは様子を見に来たヴァンフォートに頭を叩かれるまで射撃場を去ることはなかった。





 翌日。『鷹』の拠点捜査協力のため『霧』の捜査を中断した18部隊は昼から潜入部隊と待機部隊に分かれての会議の予定になっていた。午前は基本的に自由時間となっており、この時間を訓練にあてない理由はない。

 誰もが同じ気持ちのようで、午前の全体作戦会議に参加する各部隊長、副隊長以外のメンバーは各自必要と思われる自主訓練に散っていった。

 ニーナはまだまだ不安の残る射撃の腕を上げる為射撃場へ向かう。キースはフィジーの体術訓練に付き合わされているのでひとり地下へ向かう為廊下を歩いていると、正面から先日より幾分げっそりした様子のジニーがやってきた。

 ずっと『鷹』を追い続けてきた彼らにとっては明日の作戦が大きな山場になるのは間違いない。ジニーにかかるプレッシャーは相当なものだろう。

「ジニー、大丈夫?」

 気づいた時には足を止めて声をかけていた。

 ジニーも合わせて足を止める。

 今日も見事に眉はハの字を描いていた。

「……ああ、ニーナ。全然大丈夫じゃないよ。胃が痛くて痛くて……」

「だろうね……。明日の作戦には参加するの?まさか潜入部隊じゃないよね?」

「僕は伝達係と事前捜査担当。今も先行して情報に間違いがないか調べてきたところだから。ニーナは潜入部隊になったんだよね?相当入り組んでるみたいだし、敵数も多いから気を付けて」

「ありがと。……なんかほんと、早く明日が過ぎ去ってほしいね」

 ジニーの緊張が伝線したのか、ニーナの胃もジクジクと痛み始める。

「うん。お互い無事に、ね。……ああ、そうだニーナ、ひとつ忠告だよ。あいつらと向き合ったら躊躇っちゃ駄目だ。君は優しいから心配で……」

「……優しくなんてないよ。私はただ、臆病なだけ。どんな悪いやつでも撃つ勇気がなかった。射撃の自信もなかったし……。自分の不甲斐なさが原因で、あんなことに……」

「そんな風に思っちゃ駄目だよ。全部『鷹』のせいなんだから。あいつらがいなければあの子だって、犠牲になった人たちだって、生きていられた……。最低なやつらだよ」

「……そうだね」

 それでもやっぱり躊躇わずに急所を狙えるかと言ったら、まだ無理だ。

 人の命を奪う覚悟が出来ていない。

 今射撃の練習をしているのだって、できるだけ殺さない為だ。

 ヴァンフォートの言ったあの言葉。


『――お前も成長を止めるな。誰にも奪わせないため、そして奪わないためにも』


 それが理想だし、本当はそうあるべきだと思う。

 IPUは裁判官ではないのだから、悪だからと言って私刑を下すようなことはしてはいけない。

 逃げていることはわかりながらも自身の正義を正当化していると、それを悟ったかのようなジニーが念押しするようにニーナに一歩近づいた。

「あいつらを撃たなきゃまた罪のない人たちが大勢殺される。それを忘れないで。きっと撃って命を奪ってしまったら辛いだろうけど、代わりに犠牲になる人は減るんだ。……それに僕たちの現場は常に命懸けだ。生きるか、死ぬか、殺すか、殺されるか、2つに1つしかない」

苦虫を噛み潰したような顔で訴えるジニーにニーナは悟ってしまう。

「……ジニーは、撃った事があるんだね」

「……うん。16部隊に配属されたばかりの頃の諜報活動中敵に見つかって、撃ち合いになっちゃって。その時に」

「そっか……」

人を撃った事はあっても、その命を奪ったことはない。その時どんな気持ちになるかなんて想像もつかない。

 いつの間にかジニーも自分より修羅場を通り抜けて成長している。

 学生時代自分の後ろに隠れていた弱虫ジニーはもういない。

 自分だけが何も成長していない気がして、ニーナは密かに拳を握りしめた。

「……私も、がんばるから。『鷹』は絶対捕まえる」

「うん。――ニーナ、敵を殺してでも無事に帰って来て」

 その言葉に何故かすごく泣きそうになる。

 重い、重い言葉だった。

 銃を所持した敵と戦う事は戦争と同じだ。

 弱い自分は甘い事など言っていられない。

 殺すか、殺されるか、その二択しか選べない今の自分は嫌だ。

 早くヴァンフォートのようになりたい。

 そうすれば誰かの命を奪う恐怖にも、奪われる恐怖にも怯えなくていいはずだから。

「じゃあ、僕は少し休むから」

「お疲れ」

「うん。――ああそうだ。僕もさっき聞いたばっかりなんだけど、聖ルノー教会の地下で見つかった木箱、あれから微量ながら火薬が検出されたらしいよ。『霧』の方も案外早く決着がつきそうだね」

 じゃあ、とジニーが背を向けて去っていく。

 その背中を見つめながらニーナは全身に冷や水を浴びせられたように、鳥肌が立っているのを感じていた。

 教会を守っていた男も、シュナイザーも木箱の中身は食料だと言っていた。

 それなのに検出されたのは火薬。

 『霧』と対立している『鷹』。『鷹』が襲った教会、そしてそこに運び込まれていた木箱から検出された火薬。木箱を運び込む指示をしたシュナイザー。

 繋がってほしくないと思っていた線がついにつながってしまった。

 脳裏にアッシュの言葉が蘇る。


『――噂では『霧』のリーダーは烏のように黒い髪を肩まで伸ばしているとか』


 ニーナの中で灰色だったシュナイザーが限りなく黒に近づいた瞬間だった。





 北の医療工場の周りに白い制服に身を包んだIPU第16、17、18部隊が集結している。

 作戦決行まであと10分ほど。

 町は街灯以外の明かりが消え、郊外にある医療工場の周りは真っ暗だ。

 工場内に潜んでいる『鷹』のメンバーも見張りを残してほとんどは寝入っていると思われるので、今は必要最低限の明かりだけ灯されていた。ライトの周りを離れればすぐに闇に飲み込まれてしまうほど少ない明かりの中で伝達役が慌ただしく動き回っている。

 16、17部隊は離れた位置にいるので状況を黙視するのは不可能だが、ジニーもどこかで慌ただしく駆けまわているだろう。ちゃんと胃薬は飲んだだろうかと考えたところで、小さく息を吐き出した。

 他人の心配をしている場合ではない。

 ニーナの中にも緊張と不安が渦巻いていた。

 そればかりか潜入部隊に選ばれたメンバーと共に配置についているというのに夢を見ているような、非現実感が身体を覆っている。

 まったく集中出来ていない。

 これはよくない状態だった。

 これから命がけの作戦を決行しようというのにこれではまたミスをしかねない。

 己の意識を集中させるためニーナは頭の中で作戦内容を復唱する。

 まず偵察を得意とするルノルドを先頭に隊長であるヴァンフォートが続き、その後にニーナたちが続く。キースは後方警戒担当になったので部隊の最後に着くことになっている。

 その隊編成で廊下を進み、一つ目の分岐で東と西、2部隊に分かれて捜査する。

ニーナが進むのは幹部がいると思われる部屋がある西側だ。

 幹部を捕まえられる可能性が高い居住区は『鷹』捜査担当の16、17部隊が担当するべきではないかと訴えたメンバーもいたのだが、この時間は医療工場の方が精鋭が集まっていて激戦となる可能性が高く、逆に居住区は寝静まっている為危険性は幾分低いという理由で18部隊が担当することになった。

 それに工場エリアにはさらわれた人たちが囚われているとの情報もあり、大規模な人質救出作戦も同時に行わなければいけないのでそういった意味でもあちらの方がかなり大変であることは間違いないのですぐに不満を引っ込めた。

 こちらはどれだけ早く工場との連絡通路を防いでお互いの援護に駆けつけられなくするか、寝ているものたちを拘束し、鎮圧するか。それだけ考えていればいい。

 守りながら戦うのとただ攻めるのでは圧倒的に後者の方が楽だ。

 だがこちらとてリスクがないわけではない。ひと部屋ひと部屋地道に催眠弾を投げ込んで潰していかなければいけないし、時間がかかればかかるほど相手に戦闘準備を整える時間を与えることになる。

 なるべく狭い場所での銃撃戦は避けたい。

「――お前、あんまり気負いすぎんなよ?あと緊張し過ぎもよくねぇから深呼吸しとけ」

 思考を巡らせていると、その様子を見たキースが眉を寄せて声をかけてきた。

 その顔を薄暗い中で観察して苦笑する。

「そっちだって緊張してるくせに」

「……そりゃそうだけど、お前よりはマシ。俺は守りだから。お前なんて俺と同じキャリアなのに突っ込み担当って、考えられねぇ」

 俺がお前の立場だったら吐いてると真面目な顔で言うキースに思わず吹き出してしまった。

 それに不満げな声が返ってくる。

「なんだよ」

「いや、だって身体は大きいのにそんな気弱なこと……っ、しかも真面目な顔で言うから可笑しくて……フッ、フフッ」

「お前さては吐き気を通り越して可笑しなテンションになってるな?救護呼ぶか?薬貰っとけ」

「ちょっと!私は正常だから!」

「いやおかしいって!この状況で笑うとか絶対おかしい!」

「おかしくない!」

「いやおかし――」

「うるせー!!」

「――痛っ!」

 いつの間にか声が大きくなっていたようで背後に並んでいたフィジーに二人揃って頭に拳骨を落とされた。

 思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「作戦前だぞ静かにしろ!」

「クマの声が一番大きい。お前たち少しは緊張感を持て」

「ハッ、すみません……」

 ヴァンフォートの冷静な突っ込みにフィジーがその大きな身体をきゅっと縮めて反省の色をにじませる。

「まあまあ。それが我が部隊のいいところでもありますし。気負い過ぎないでいつも通りの行動をとってもらえれば作戦だってあっけなく終わりますよ。ね、みなさん?」

 どこかおっとりした口調でその場を和ませる副隊長のアッシュ。彼の言葉にまだ痛みから復活していないキースとニーナを除いた全員が頷いた。

「さあ二人もいつまでもしゃがみ込んでないで。もうまもなく結構時間ですよ」

「はーい……」

 もう少し労わってくれてもいいのではと文句を言いそうになったが、そもそもの原因が自分にある事を思い出し大人しく立ち上がる。

 その間にアッシュはヴァンフォートと向き合っていた。

「では隊長、手加減なんてしないでいいですから思いっきり暴れてきてくださいね」

「そういうのは私の担当ではないのだが」

 チラリと視線を投げかけられたが、あえて気づかないふりをして視線を横へ向ける。

 それを見てヴァンフォートがため息を吐いた。

「まあ問題児二人をそちらのチームにしたのは少々不安ですが、できる子なのは間違いありませんから。少々精神が未熟なだけで」

「う……」

 あえてヴァンフォートが言わないでいてくれたであろう言葉を遠慮なく投げられてキースと二人小さくなる。

「嫌ですねぇそう縮こまらないでください。できる子って褒めてるんですから。期待してますよ」

 にこりとアッシュに笑顔を向けられるが逆にプレッシャーだ。

 期待されるのは慣れていない。

 若干引きつった笑いを返す事しかできなかったが、それは隣のキースも同じだ。

「ハハハ……」

「――時間だ」

 ヴァンフォートが告げた言葉にわずかに呼吸が苦しくなったような気がして、ニーナは一度大きく息を吐き出した。

「外はこちらに任せてください。心配してはいませんが、お気をつけて」

「ああ。いってくる」

 その言葉を聞いて頷いたアッシュは待機組のもとへ戻っていく。その姿を最後まで見届けることなくヴァンフォートは裏口へと向き直った。

 シンッ、と一瞬怖いくらいの静寂が辺りを包み込む。

「――行くぞ」

 ヴァンフォートが片手を上げて突入の合図を出した。





 潜入した居住区の廊下は深夜だというのに煌々と明かりが灯されていた。

 それだけ夜人が行き来するという事だ。

 工場とは名ばかりで完全なるアジトになっていた事がわかる。

 明るいのは攻めやすいが、同時に見つかりやすくもなる。

 先導するルノルドに続いて慎重に廊下を進みながら、ひとつ目の分岐でキースたちの部隊と別れて作戦通り西側へ進んだ。

 今まで感じた事のない緊張感がニーナ身体を重くしている。

 銃を持つ手に手袋をしていなかったら汗で滑って落としていたかもしれない。

 呼吸も上手く出来ていない気がする。

 真っすぐか進むか右に進むかの二択になるが、ここは事前の打ち合わせでまっすぐ進むことになっていた。右へ進んでも厨房があるだけだからだ。左にも地図に書かれていない空間があったが、奥行き2メートル程で袋に詰められたゴミがたまっている事からゴミ置き場かもしれない。

 臭わないから生ごみではないようだと妙に冷静に考えていると遠くから発砲音が断続的に聞こえた。

 どうやら工場の方で『鷹』と接触したようだ。

途端に耳を塞ぎたくなる程の大音量で鳴り響く警告音が鳴り響く。

 あまりの音量にこれではすぐ隣にいるヴァンフォートとのコミュニケーションもまともにとれないだろうと思う。

 しかも最悪なことに教会を襲った男達の中のひとり、ギンの言う通り『鷹』はよく訓練されているようで警告音が鳴り始めて僅か数秒で廊下に飛び出してきた。

咄嗟にニーナたちは左右に飛び、それぞれ物陰に隠れる。その瞬間今まで立っていた場所に銃弾が降り注いだ。

 射撃が止まった瞬間を逃さずに物陰から僅に上半身を出して反撃する。

 外すと命の危険性が高い上半身は狙わず下半身に的を絞った。

 その間に誰かの銃弾が――恐らくヴァンフォートの銃弾が確実に敵の銃を弾き飛ばしていく。

 だが事前の情報通り敵数が多いようで次から次へと援軍がやってくる。このまま足止めを食らっているとこの拠点のリーダー、リックを逃してしまうかもしれない。

 彼だけは確実に確保しなければいけないのだ。

 撃つ、隠れる、撃つ、隠れるという動作を何度か繰り返し銃弾の補給をしていると廊下を挟んで向こう側にいたメンバーのひとりがニーナ達の後ろを指差した。

 その意味が分からず首をかしげていると、頷いたヴァンフォートがニーナの手を引いた。

「いくぞ!」

「え?」

 戸惑いながらもニーナがヴァンフォートに続くとすぐに手は離れ、いつでも射撃ができる状態をキープしたまま進んで行く。

「どこへ行くんですか!?リックの部屋はあっちじゃないですか!」

「遠回りになるが厨房を通ってこちらからも回り込める!」

「でもこっちはみんなとはぐれて2人ですよ!あれと同じ数と遭遇したらさすがに不利です!」

「安心しろ!各自の部屋からは確実にあちらが近い!そこで銃撃戦が行われているのにわざわざ回り込んで襲撃しようなんて頭は回らないはずだ!それに万が一鉢合わせるとしても数人、あちらよりは少ないさ!」

 鳴りやまない警告音に負けない声量で伝え合う。

 IPUが突入した事はばれているので今さら気配を消す意味はないのでヴァンフォートはどんどん奥へ進んで行った。

 その後姿を追いながら改めてすごいと思う。

 この先に厨房がある事は知っていたが、そこから居住区へ続く道がまた別にある事を忘れていた。

 自分の失態に内心落ち込みつつも足を止めることなく進んで行くとすぐに厨房にたどり着く。それほど広くない厨房は汚れていて、掃除などされていないのか鼻につくツンとした臭いがした。顔をしかめつつ、ヴァンフォートを追い越してその先の扉をゆっくり開ける。

 その先は形も大きさもバラバラなテーブルが乱雑に置かれた空間だった。おそらく食堂のような場所なのだろう。

 そこに足を踏み入れた時、丁度正面の扉が開かれて駈け込むように3人の男たちが入ってきた。

 お互い一瞬動きを止め、互いに敵であることを認めるとすぐに撃ち合いになる。

「先に行ってください!」

 男のひとりが叫ぶと、3人の中のひとり、右耳に大きな銀のドクロのピアスをした男が飛び出した。その時右頬に大きな傷跡があるのを見逃さなかった。彼がこの拠点をまとめているリーダー、リックだ。

リックはこちらが反撃できないタイミングで走り出すと、なんの変哲もない壁を叩いた。するとその場所がわずかに浮き上がり、浮き上がった扉をスライドさせると奥に細い通路が見えた。リックが慌ててその向こうへ走り去っていく。

「しまった抜け道があったのか」

 悔しそうにヴァンフォートが舌打ちした。

「ニーナ!私が援護するからあいつを追え!逃がしたら厄介だ!」

「はい!」

 立場上本来ならニーナが援護し、ヴァンフォートが追うべきなのだろうが、射撃が不得意なニーナにはこの状況での援護は難しい。

 反撃の為に男たちに撃ち返すヴァンフォートが「行け!」と叫んだ瞬間ニーナが飛び出した。

 気づいた男たちが慌てて照準をニーナに絞り2、3発撃ちこんだが幸いにも腕はあまりよくないようで当たることはなかった。すぐにヴァンフォートの射撃で動きを封じられる男たちに構わずニーナは通路に飛び込んだ。

 空間に自分の足音が響く。

通路はそれほど長くないようで、すでにリックの足音は聞こえない。その事にわずかな焦りを覚えながらも必死で足を動かした。

 速さだけが取り柄だ。ここで取り逃がしたら本当に自分に価値などなくなる。

 託してくれた仲間の為にも、絶対にリックは確保しなければ。

 9秒程走ったところで通路を抜けた。

 その先に広がる闇。

 だが木々の向こうにオレンジ色の明かりが見えた。あれは松明の明かり。

 仲間がいたのだろうか。

 相手は何人いるのだろう。

 ひとりで出来るか。いや、やらなければ。

 ここまで来て、目の前にリックがいるのに取り逃すようなことになれば今度こそ立ち直れないだろう。

 後を追っている事はもうバレているだろうが、気配を消して闇に紛れる。

 その時一発の銃声が静寂を切り裂いた。

「――――!?」

 突然の出来事に心臓が痛い程早く脈を刻みだす。

 ニーナは反射的に走り出していた。

 木々の隙間からリックが倒れているのが見える。

 ではIPUの誰かが撃ったのだろうか。

 しかし木々の隙間を抜けてその先の開けた空間に出たニーナが見たのは全く予想もしていなかった光景だった。

 あまりに理解不能な光景に足が止まる。

 倒れたリックは左足を撃たれたようで、太ももの辺りを押さえて倒れ込んでいた。そしてそのリックに銃を向けていたのは闇に溶けてしまいそうな黒髪を夜風になびかせた男、ローゼン・シュナイザーだった。

 美術館や教会で会った時とはまるで違う、獲物を狙う猛獣のような鋭い視線でリックを射抜いている。

 その視線の強さに身体が震えた。

 そこにいるのはニーナが知らないシュナイザーだ。

 その後ろには2人の男たちが彼を守るように立っていた。

「どうして、シュナイザーが……」

 震える声、指先も震えているのがわかる。

 パニックになる頭の中でパズルのように情報が繋がっていった。

 貧しい人たちを支援する『霧』、火薬が入っていたと思われる教会に運び込まれた木箱。そして黒髪のリーダー。

 敵対する『鷹』と『霧』。

 条件に当てはまる人物が今まさに『鷹』のリーダーに銃口を向けていた。

 もう否定することはできない。

 シュナイザーは『霧』のリーダーだ。

 ニーナの思考を読んだかのようにシュナイザーが口角を引き上げて笑った。

「やあライラック。君には見つかりたくなかったんだけど、仕方ないね。運命は人の手では操れない」

「……あなたが『霧』のリーダーだったんですね」

 確認する声は自分が思ったよりも小さな声だった。

「まあこの状況で否定しても説得力がないからね。その言葉に関しては否定も肯定もしない。でも礼は言っておかないと。こいつを巣から追い出してくれてありがとう。いつも深層部に隠れて姿を現さないからどう始末しようか悩んでいたんだよ。君たちは僕たちがばらまいたわずかなヒントからここへたどり着き、僕の望み通りこいつを追い出してくれた。さすがは優秀なIPUだ」

 芝居がかった仕草でシュナイザーが両手を広げた。

 気持ちが悪い。受け入れたくない現実に吐き気が襲ってくる。

 急にのどに何かが詰まったかのように呼吸も上手く出来ていない気がした。

 それでも何とか言葉を絞り出す。

「……つまり、私たちはあなたに踊らされていたって事ですね。今まで全く掴めなかった『鷹』の拠点を見つける事ができたのはIPUの力じゃない。あなたが情報を操作して私たちに流していたからだったんですね」

 フッとシュナイザーが薄明りの中で綺麗に微笑んだ。

 前まではその微笑に身体の力が抜けるくらい癒されていたはずなのに、今は恐怖すら覚える。

「蛇の道は蛇っていうからね。君たちに仕入れられない情報があるのは仕方がないよ。でも君たちは無事に『鷹』の拠点を潰せたし、僕も害虫を一匹始末できる。それでいいじゃないか」

「あなたを、信じていたのに――」

「……運命は残酷だと思わないかい?もし君がただの一般市民だったら、僕とこんな風に対立することはなかった。それに僕は、君の事が嫌いではなかったからね」

「――――っ」

 呼吸が止まる。

 美術館や教会で話したシュナイザーが脳裏によぎって、目の奥が熱くなった。

 現実なのに受け入れられない。夢であってほしい。

 あれほど熱心に支援活動をしていたシュナイザーがニーナの捕縛対象だなんて。

 奥歯を噛み締めて泣き声を殺す。

 少なからず彼を慕っていた。美術館に企画を出してまで世界中の人々にハミューズの現状を訴えようとしたり、自らスラム街に足を運んでそこに住む人たちと交流したり。彼らを助けたい、何とかしたいと思っても行動できない人たちがほとんどだ。ニーナ自身もそうだった。けれど彼に会って話を聞いて、自分も行動しなければと思った。背中を押してくれた。

 これからいい関係が築いていけると、そう思っていたのに。

 胸が苦しい。

 声も上げられないほどに。

 地面に雫が一粒落ちてしみこんでいくのが見えた。

「――そろそろおしゃべりはやめよう。周りはIPUだらけだ。のんびりしているわけにはいかないからね」

 視線を上げた先でシュナイザーが再び銃口をリックに向けている。

 リックが情けない声でヒッと悲鳴を上げた。

「――やめて!」

 ほぼ反射的に銃口をシュナイザーに向ける。

 微笑を刻んだままのシュナイザーだが、その目に再び冷たい色が宿ったのがわかった。

 銃口が震える。

「何で止めるのかな。君も同じ事をしようとしていたんじゃないのかい?あの時、教会を襲ったやつらを」

 昨日のように思い出すあの惨劇の日の光景が走馬灯のように頭の中を駆け抜けた。

 まだ癒えていない心の傷がズキズキと痛みだす。

 銃を持つ手の震えが大きくなっていく。

「ち、違う……。私は――」

「違ったのかい?」

 ぞっとするほど冷たい声色。

 微笑が消えて、明らかな怒りを含んだ瞳がニーナを射抜いた。

 いよいよ本格的に呼吸が乱れ始める。

「甘いんだよ君は。だからあの子は死んだんだ。君のせいでね――」

「――――っ!」

「少しでも期待していた自分を恥じているよ。やはり自分の手の中にあるものは自分で守らなければいけなかったんだ。他人に期待したばかりに彼は死んだ。そういう意味では君を責めるのは筋違いだろうけどね」

 声が出ないニーナはかろうじて首を振って否定する。

 言葉の刃が容赦なく身体を貫いて、痛みで謝罪の言葉さえ発することができない。

「ライラック。この男を死なせたくないと言うのなら僕を撃ってみたらどうだい?まさかおもちゃじゃないんだろう?」

 そう言われても動きを止めたままのニーナを蔑むようにふっと笑うシュナイザー。

「君が僕を止める方法はそれしかない。得意の体術戦に持ち込むには少し距離がありすぎるからね。君の足が僕に届く前に僕は引き金を引ける」

 浅い呼吸を繰り返すニーナにとどめを刺すようにシュナイザーが続ける。

「それも出来ないか。……君は駄目だな。撃てない者がIPUにいる意味はなんだい?悪を撃ってこそ価値がある。撃ってこそ正義が証明される。撃てない君がIPUにいる資格はないんじゃないかな」

「――――」

 資格はない。自分でも感じていた言葉がとどめになった。

 重力に従って銃を握った手が下に降りていく。

 頭も下がって、視線がシュナイザーから地面に移っていく。

 全身からすべての力が奪われていくようだった。

 その途中銃声と共にリックから血しぶきが上がったのが見えた。

 こみ上げる吐き気に耐えられずニーナはしゃがみ込んで口を押える。

 酸っぱいものが口の中に満ちた。

 一転して静寂が戻ってきた闇の中から不意に誰かがシュナイザーを呼ぶ。

「――ローゼン、そろそろ行くぞ」

「ああ、もう終わった。行こう」

「――――!?」

 今、聞こえた声は――。

 暗闇の向こうに銀糸が見た気がしたが、すぐに闇に紛れて見えなくなった。

 反射的に立ち上がったニーナだが、シュナイザーの背後に控えていた男たちが一斉に威嚇射撃を開始する。

 木の陰に隠れる事も出来なかったニーナの左腕をその中の一発が撃ち抜いた。

「う――っ!」

 鋭い痛みに思わず銃を持ったまま撃たれた箇所を押さえる。

 それ以上は必要ないと判断したのか、痛みに耐えている間にシュナイザーも男たちも松明を消して闇の中へ消えていった。

 痛みよりも何もできなかった悔しさで唇を噛み締める。

 リックは殺され、『霧』のリーダーであるシュナイザーも取り逃がしてしまった。

 全身から力が抜け、抗う事も出来ずに膝から崩れ落ちる。

 そのままずっと彼らが消えた闇を見つめ続けた。

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