第6話

 僕は走った。

 もういい加減日の暮れた草道を、山の中を、街灯のない月の下を走り続けた。

 田舎だし山の中だしコンビニも自動販売機もないし人の通る気配のない山の道を走り抜けた。

 それこそ、辛い現実から逃げ出すように。

 僕は逃げたかった。

 父さんから。

 母さんから。

 壊れた家族から。

 ゆらゆらと安定しない自分から。

 今ならまだ、逃げられるかもしれない。

 こうやって必死にひたすらに走っていれば、いつか僕が夢見た生活が手に入るのかもしれない。

 不意に僕の足がもつれて、もしかして何かに躓いたのかもしれないが、僕の体は安定感失って転げた。痛い。膝が擦り剥けた。血が出ている。そして、大きな喪失感と絶望の中で僕は急に現実に引き戻される。

 神様はいない。どんなに一生懸命願ったとしても誰かがそれを聞き入れてくれるわけがない。どんなにがむしゃらに走ったとしても逃げられるわけがないし誰かが助けてくれるわけもない。

「ヤクモ…」

 僕は無意識のうちに彼の名を呼んでいた。

 大きな闇。大きすぎる闇。光の見えない世界。世界の果てのようなブラックホールに飲み込まれる僕の、たった一つの光。ヤクモ。ヤクモヤクモヤクモ。ヤクモに会いたい。あの、太陽のようなヤクモの笑顔に会いたい。何物にも捕らわれない、大らかな大地のようなヤクモに会いたい。僕は泣いた。悔しくて悲しくて、切なくて恐ろしくて。血が滲んだ膝小僧が熱を持っている。

「陽一」

 村中に響き渡るような大声で泣いて喚いて、その僕のしゃくり声に交えて誰かの僕の名を呼ぶ声で気がついた。僕は泣くことを止めて、止めるために目を擦りながら立ち上がり、ぐしぐしと声の主を探した。ヤクモ。僕の神様。世界の中心。

「ヤクモ!!」

 僕はヤクモの姿を見つけてがむしゃらに飛びついた。僕と同じくらいの身長で体重でそれでもいくらかしっかりとしたヤクモの体は勢いよく飛び付いた僕の体重に耐え切れるはずもなくそのままばたんと草むらの中に倒れこんだ。そのまま僕がヤクモの体を押し倒すような状態で泣き続けて、ヤクモは僕の頭を抱えて上半身を起き上がらせた。そうして、僕の頭をぽんぽんと叩いたり背中を撫でたりして僕を落ち着かせてくれる。いってーな、というヤクモの声は相変わらずいくらか雑で乱暴で、それでも僕はヤクモの存在に安心していた。僕はそのままヤクモにしがみついてしゃくり続けて、ヤクモは何も言わずに僕がしがみついてしゃくり上げるのを許していて、ヤクモの白いTシャツは涙でまだら模様になる。

 まったくもう、ヤクモってやつはなんでこうナイスタイミングで僕の前に登場することができたんだ?



 いつの間にか外は真っ暗になっていて、群青色の空にはたくさんの星がきらきらとそれこそ宝石箱のように輝いていた。僕はあれから何度も何度でも夜の空を眺めて見上げてきたけれど、あのときほど美しく光り輝く星を見たことがない。

 落着きを取り戻し始めた僕がヤクモに手を引かれてやってきた場所は僕がこの村に初めてやってきたときにきた、僕とヤクモが初めて出会ったあの河原。裸足になって水の中に突っ込んだ足がひどく冷たく、きらきらと月の光を反射する水面は生き物の存在を感じさせないくらい静かで幻想的であった。僕とヤクモが時折足を動かすと出来る水の輪、眠ることのできなかった魚の行動がそれを助長させた。言葉にならないような僕の言葉を聞いてヤクモはこれからどうするんだ? と問いかける。

「どうするって……」

「お前の父さんと母さん、離れ離れになっちゃうんだろ? お前はどうするんだよ。もう、一緒に住めないんだろ? お前もひとりになるのか?」

「わかんない……で、も……多分、お父さん、か、お母さん、のどっちかと、一緒、に、なる……」

「ふーん」

 ヤクモはそういって手元にあった小石を川に向かって放り投げた。ピシャン、ピシャン、ピシャンと水面にうっすらと張られた膜を弾くようにして飛び跳ねた小石は水面に小さな輪をいくつも描いた。

「離れ離れになったらさ」

「……うん」

「もう二度と会えないのかよ」

「……わかんない」

 わからない。会わせてくれるかもしれないし、会わせてくれないかもしれない。もしくは、どちらか一方が承諾してもどちらかが承諾しないのかもしれない。

 僕は不安だ。これからどうなっていくのか解らない。不安で不安で仕方がない。

「ヤクモの……」

「あ?」

「お、父さん、と、おかあ、さんは……どうした、の?」

 ヤクモは再度放り投げようと振りかぶっていた手を止めて、僕に視線を向けた。それからなぜか不思議そうな顔をしてから

「バーカ。前にも言っただろ。俺の父さんは空の上。母さんは海の中だよ」

「さみしく、ないの?」

「さみしくなんかねえよ」

「一緒に、住んで、ないのに?」

「だって、父さんと母さんはいつも俺のこと見ててくれんもん」

 そうしてまた小石を水面に放り投げた。

「お前、この村出るのかよ」

 どういうことだ?

「だって、どっちかと一緒になるんだろ? この村出て、もっと便利なとこに引っ越すんじゃないの?」

 わからない。否定もできないけど、肯定もできない。

「……わかんない」

 そういって小さくなる僕に、お前、なんにもわかんねーのな、とヤクモは呆れたように言う。

「町にいったらさ」

「……うん」

「新しい友達できんだろ?」

「……」

「そしたらさ、お前、俺のこと、忘れちゃうのかなぁ?」

 僕は、その時のヤクモがあんまりにも寂しそうで切なそうで、いつもの強気なヤクモからは想像できないような弱弱しい表情をしていたことに驚いて、そしてなんだか泣きそうになった。

「わす、れ、ない…絶対、絶対に忘れない!」

 僕が両手を握って全力でそう言うと、ヤクモはなんだか安心したような笑顔を浮かべた。忘れない。忘れるわけがない。ヤクモ。僕の神様。僕の友達。大事な大事な僕の友達。僕のゆるゆるの涙腺はそんなヤクモの笑顔を見た瞬間再び活動を始めて、ぼろぼろと涙をこぼし始める。ヤクモは少し困ったような顔をしてから、僕の頭をくしゃくしゃとかき回した。

「お前さぁ、そんな風に泣いたり困ったりすんの、少し止めたほうがいいぞ? また誰か嫌な奴に虐められるぞ」

 それからニカッといつも通りの笑いを浮かべたヤクモは見てろよ、といって立ち上がった。それからひょいひょいと川を渡り大きな岩の上にたどり着くと、両手を広げた。

 瞬間、ヤクモの体はたくさんのホタルの光に包まれて、僕は奇跡を目撃する。何万、何千という光に包まれたヤクモの輝きはそれこそ幻想的で神秘的で、包み込むなんてそんな柔らかな表現ではない、飲み込まれてしまうような神の輝き。碧いはずの水面はホタルの光と月の光・星の輝きを反射してその美しさを何倍、何十倍、何千倍と相乗させていた。都会の夜のネオン街なんてお話にならない、もしこの世界に神様が降臨してきたのなら、この世界に神というものが存在していたのならきっとこのような輝きを持っているのだろうというような。僕にはできない。僕でなくとも、誰にもこんな不思議なことはできやしない。そんな輝きの中で「すごいだろ」という笑顔を浮かべるヤクモ。

 ヤクモはやはり神様だった。

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