第5話

 僕の父の名前は浩介、母の名前は紀代美という。2人は同じ大学の同じサークルで出会い、恋をして、結婚して2年目に生まれた。お似合いの2人、だったらしい。らしいというのは当時の2人を知る祖父母や父母の友人から聞いた話なので、僕にはよくわからない。それでも、母は優しくて暖かくて、父は力強く聡明で、傍から見たら理想の家族だったのかもしれない。実際僕もそんな父と母が大好きだったし、幼い僕にとっては何の不満もなかった。

 けれど、お似合いの2人だと言われて幸せな家庭だと言われたその家族はいつからか崩れ始める。いつからかは覚えていない、気がついたら父は仕事の事情で家にいないことが多くなり母は父についてなにも言わなくなった。最初のころは家にいないことの増えた父の行方を母に問うこともあったが、その答えに口を濁して時には声を荒げるその態度に聞いてはいけないことなのだと幼い僕にも解った。時折、夜遅くに帰宅した父と母の口論が居間から聞こえることもあり、そんなとき僕は布団を頭に被って必死に寝たふりをしていた。そうして、今天国から見ているのであろう神さまに必死にお願いしていた。どうかどうか、父さんと母さんが仲直りをしますように。早くこの長い長い喧嘩を終えて仲直りをしますように。そうして、父さんと母さんと三人でまた仲良く晩御飯が食べらますように。お休みの日にまた3人で動物園や遊園地にいけますように。涙で濡れて冷たくなってしまった手と手を合わせて僕は、いるんだかいないんだかよくわからないような神さまにお願いした。いや違う。当時の幼い僕は、間違いなく神様とか仏様とかそんな幻想じみたものを信じていた。この高い空の上の上には神様の住む雲の世界があって、男と女の混じったような中性的な美しさの神様が地球上すべての生物を見守っている。その神様はこの世界のすべての生き物に平等で、日本人とかアメリカ人とか犬とか猫とか植物とか、そんな差別は一切なしに僕らの願いを聞き入れてくれるものだと思っていたし、たまにテレビに出てくる悪人とか犯罪者というのは悪いことをしたから神様が天罰を下したのだと思っていた。だから僕は学校での勉強も一生懸命したし、宿題だって忘れなかった。家での手伝いも頑張ったし、先生の言葉にも母の言葉にも決して逆らわなかった。いい子にしていればきっと神様は僕の願いを聞き入れてくれる。きっと父さんと母さんは仲直りして、昔みたいに幸せな毎日が戻ってくると信じていた。

 けれど、そんな僕の夢のような思いはあっさりとうち砕かれる。今でも覚えている、10歳の時、小4の、6月23日。


 僕の10回目の誕生日だ。


 僕はその日、学校で貰った手紙やらプレゼントやらを抱えて走っていた。

 当時僕の在籍していたクラスは皆仲がよくて、クラスの誰かが誕生日のときは手紙だとかイラストだとかそういったものを手渡すのがちょっとしたイベントで習慣だった。

 子供にとって、誕生日というのは大事な大事なイベントでお祝いごとだ。先生も祝ってくれたしくクラスの皆も祝ってくれた。父さんも母さんもきっと喜んでくれる。祝ってくれる。これできっと父さんも母さんも仲直りする。それでまた、この絵みたいにまた3人でご飯を食べるんだ。父さんと、母さんと一緒に大きなケーキを食べるんだ、 そういう期待を抱きながら走って走って帰宅した僕を迎えてくれたのは母と珍しく家にいる父であった。すっかりいないことが普通になってしまった父の在宅に、僕は胸が膨らんだ。父さんがいる。母さんもいる。大丈夫だ。きっと2人は仲直りをするんだ。僕が頑張っていい子にしてたから神様が僕の願いを叶えてくれたんだ。けれど、僕が大事に抱えた手紙と絵をつきだす前に、父に荷物を置いてテーブルに座るように命じられる。僕は早く祝ってほしくてうずうずしていたのだけれど、その有無を言わさぬ迫力に黙ってランドセルとその他を下ろした。

「あのな、陽一。父さんと母さん、離れて暮らすことにしたんだ」


 僕は父が何を言っているのか解らなかった。


「父さんと母さん、もう、一緒に暮らせなくなったんだよ」

「ごめんね、陽一」

「ごめんな…」


 父と母は一緒にいられなくなった理由なんていわなかったし、僕も聞かなかった。聞きたくなかった。ただただ、ごめん、とそれだけを繰り返した。物事を理解できていない僕が混乱して泣きだすよりも先に、母が泣きだした。父も今まで見たことがないような悲壮感に溢れた顔をしていた。


 神様はいなかった。少なくとも、僕の願いは叶えてくれなかった。どんなにいい子にしていても、どんなに勉強や運動を頑張っても神様は僕の願いを聞き入れてくれなかった。悔しくて悲しくて、その夜僕は布団の中で声を殺して泣いた。

 そうして父と母の別居が決まり、落ち着くまで僕と母は母の実家に身を寄せることになる。今考えてみると、この時点では正式に離婚は成立していなかったのだと思う。離婚のために必要な手続きとか話し合いとか、色々なことがごたごたとしていたのかもしれない。僕の苗字は父方の姓の「加藤」のままであったし、母さんも「用事がある」といって頻繁に街へ出かけて行った。ときたま母が祖母に泣きついているのを見かけることがあったし、 母が古いアルバムを悲しい顔で眺めているときもあった。一度だけ母が僕を呼びつけてその写真を見せてくれたことがあった。それは12年前、父と母の結婚式の写真。純白のドレスを着た美しい母とたくましい父。とてもとても嬉しそうにはにかむ2人はこれから始まる幸せな未来に夢を寄せているようでもあった。

 当時の母は精神的に不安定な状態で、僕も母の影響を受けて割とゆらゆらとした状態だったのだが、ヤクモと出会うことによってそんな僕の精神状態は確実に浄化されていった。なにものにも捕らわれることのないヤクモのキャラクターが僕の心を開放していった。安息地。ヤクモのおかげで僕はまた大らかに声を出して笑えるようになったし、全身全霊で物事を楽しめるようになった。ヤクモ様々。ヤクモにはほとんど魔力といっていいような不思議な魅力があって、そばにいるだけで僕の心はほかほかと温かくなり安心して安定していった。ぽっかりと開いてしまった僕の心の穴をヤクモはどんどん埋めていった。


 だがしかし、神様はそんな僕の心をばっさりと切り捨てた。


 その日、学校が終わっていつものようにヤクモと山で走り回って家に帰った僕は母に呼び止められる。全身泥だらけで傷だらけで早く風呂に入りたかった僕が「後じゃ駄目なのか」と問うと母は「そんなことあとでいい」と答えた。有無を言わさぬその口調に僕はなんだか嫌な予感を感じながら母の前に正座した。

「あのね、陽一」

 母はまっすぐに僕の目を見つめた。

「お父さんとお母さん、離婚することにしたの」


 暗転。


「離婚、て意味、解るわよね……今も離れて暮らしてるけど、本当に、お別れするってこと……苗字も変わるし、お父さんとも他人になるの。もう、家族じゃいられないの」

 母は泣いた。ごめんね、ごめんね。本当にごめんね、とありふれた謝罪の言葉を陳列しながら。僕の頭の中は混乱して錯乱して、今一体何が起こっているのか解らなかった。そして、そんな自分と自分の母親を冷静に観察するもうひとりの自分がいて、頭の中でああ、母さんはいつからこんなに弱弱しく小さくなったのだろうと思っていた。そして、ごめんてなんだよ。ごめんて思うならこんなことしないでくれよごめんで済んだら警察いらないんだよ。大体、ここまで焦らしておいて結局それかよああもう、いったい何なんだよというわけのわからないどす黒い感情がとぐろの様に渦巻いて僕は反射的に立ち上がりそこにあった鞄を手に取り思い切り畳の上に投げつけた。真っ赤に腫れあがった母の目が驚きで見開いた。僕は自分自身の行動に驚いて、それでも突然沸き起こった衝動は止められなくて、僕の体はまるで炎に包まれたように熱くなる。息が苦しくなって瞼が熱くなって、怒りと混乱で目の前がくらくらしてじんわりと視界が濁ってきた。

「もう、いい加減にしてよ!!」

 喉の奥が真っ赤に焼けている。ひりひりとしてたった一つの音も出ないような喉の奥から、僕の声でないような声が吐き出される。

「お父さんもお母さんも、いつもいつもそればっかりじゃないか! なんでもかんでもごめんごめんて、いつもそれで済ませちゃうじゃないか! お父さんもお母さんも、みんなみんな自分のことばっかりで僕のことなんて全然考えてくれていないじゃないか! 僕はどうなるんだよ! もっと、もっと僕のこと考えてよ! 僕のことを見てよ!」

 身体の奥から吐き出される僕の本心。本心? 心の奥の僕は、本当の僕は誰も知らないところでこんなことを思っていたのか? それこそ自分勝手で、幼稚で、強大すぎる独占欲。

「僕は、ぼく、は――……」

――僕はただ

 僕のことを見てほしかった。僕の話を聞いてほしかった。僕の祈り、僕の願い。ただそれだけだったのに。

 だんだん指の先と頭の先が冷えてきた僕は、自分が起こした行動の異常さと言ってしまった言葉の重大さに気がついた。


 僕は裸足のまま外に飛び出した。

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