第4話

 ヤクモの存在というのは全く不思議なものであった。ある日、空高くに真っ赤な太陽がぴかぴかと輝いているような時間に、いきなり僕に家に帰れといった時があった。なんでだ、なんかの用事でもあるのかと僕が問いただすと、もうすぐ雨が降る、雨が降って大きな雷が鳴る、とヤクモはいった。そんなわけあるか、だってこんなにいい天気じゃないか、と僕が言うと、ヤクモはとても怖い顔で

「嘘じゃない、その雷は大きな風を呼んで、固まりみたいな雨がぼたぼたと空から落ちて、この木を真っ二つに割る」

 と言った。ヤクモがぺちぺちと叩いた木というのは、もう何千年も生きているであろう同周りが銭湯の煙突くらいはあるような大木で、ちょっとやそっとでは倒れないであろうという代物だ。僕はこの真っ青な晴天が崩れるなんて思えなかったし、この胴周りが5メートルもあるそうな巨木が倒れるなんて想像もできなかった。35度の気温の中でまさか、と僕は思うのだけれど、そのヤクモの強い眼力に敵うはずもない僕はヤクモの指示に従って一番安全で一番近い山道を通って家まで帰った。それから一時間もたたないうちに青い空にはどんよりとした黒い雲が現われて、大粒の雨がごちごちと僕の村には降り注いだ。それと同時に大きな雷が鳴り響き、爆音のような音とともに外がぴかっとひかったと思ったら村中が停電に襲われた。僕は、家の中で懐中電灯をつけて毛布にくるまりながらがちがちと震えていた。

「全く、ついさっきまであんなに青空だったのに」

 ああ、山に雷が落ちたね、とそんなことを話している母と祖母の話を聞きながら、僕はぎゅ、と毛布で頭を押さえた。

 ヤクモは知っていた? 大雨が降ること。雷が鳴ること。山に雷が落ちること。そして、その雷がとてもとても大きなもので、あの煙突ほどの太さのある大木を真っ二つに割ってしまうこと。ヤクモは神か? ヤクモは、雷まで操ってしまうのか? 僕はそんな疑問を持つと同時にヤクモのことが心配になった。ヤクモはちゃんと家まで帰れたのか? 僕だけ先に帰しておいて、ヤクモはちゃんと家に帰ってこの大雨と雷を凌いでいるのか? 僕だけを先に帰して、ヤクモはまだ山の中で一人ぼっちでいるんじゃないのか? その雨は3日3晩村に降り注いで、川を氾濫させた。その氾濫した水はその洪水を観覧しに来ていた野次馬を巻き込んで行方不明者を出して、学校は休校になった。雨がやんで青い空に太陽が顔を出して再び学校が始まって僕が大雨でぬかるんだ山の中に入ると、あの日ヤクモが叩いた大木は予想通り真っ二つに割れていて、僕は驚愕すると同時に恐怖しまた感動した。そして、その大木を目の前にしたまま茫然と突っ立っていると後ろからがさりという足音が聞こえる。僕がびくんと体を震わせながら後ろを振り向くと、そこにはヤクモがいつも通りの笑顔で立っていた。ヤクモは、よお、久しぶりだな、今、山道ぬかるんでるから気をつけろよ、となんて言いながら。

 ヤクモの神憑り的な出来事というのはそれだけではとどまらなかった。ある日、ヤクモに連れられて山にカブトムシを捕りに入った先でうっかり夢中になりすぎてヤクモと離れてしまった僕は大きな熊に遭遇した。体長2メートルチョイ、鎌が何本も突き刺さっているような爪、そして食欲という本能でギラギラと輝いている凶暴な目、べったりと油ぎった光沢のある体毛は、僕の中にある一握りの勇気を奪い取るには十分すぐるほどの圧力を持っていた。怖い。怖すぎる。腹が減っているのかもしくは発情期なのか、とにかくフーフーという荒い息をはいて興奮しまくっているそいつは、そのぶっとい腕でバリバリバリと木をなぎ倒した。そのあまりの恐怖に固まってしまった僕は、「あ」とか「う」とかよくわからないことを呟きながら、ヘタリとその場に尻もちをついた。10年という短い人生の中で味わう、間違えのない絶望と失望。ここには父さんも母さんも、ましてや警察なんて僕のことを助けてくれるような人間は誰もいない。父さんや母さんだって、もしくは警察だってこんな魔王のように立ちはだかった凶悪熊に勝てるわけがない。確実なる死。僕はその瞬間、生命の終りを覚悟するとともにヤクモと逸れてしまったこと、カブトムシに夢中になってしまったことを恨んだ。さよなら父さん、さよなら母さん。と、死を覚悟した瞬間、

「陽一!」

 という僕を呼ぶ声が聞こえた。ヤクモだ。

「ヤクモ!」

 半袖短パンに裸足といういつものスタイルで現れたヤクモの姿を見つけて僕は大急ぎで立ち上がった。怖くて怖くて足もとがおぼつかない。ふらふらしながらも僕は必至に手足を動かして、さほど身長の変わらないヤクモの背中に隠れた。ヤクモは、フーフーとうなり続ける熊に近寄ると数十センチ頭上にある熊の恐ろしい顔をじっと見つめた。何秒間見つめ合ったのだろう、そんなに長い間ではない。すると、不思議なことに興奮していた熊の唸り声が消えて、その巨大な頭を靠れたのだ。この光景はどこかで見たことがある。あれだ。テレビの「ムツゴロウ王国」で、ムツゴロウがライオンの頭を撫でていた時。あのあと指をぱっくりと食われていたけど。それで、ヤクモはその持たれた頭を犬や猫を可愛がるような感じで優しく撫で始めた。おいおい、ヤクモってばこんな凶暴そうな熊にそんな風に触っちゃって、ヤクモもムツゴロウさんのように指をぱくりとされちゃうんじゃないかと体を強張らせた僕の心配というのは全く無意味なもので、頭を撫でられてまるで子犬のようにキューンキューンと声を鳴らしながら森の奥へ帰って行った。目をまん丸に開いてキョトンとする僕に、ヤクモは手を差し伸べた。

「大丈夫かよ、陽一」

 その熊とヤクモは友達だったのか何だったのかよくわからないけれど、とにかく僕は奇跡を目撃したのだ。素晴らしい、素晴らしすぎる。こんな、テレビとかマンガみたいなことが現実にあるなんて。

 その瞬間、ヤクモは僕の中で「神憑り」なのでなく「神そのもの」になった。何とか大明神とかなんとか福寿とかそんな名前の神様よりもずっとずっと不思議で、ずっとずっと身近で、それでいて手の届くはずのない神様。父さんと母さんとか先生よりもずっとずっと偉大な存在。学校と家庭だけがすべての僕の中心。世界の中心。そんな思いを抱くほど、ヤクモは僕にとって大きな存在になる。

 なんてことをいうととてつもなく大それたことで(いや、実際大それたことだったんだけど)簡単にいうと僕はヤクモのことが大好きだった。ヤクモの笑顔というのは比喩的にいうといわゆる太陽のようであってそれこそ光り輝いているという表現がぴったりと合っている。ヤクモは“やんちゃ”どころではなくいわゆる“野生児”で山の中をフリーダムに飛び回るその姿はジャングルの王者であった。いうこともやることも唐突で行動が掴めない。僕はそんなヤクモの行動にいつもどきどきしていたしわくわくしていた。カリスマ。けれど、まったくわからないヤクモの身元情報については僕も知りたいと思っていたし、知らなければいけないような変な使命のようなものもあった。毎日毎日こう山を駆け回っているのだからこの辺の子供に違いない、と踏んだ僕は学校で調査したことがあった。全校100人程度の学校でする調査というのはひどく簡単だったけれど、僕の小さな勇気と努力は無駄に終わる。山だし田舎だし小さな村だし日焼けをした半そで短パンの子供なんてたくさんいたけれど、どの子供も僕の求める人物ではなかった。違う学校? この辺の子供じゃないのか? まさか、学校に通っていない? まさか、そんなことあるわけがない。ヤクモは本当に不可思議な人間なのであった。

 ある日、いつものように山道を走り回っていた僕は転んで膝頭を擦りむいてしまった。ぐしぐしと涙ぐむ僕に「ちょっと待ってろ」と言い残して、ヤクモはどこかへ走って行った。そしてすぐに戻ってくると、そこから摘んできたのか名前のわからない変わった形の植物を傷口に付けた。それから僕の半ズボンのポケットから青いチェックのハンカチを取り出すと、それをハンカチのようにして僕の膝頭に巻きつけた。これなに、と聞くと、ヤクモは

「母ちゃん秘伝の薬だよ」

 と言った。それでまた2人で駆けまわって太陽が下がり始めて、僕はヤクモと別れて家に帰る。ただいまーという声で玄関までやってきた母は、泥だらけになった僕の膝に巻かれている妙な草を見て悲鳴を上げた。

「なにこれ、もう、ちゃんと消毒して絆創膏して、お風呂入んなきゃ」

なに原始的なことをしているの、とひとりでプチパニックに陥っている母にあれよあれよという間に僕は怪我の治療をされる。黴菌がはいったらどうするの、という母を尻目に、祖母は優しく笑っていた。

 

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