第3話

 ヤクモの運動神経は素晴らしくよかった。高い木の上もぴょんぴょんと飛ぶようにして渡り歩いて、ジャンプ力も申し分ない。地元の人間も心してはいるような山の中をまるで自分の家のように縦横無尽に動き回る。僕だってそんなに運動神経は悪いわけじゃなかったけれど、ヤクモがムササビのように山の中を舞っているのを見ると自分の存在がどれほど些細なもの痛感した。ヤクモと一緒にいれば100%道に迷わなかった。ヤクモは山を知り尽くしていたし、どの道がどこに繋がっていて近道とかキノコがたくさんとれる場所とか熊の親子が生活している場所とか色々なことを知っていた。テレビとゲームに浸食された生活を送っていた僕にとってヤクモの存在はまさにカルチャーショックで、僕はヤクモにあの時に見た夕陽の存在を重ねていた。神様。当時まだ、神様とか妖怪とかお化けとかわけわからんものの存在を完全に信用していた僕には、ヤクモはいわゆる神さまに選ばれた100人にひとりの逸材とか天才とかそういうものを感じていた。

 ヤクモといるのは楽しかった。ヤクモが木に登れば僕も負けじと登り始めるし、ヤクモが木から木に飛び移れば僕も負けじとついていく。そりゃあ、最初はうまくできないし木登りの途中で力尽きてケツから落ちるし指先はボロボロになるし、木から木に飛び移れなくて体じゅうに擦り傷をつくったり色々した。めちゃくちゃ痛かったし血も出たけど、それでもヤクモと一緒にいるのは楽しかった。最初は怖かったけれど、ヤクモがあんな風に縦横無尽に踊っているのを見ていると、ヤクモと同じように木登りをしたり木から木に飛び移ったりしていれば、ヤクモのように神様が降りてきてくれるんじゃないかという小さな期待もあった。

 毎日毎日、どこかに遊びに行って夕方遅くに帰ってきては擦り傷やら切り傷やらたくさん作ってくる僕に、母さんは消毒をしながらひどく不思議そうな顔をした。

「まったく、どんな遊びをしたらこんなに毎日怪我をするの。うち、体じゅうが絆創膏だらけになってミイラ男みたいになっちゃうわよ」

「それもいいね」

「なにいってるのこの子は」

母さんは眉を顰めたけれど、そんなことあるはずもない。だって、僕には神様がついているんだ。

「ヨウちゃんにはいいお友達ができたんだねぇ。名前はなんていうんだい?」

 なんて祖母が言うから、僕はうれしくなって身振り手振り、全身を使って話す。彼がヤクモという名前の、僕と同じくらいの少年であること。木登りができるほど運動神経がいいこと。この辺一帯を知り尽くしているということ。祖母は、僕が話すヤクモがいかに魅力的で素晴らしい少年であるかという話をうんうんと嬉しそうに聞いていたのだけれど、ふいに思いついたかのように首を傾げた。

「ヤクモ? 知らないねえ。そんな珍しい名前、あったらすぐにわかるじゃないか」

「友達なんだ。毎日一緒に遊んでるんだけど、すごいんだ。木登りもできるし足だって速いんだ」

「そうかい。名前はなんていうんだい」

 名前?

 そういえば、僕はヤクモの本名を知らない。「ヤクモ」というのを僕はずっと苗字だと思っていたのだが、もしかしたら「ヤクモ」というのは名前であって、苗字ではないのかもしれない。

 ヤクモの身辺の情報というのは全くと言っていいほど謎であった。僕は毎日のように学校が終わってからヤクモと一緒にいたのだが、ヤクモはどこからでも登場するしいつの間にか僕の前を歩いていた。夕方日が暮れるころに帰るのはいつも僕が先であって、ヤクモは『おお、じゃあな』といって僕の背中を見送っている。ヤクモの父さんとか母さんとかそういった家族の話も聞いたことがないし、見たこともなかった。

 ある日、僕は聞いてみた。

「なあ、ヤクモん家ってどこにあるのさ」

 ヤクモは言った。

「俺の家は、この山すべてだ」

 その答えというのはひどく独裁的で自信過剰で、おいおいこいつなに勘違いしちゃってんだよというような答えでもあったが、当時の僕はそうか、そうなんだと納得してしまった。僕はヤクモにそれを不可解に感じさせないほどのカリスマ性を感じていたのだ。

「じゃあ、ヤクモの父さんとか母さんは?」

「俺の父さんは空の上。母さんは海の中」

 その答えを聞いて、僕は反射的にまずいと思う。ごめん、と謝る僕に、ヤクモはなんで謝るんだよと笑った。

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