第15話 偽妹とお兄ちゃん

「……眠い」


 冷えた指先で軽くこする。開くのが億劫な瞼を。


 今日は休日なので早起きしなくても良い。にもかかわらず予定より早く目覚めてしまった。


「む…」


 二度寝しようと試みるがその願いは叶わず。すぐには寝付けない不眠症体質が恨めしい。


「はぁ…」


 溜め息をつきながら体勢を変更。拳銃で撃たれた怪我人のように寝返りを打った。


「……ん?」


 壁のシミを見つめていると何かが聞こえてくる。部屋の扉をノックする音が。


「う~ん…」


 対応したい所だが起き上がるのが面倒くさい。布団を被ってシールドを張った。


「またか…」


 けれどそんな意志を無視するかのように耳障りな音が鳴り響く。間を置いて何度も。


「……くっ」


 何か不測の事態が起きたなら部屋に飛び込んで来るハズだった。つまり大した用件ではないと判断。


 布団の中に頭をすっぽりと収納する。夏場だがクーラーをつけていたので寒かった。


「しつこいな…」


 狸寝入りを続けるもノックの音が大きくなる。我慢が出来ないので誰なのかを確かめる事に。


「……何、朝っぱらから」


「あ、ゴメン。起こしちゃった?」


「まぁ…」


 廊下に立っていた人物と視線が衝突。そこには薄着の華恋が立っていた。


「寝てた?」


「寝てた。んで、何の用?」


「起こしちゃったか。ゴメンね」


「いや、謝らなくていいから先に用件を」


 睡眠を妨害されたせいで若干イライラ気味。相手が相手なので余計に。


「これといって特に用事はないのだけれど…」


「はぁ?」


「お、お兄ちゃんが起きてるかなぁと思って」


「……へ?」


 寝ぼけている影響なのかもしれない。よく分からない単語が聞こえた気がした。


「ねぇ、聞いてる?」


「あ、うん。まだ頭がボーっとしてるから」


「えっと、じゃなくて……んんっ」


 戸惑っていると彼女が口元に手を当てる。そのまま軽く咳払いした。


「だ、大丈夫。お兄ちゃん?」


「ちょっ…」


「眠たかったら無理しないで横になっててね」


「……ど」


「ん?」


「どうしたのさ、一体。頭でも打ったの!?」


 思わず手を伸ばして掴む。目の前にある華奢な体を。


「何かあった? さっきからおかしいよ」


「や、やだなぁ、お兄ちゃん。私はいつも通りだよ」


「いやいや、そんな訳ないし。違和感ありまくりだから」


「そんな事ないってば! おかしくないおかしくない」


「変な薬でも飲んだとか。それとも嫌な夢でも…」


「だ、だから私は何ともないってば」


 軽く意見を衝突させた。無音にも近い静かな廊下で。


「とりあえず部屋に戻って寝なよ。そうすれば治まるからさ」


「ちょ、ちょっと!」


「寝ぼけてるだけ。もしかして睡眠不足かな?」


「だぁから、そういうんじゃないってばぁ」


「そういうのなの。ほら早く…」


 背中を押して彼女を部屋から強制追放する。反論には耳を貸さずドアを閉めた。


「……ふぅ」


 頭の中で思考がめまぐるしく動く。寝ぼけていた意識が瞬時に覚醒するレベルで。


 1人になった後は壁にかけられたカレンダーを確認。今日はエイプリルフールではなかった。


「ちょっとちょっと、どうして追い出すのよ!」


「何でまた入ってくるのさ。早く自分の巣に帰りなって」


「まだ話終わってないでしょうが。勝手に帰らそうとすんな!」


「もう終わったんだよ! 華恋が部屋に戻ればそれでお終い」


「ふっざけんなし。せっかく人が約束守ってあげてんのに」


「約束? 何の事?」


「だから1日だけ妹になってあげるってアレよ!」


「はぁ?」


 だが追い出した同居人が再びドアを開けて入ってくる。不満を撒き散らしながら。


「……あ」


 その行動である事を思い出した。1日前にした下校時のやり取りを。


「もしかして昨日の…」


「ようやく思い出した? まったく、理解力低すぎ」


「……えぇ」


「約束守ってあげてんだから感謝しなさいよね。私だって本当はやりたくないんだからさ」


 彼女が不機嫌そうに腕を組む。そっぽを向いた顔は唇が尖っていた。


「待って待って、誰がそのお願い事で良いと言ったの?」


「さぁ?」


「さぁって、自分で考えるって言ったじゃないか。その案は却下したハズだし」


「だってアンタ頼み事言わなかったじゃない。だからこっちで勝手に決めちゃった」


「そんな…」


 とりあえず保留という事で話はついたハズなのに。だから要求の催促もしていなかった。


「ズルいよ、そんなの! どうして勝手に決めてるのさ」


「何よ、悪い? なら今言いなさいよ。代わりに叶えてほしいお願い事」


「そ、それは…」


「ほ~ら無いじゃない。じゃあコレで決定、妹で決定」


「……くっ」


 こんな展開、納得が出来ない。一方的に決めた上に押し付けてくるなんて。


「まだ文句あるって顔してるわね」


「当たり前だよ。全然嬉しくないし」


「なんでさ。せっかく可愛い妹役を振る舞ってあげてんのに」


「作った可愛さが喜ばれると思う? 全くありがたくないって」


「高い金払ってメイドさんやキャバ嬢に癒やされてる人だっているでしょうが。タダで恩恵が受けられるんだから喜びなさいよ」


「どんだけ自惚れてるの…」


 こんな発言、よほど自分に自信がある人物じゃないと出せない。あるいは幼稚な思考の持ち主か。


「ほら、寝るから出てって」


「うぅう…」


「今から眠れるかな…」


「だらぁっ!!」


「うげっ!?」


 ドアを指差して退場のサインを送る。その直後に強烈な痛みが背中に発生した。


「……いっ、つぅ」


「あぁ! 大丈夫、お兄ちゃん?」


「い、いきなり何するのさ!」


「ゴメンね、ちょっと目眩がしちゃって」


「嘘つくなよ。ピンピンしてるじゃないか!」


 どうやらタックルを喰らわしてきたらしい。転倒した勢いで壁に鼻をぶつけてしまった。


「本当にゴメン! お詫びにホッペにチューしてあげるから」


「……え」


 反論すると彼女が肩を掴んでくる。意味深な台詞を口にしながら。


「ちょ…」


 視界から周りの背景が隠れてしまった。至近距離まで迫ってきた対話相手の影響で。逃げようとするが体が動かない。更には顔にかかる吐息のせいで思わず目を閉じた。


「……すると思った?」


「へ?」


「やだぁ、冗談に決まってんじゃん」


「なっ…」


「あっははは。も~、照れ屋なんだからお兄ちゃんは」


 目を開けるといやらしい笑顔が飛び込んでくる。鼻先を弾く人差し指と共に。


「マジにしてやんの。ウケるわ」


「このっ…」


「やだ、怒らないでお兄ちゃん。華恋泣いちゃう」


「……うっ!」


 掴みかかろうと手を伸ばした。しかし突然の泣き真似のせいで急停止。


「お兄ちゃん、怖いよぉ」


「やめてそれ。変な感がじする」


「変? どこが」


「華恋の存在そのものが」


「……あ?」


「ごふっ!?」


 からかわれた事に対する文句をつける。直後に必殺の右ストレートが腹部に飛んできた。


「あぁ、ゴメン。また手が出ちゃった」


「どうしていつもいつも…」


「大袈裟に痛がるんじゃないわよ。ちょっと小突いただけでしょうが」


「まぁね」


 痛がる素振りを見せたものの大したダメージは無し。本気ではなかったらしい。


「やっぱりダメかな、妹キャラ」


「ダメではないだろうけど、普段の性格とかけ離れすぎてて違和感がある」


「私の普段ってどんな感じよ?」


「みんなの前ではおしとやか、2人っきりの時はバイオレンス」


「2人っきりって言い方やめて。ニュアンスが紛らわしい」


「じゃあ表がおしとやか、裏がバイオレンス」


「どっちも本当の私よ!」


「いひゃい、いひゃい!?」


 頬をつねられ左右に引っ張られる。今度は手加減なしだからか本気で痛かった。


「おっかしいなぁ。事前の想像ではアンタは私にデレデレなのに」


「華恋の中の僕は頭悪すぎるし……いってぇ」


「やっぱり妹ダメかぁ…」


「もうそれで良いよ。我慢します」


「お? ついに折れたか」


 彼女は根っからの負けず嫌い。このままだとお互いに一歩も引かない展開が続きそうなので妥協する事にした。


「特にやってほしい頼み事も思いつかないしさ」


「ふ~ん」


「これで貸し借りはチャラね」


「了解しましたー」


「んじゃ、とりあえず部屋から出てって」


「え? 何でよ」


「眠たい。二度寝する」


「あ……そっか」


 これ以上アホなコントに付き合うのも疲れるだけ。一刻も早く眠りにつきたかった。


「ならここにある漫画読んでも良い?」


「どうぞどうぞ。好きなだけ漁ってください」


「う~ん、どれから手をつけようかしら…」


 訪問者が本棚を前に真剣に悩みだす。そんな姿を背にベッドに移動した。


「これでようやく眠りにつける…」


 休日特有の空気が清々しい。カーテンの隙間から漏れる光を感じながら目を閉じた。


「ん…」


 人が動く気配に意識が持っていかる。しばらくすれば出て行くだろう。そう思っていたが中々ドアの開く音が聞こえてこなかった。


「……どうしてそこで読んでるの」


「ん? 起こしちゃった?」


「いや、そうじゃなくて」


 問いかけに対して華恋が返事を返してくる。床に座りコミックを広げた姿勢で。


「部屋に戻って読みなよ」


「え~、だっていちいち取りに来るの面倒くさいし」


「ならまとめて数冊持って行けば良いじゃないか」


「それも面倒くさい」


「好きにしてくれ…」


 言い争う行為すら今は避けたい。小さな欠伸を放出すると再び瞼を閉じた。


「む…」


 一度目が覚めてしまうと眠りにつくのにかなりの時間を要してしまう。短くて20分から30分。酷い時は1時間以上も。


 だから夜中にトイレに行きたくなった場合はよほどのピンチでない限り我慢していた。体を起こしてしまうと寝不足が確実だから。


「キャハハハハッ!」


「だからうるさいって!」


「だってコレ面白いんだもん」


「声出さずに読んでくれよ。頼むから」


「は~い」


「……はぁ」


 ウトウトしかけていると笑い声が反響する。やかましい騒音が。


「うぅ……ぐすっ」


「今度は何!」


「めっちゃ良い奴、コイツ」


 気合いを入れて目を閉じるがまたしても妨害の手が意識の中に介入。感動を表した啜り泣きが聞こえてきた。


「頼むから声出さないでくれよぉ…」


「だって、だって…」


「泣くのは分かるけど静かにお願い。寝不足なんだから」


「……うん」


「あぁ…」


 今度こそはと決意し瞼を閉じる。三度目の正直を実行した。


「ねぇ」


「……何?」


「部屋暗いからカーテン開けて良い?」


「あのさぁ…」


 しかし目の前の人物からはそんな心情を無視するかのような台詞を浴びせられる。安眠を妨害してくる発言の数々を。


「眩しいからカーテンは開けないで」


「じゃあ電気つけて良い?」


「人の話聞いてる!? 眩しくなるって言ってるじゃないか」


「せっかく気持ちの良い天気なのに寝てるなんてもったいないわよ。起きたら?」


「やだ」


 もう意地になっていた。心の中にあるのは同居人への反骨精神だけ。


「ほら、起きた起きた~」


「ギャーーっ、眩しい!」


「良い天気よ。まさにお出掛け日和」


「体が溶ける…」


「バターか」


 顔を隠していた布団を剥がされる。そのせいで窓から射し込む太陽光がモロに直撃した。


「そうだ、布団干そう。良い天気だからポカポカになるわよ」


「行ってらっしゃい」


「何言ってんのよ。これも干すに決まってんでしょ……っと」


「うわっ、何をする!」


 更には無理やり奪い取られてしまう。意思や意向を完全に無視して。


「ほら起きた起きた~」


「返してくれぇ…」


「ダ~メ、この子は今から外で日光浴するんだから」


「そ、そんな…」


 抵抗の言葉を無下な態度で返されてしまった。冷気が堪えるのでアルマジロのように体を丸めて対応した。


「うぅ……寒い」


「いい加減、観念して起きなさいよ」


「この外道。人の安眠を妨害するなんて」


「も~、だっらしないわねぇ」


「今日は妹なんじゃないの? どうして兄貴にこんな酷い真似するのさ」


「……あ」


 我慢が出来ずにツッコミを入れる。この不自然な状況についてを。


「んっ、んんっ…」


「何?」


「お兄ちゃん。華恋、ヒマだからどこか遊びに連れてって」


「やだよ。1人で行って来な」


「私、お兄ちゃんと一緒に出かけたい。ねぇ良いでしょ?」


「こんな可愛くない妹とは1秒たりとも側にいたくない」


 彼女が態度を翻して甘えた声を発信。とはいえ芝居と分かっているので冷たく突き放した。


「えいっ!」


「がはっ!?」


「ほ~らぁ、起きてよぉ」


「ゲ、ゲホッ…」


「お兄ちゃ~ん」


「……うぅ」


 壁の方を向くと脇腹にエルボーが飛んでくる。呼吸が出来なくなる程の強烈な制裁が。


「ねぇねぇ~」


「とんだバイオレンスな妹だ…」


「あ、起きた」


「そっちが起こしたんじゃないか……まったく」


 そのせいで眠気は完全にゼロの状態に。ベッドの上にあぐらをかいた。


「出かけるって言ってもまだ朝の9時だよ? どこの店も開いてないって」


「別に外出したい訳じゃないから。ただアンタを起こして遊びたかっだけ」


「……あのさ」


「アンタ達2人共、休日は昼まで寝てるから暇なのよね~」


「なら華恋も寝てれば良いじゃないか。無理して早起きしなくても」


「だって目が覚めちゃうんだもん」


 まだ眠たいので呂律が上手く回らない。対照的に彼女はハキハキとした口調だった。


「いつも早起きして何やってるの?」


「アニメ見てる」


「ほ、ほう…」


「朝のも結構面白いわよ。アンタも一緒に見てみなよ」


「そだね…」


 とりあえず喉が乾いたので一階へと下りる事に。洗面所に向かいベタついた汗を洗い落とした。


「そういえばバイトは?」


「今日は休み~」


「そっか」


 リビングへやって来るとソファに腰掛ける。テレビ画面には小さな女の子が妖精と会話しているシーンが映し出されていた。


「面白いの、コレ?」


「面白いわよ。声優さん豪華だし」


「でも子供向けというか、幼稚すぎるというか」


「だって小学生向けの作品だもん。仕方ないじゃん」


「……あの、妹キャラからすぐ元に戻ってるよ」


「はっ!?」


 ちょくちょく変化する態度を指摘する。控え目な口調で。


「ゴメンね、お兄ちゃん。もう変な喋り方したりしないから」


「いや、えと……別にどっちでも良いっすよ」


「約束したもんね。今日1日は妹でいるって」


「そ、そうだね…」


 ワザとらしい声をあげた彼女がジリジリと近付いて来た。獲物を狙う肉食動物のように。


「お兄ちゃんの体おっきいね」


「ちょっ…」


「良い匂いがするぅ」


 何をするかと思えば勢い良く抱きついてくる。脇の下に腕を回してきた。


「は、離してって。何するのさ」


「やだぁ~」


「すいません、許してください。勘弁してください!」


「……どうして怯えてんのよ」


 タックルやエルボーを喰らった影響か。暴力を振るわれるのではという焦りが思考を覆ってきた。


「本当に離れてよ。マズいから、コレは」


「何がマズいの?」


「そりゃあ…」


 問い掛けに対して言葉が詰まる。上手い返しが思いつかなかった。


「エヘヘヘ~」


「……んっ」


 困惑している間も彼女は密着状態を維持。飼い主に甘える猫のように引っ付いてきた。


「あの……これいつまでやるの?」


「今日ずっと」


「そ、それはやめようよ。誰かに見られたらヤバいって」


「じゃあ皆がいない時だけ離れる」


「食事の時とかどうするのさ。動きにくいよ?」


「あ、そういえば朝ご飯まだだね。なんか食べる?」


「んと…」


 時計を見ると起きてから既に1時間近くが経過していた事が判明。さすがにそろそろ胃に何かを入れないと力が出ないだろう。


 リクエストを出されたのでラーメンと答える。陽気にキッチンへと駆けて行く後ろ姿をソファに座ったまま見送った。


「お待たせ~」


「お?」


 しばらくすると完成を表す声が飛んでくる。振り向いた先には湯気の昇っている熱々の丼があった。


「美味しい?」


「うん。ジューシー」


「ほうほう。ちょっと貰って良い?」


「いや……ダメです」


「なんでよ?」


 彼女と向かい合う形で食事する事に。ご機嫌で箸を進めていると理解不能な提案を持ちかけられた。


「ちょうだい!」


「やだ」


「よこせぇえぇえぇぇっ!!」


「ダメって言ってるじゃないか。兄貴の言うこと聞きなって」


「兄貴なら妹に優しくしなさいよ」


「そんなに食べたいならもう1つ作れば良いじゃん。まだ余ってたハズだし」


「お兄ちゃんのが食べたいの」


「……え」


 突き放そうとするが追撃の台詞を浴びせられる。手の動きを止めてしまうような言葉を。


「隙あり!」


「ちょっ…」


 直後に彼女が箸を強奪。ついでに丼の中の麺も奪われてしまった。


「あ、美味しい」


「……良かったね」


「私、やっぱり料理の才能あるかも」


「即席のラーメンなんだから誰が作っても同じですぜ」


 1つの食器類を使って食べ物を共有する。丼を空にした後は再びソファに移動した。


「……どうしてまたくっ付いてるの?」


「え? ダメ?」


「ダメっていうか…」


 しかし何故か再び密着する事に。情報番組が映し出されているテレビを前に。


「にゃ~ん」


「あ、あのさ……純粋な質問していい?」


「なぁに?」


「妹になりきるってのは分かったんだけど、ここまでやる必要ある?」


「ん~」


「いくら何でも過剰すぎると思うんだけど。今のコレとか」


「んん…」


 不透明な状況を直球に質問する。流されるだけの展開に精神が耐えられなくなっていた。


「お、お兄ちゃんの事が好きだから」


「いやいや…」


「だからだよ。こうやってずっと引っ付いていたいのは」


 しかし返ってきた答えにまたしても混乱が加速する。発言内容が有り得なさすぎて。


 とはいえ理屈と感情は必ずしも一致する訳ではない。彼女の台詞が引き金となり心の中で何かが弾けてしまった。


「こいつぅ~」


「えっ!?」


「うりうりうり~」


「ヤダ、ちょっと…」


 伸ばした手で掻き乱す。長くて綺麗なサラサラヘアーを。


「うりゃーーっ!」


「や~ん、髪の毛グチャグチャになっちゃう」


「なっちゃえ、なっちゃえ」


「やめてよ!」


 調子に乗るなと殴られるかもしれない。そう覚悟してのご乱心だった。


「ほらぁ、セット乱れちゃった」


 起き上がった彼女が前髪を整える。不機嫌な表情を浮かべながら。


「ん…」


 さすがにマズかったらしい。制裁を覚悟していると予想とは違う事が起きた。


「もっと頭ナデナデしてぇ」


「え?」


「だから頭。ナデナデして……ください」


 彼女が再び体に腕を回してくる。甘ったるい声を出すのと同時に。


「……これで良いの?」


「にゃ~」


「まるで猫みたいだ」


「にゃ~、にゃ~」


 リクエスト通りに頭を撫でてあげた。先程とは違い優しい手付きで。


 もしかしたらコレは何をやっても怒らないのかもしれない。そう理解した瞬間、気分がハイテンションになった。


「もう良い? 満足?」


「ダメぇ、まだまだ撫でてぇ」


「ワガママな猫だ」


「猫じゃないよ、妹だよ」


「ふぅ…」


 頬の緩みが止められない。きっと今の自分の顔を鏡で見たら不気味な表情を浮かべているのだろう。


「こちょこちょこちょ」


「やぁだっ、もぅ!」


「くすぐったい?」


「くすぐったいよ。お腹はやめて、お腹は」


 続けて過剰なボディタッチを開始。普段ならブッ飛ばされているようなセクハラ行為だが怒りの声は飛んでこなかった。


「凄く楽しい。小学生の頃に戻ってみたい」


「あっはははは、私も」


「こうしてるとさ、バカップルみたいだよね」


「はぁ?」


 ついうっかり大胆な単語を口に出してしまう。その言葉に反応して彼女の動きがピタリと停止した。


「いや、例えよ例え。別に変な意味じゃなくて」


「も~、カップルじゃなくて兄妹でしょ。何言ってるのよ、お兄ちゃんは」


「そ、そうだったね……はは」


 睨み付けてきたが態度は変わらない。奇妙な状況は相変わらず継続した。


「うへへ…」


 妹になると言われた時は何を考えてるんだと思った。怒りもしたし呆れもした。


 けれど今はこのシチュエーションを楽しんでいる。心の奥底から。


 ただあまりにも夢中になりすぎて忘れていた。もう1人の妹の存在を。


「……ん?」


「げっ!」


 廊下の方から何かが聞こえてくる。誰かが階段を下りて来ている音が。互いにすぐその異変に気付き、慌てて距離を置いた。


「ふぁあ……はよ」


「お、おはよ」


「あれ? 2人とも起きてたんだ」


「……まぁね」


「ふ~ん…」


 寝ぼけ眼の香織と目が合う。明らかに疑惑の念を抱いている鋭い眼差しと。


「2人で何してたの?」


「いや、特には。ね?」


「う、うん」


 続けて質問が飛んできた。明らかに異変を察知しているであろう台詞が。


 万が一さっきの失態を目撃されていたらマズい。今の自分達に出来るのはバレてないように祈る事だけ。


「さ~て、部屋に戻ろうかな」


 ワザとらしい独り言を発する。ソファから立ち上がるとリビングを脱出した。


「くっ…」


 そのまま階段を上がって自室へ。外界との接触を断つように勢い良くドアを閉めた。


「ひいぃいいっ!」


 ベッドのシーツに顔を埋める。声が漏れないように口元には枕を押し当てて。


 先程のやり取りはどう考えても普通ではない。冷静になってみてどれだけ異常事態だったのかを思い知らされた。


「……ん?」


 悶え苦しんでいると何かが聞こえてくる。ドアをノックする音が。


「どっちだろう…」


 両親は不在なのだから選択肢は2つしかない。訪問者を確かめる為にベッドから起き上がった。


「うぉっと!?」


 しかしノブに手をかける前に扉が開いてしまう。訪れた人物の手によって。


「な、なんで1人で逃げちゃうのよ!」


「別に逃げたわけじゃ……ていうか華恋までココに来たらマズいし」


「だって…」


「下に戻ろう。今は2人一緒にいるのヤバい」


 掴まれた肩が痛い。力の込め方が目の前にいる人物の焦り具合を表していた。


「やだ、アンタも一緒に来てよ」


「だから2人揃ってるのがマズいんだってば。それぐらい分かるでしょ?」


「……恥ずかしくてあの子を面と向かって見れない」


「同じく…」


 お互いに過剰なスキンシップを反省。溢れてくる羞恥心と葛藤する羽目に。ただ部屋に一緒に籠もっている訳にはいかないので再びリビングへと戻る事にした。


「あれ? もう下りてきたの」


「う、うん。華恋がご飯作ってくれるって言うからさ」


「そういえばもうお昼だね。私もお腹空いてきちゃった」


 適当に嘘をつく。ラーメンを食べたばかりなのだからお腹は空いていないのに。


「香織は何食べたい?」


「ん~、特には。ていうか作るの華恋さんでしょ?」


「ラーメンぐらいならお兄ちゃんでも作れるぞ」


「私でも作れるよ。お湯入れるだけだもんね」


「コンビニ行って来る。サンドイッチ食べたくなってきちゃった」


 とりあえずこの場にいたくない。面倒な外出をしても構わないので家から出たかった。


「あ、ならついでにソバも買ってきて」


「おっけ」


「あとパイシューもお願い」


「へいへい」


「それから優しいお兄ちゃんも欲しいなぁ」


「幻想だから諦めて」


 注文を聞くと頭の中にインプットする。貴重品を持って玄関へと移動した。


「あの、私も付いて行きます」


「え? 1人で大丈夫だから留守番しててよ」


「いえ、付いて行きます」


「……マジっすか」


 靴を履いていると華恋が追いかけてくる。正直、同行はしてほしくないのだが不毛な言い争いをする方がマズいので提案を受諾した。


「ふぅ…」


 外に出ると明るい光が視界に飛び込んでくる。目が眩んでしまうような日差しが。天気は良いが気分は晴れ晴れとしない。その原因は自身の置かれている状況だった。


「な、なんか喋りなさいよ!」


「そっちこそどうしてずっと無言なのさ」


「アンタが黙ってるからでしょうが。普通、こういう時は男が気を遣って声かけるもんなんじゃないの?」


「自分で付いて来るって言い出したクセに」


「うぅ…」


「……はぁ」


 隣からは乱暴な台詞が飛んでくる。恥ずかしさを悟られたくない心境が窺える言葉が。家を出た瞬間から互いに無口に。歩幅も微妙にズラしていた。


「あっ!?」


 思わず駆け出す。気まずい空間から逃げ出そうと。


「待ちなさい、コラ! 何で逃げるのよ!」


「げっ!」


 その瞬間に背後から彼女が追いかけて来た。近所迷惑も考えずに喚き散らしながら。


「ハァッ、ハァッ…」


「ゼェ、ゼェ…」


 結局、そのままの状態でコンビニへと辿り着く事に。2人して入口で息を切らせた。


「ん、んんっ」


 同世代と思しき店員さんから好奇な眼差しを注がれる。ごまかすように咳払いをすると店の奥へと進んだ。


「華恋も食べたい物ある?」


「ん~、ゆでたまご」


「し、渋い…」


 さすがに店内では口論を繰り広げたりはしない。あらかた商品をカゴに入れ終えるとレジで精算した。


「ごめん、先に帰ってて。立ち読みしてから帰る」


「え? ちょっと…」


「1人で持てるでしょ? 任せた」


「じゃあ私も立ち読みしてく」


「え? いやいやいや」


「人に荷物持たせて楽しようなんて、そうはさせないわよ」


「ぐっ…」


 袋を押し付けるが空気を読んでくれない。仕方ないので5分ほど意味のない読書をして店を出た。


「アンタ、さっきは何で突然走り出したりしたのよ?」


「いやぁ、最近体が鈍ってるから運動したくなって」


「嘘つけっ! 私から逃げ出したかっただけでしょうが」


「……分かってるなら聞いてこないでよ」


 どうやらワザと残っていたらしい。真意を理解した上で。


 彼女が一歩だけ近付いて来る。そのままシャツを力強く握り締めてきた。


「ア、アンタも共犯なんだから1人で逃げ出そうとするんじゃないわよ」


「はい…」


 逃走出来ないよう捕まえられたまま歩く。平和な昼下がりの住宅街を。



「こんな所にオッサンがおるぞ」


「……が~」


「うわっ、よだれ垂らしてる」


「何か体にかけてあげなさいよ。お腹出てるから風邪引いちゃう」


「ほ~い」


 帰宅するとソファに大の字で寝転がっている妹を発見。タンスからブランケットを持ってきて腹部に被せた。


「よし…」


 華恋は買ってきた食料を冷蔵庫に仕舞っている。屈んでいるのでこちらは見ていない。逃げ出す絶好のチャンス。足音を立てないように廊下を歩いた。


「……どこに行くつもりかしら、雅人くん」


「ちょ、ちょいとお友達の家に遊びに」


 しかし靴を履いている途中で背後に人の気配を察知する。振り返った先にいたのは冷たい目をした同居人だった。


「あらあら、私はそんな情報知らないわよ。今日は1日中ヒマだと聞いた気がするのだけれど」


「あれ? おかしいな。ちゃんと予定が入ってると言っておいたハズなのに」


「それは私と遊ぶ約束でしょ。もぅ……なに寝ぼけた事言ってるのよ、お兄ちゃんは」


「いててっ!?」


「あ、ゴメ~ン。ちょっと力入れすぎちゃった」


「絶対わざとでしょっ!」


 彼女の伸ばしてきた手が腕を固定。更に締め付けるようにギリギリと捻ってきた。


「誰か助けてぇーーっ!!」


「大声出すな。殺すぞ」


「そ、そんな…」


 首に腕を回された状態でズルズルと引きずられていく。歩いてきたばかりの廊下を。


「ねぇ、頼むよ。家にいたくないんだってば」


「だからって逃げようとすんな。男でしょ、アンタ」


「……今だけ女になりたい」


「なんなら私が蹴り潰してあげましょうか?」


「ひいいいぃ!?」


 脅迫の言葉に思わず身を竦めてしまった。両足をガクガクと震わせながら。


「あの……二階に行って良い?」


「あぁん?」


「リビングより自分の部屋にいたい」


 伸ばした人差し指で頭上を指す。身動きが取れないながらも精一杯に抵抗の意思を示してみせた。


「ベランダから逃げるかもしれないからダメ」


「そんな事しないってば!」


「スニーカー燃やしておこうかしら」


「や、やめてくれよ!」


「両手両足を縛って、口をガムテープで塞いでも良いなら1人にしてあげる」


「それは監禁と言って犯罪の部類に含まれるんですが…」


 どうやら外出だけでなく自宅を自由に動き回る事もダメらしい。まさに絶体絶命の状態だった。


「でも下は香織がいるから嫌でしょ? いくら寝てるとはいえ」


「う~ん…」


「やっぱり二階だって」


「……仕方ないわね」


 リビングへと動かしていた足を階段の方へ向けなおす。方向転換するように。


「ちょっ……どうして付いてくるの?」


「またアンタが逃げるかもしれないからに決まってんでしょうが」


「そんな事しないって。部屋で大人しく漫画読んでるからさ」


「さっきは走って逃亡しようとしたじゃない。信用出来ない」


「えぇ…」


 けれど何故か華恋まで同行。監視をとことん徹底してきた。



「部屋に来たは良いが何するんすか」


「さぁ?」


「とりあえず腕離さない?」


「やだ」


「くっ付いてたいのは分かるけどさ、このままだと動きにくい」


「あ…」


 自室にやって来るとベッドに腰かける。隣同士で並んで。


「……ねぇ」


「は、はい」


「やっぱり男っぽい女って嫌い?」


「へ? なに、突然」


「すぐ手を出したり、乱暴な口調で喋ったり……そういうのってダメかな」


 戸惑っていると彼女が1つの疑問を投げかけてきた。脈絡の無さすぎる話題を。


「ダメって言うか、あの……どうしていきなりそんな事を聞いてくるの?」


「……私さ、男子に告白されたじゃん」


「あぁ、3年生の先輩にね」


「学校じゃ大人しくしてるからそれはまだ分からなくもないんだけど…」


「ん?」


「アンタは私の家での態度を知ってるわけでしょ? 変な趣味の事とか」


「自分で変って言わなくても…」


 きっとアニメやコスプレの事を指しているのだろう。あまり大声を出して自慢出来ない活動を。


「それなのにアンタは私の事を好きって言ってくれた。それが良く分からなくて…」


「いや、だからその言葉に深い意味はなくて」


「で、でもさ! 自分で言うのもおかしいけど、普通こんだけ邪険に扱われたら嫌いにならない?」


「……確かに」


「でしょ? なら何でアンタはいろいろ優しくしてくれるの? 納得出来ないんだけど」


「う~ん…」


 そう言われたら不思議だった。指摘された通り普通は険悪な関係になっていてもおかしくはない。


 事あるごとにすぐ暴力。何かあれば本人の意向を無視した強制命令。例え相手が恋人や親友だったとしてもこんな扱いをされれば嫌になるのが必然だった。


「誰にでも優しくしろってのが母さんの遺言だから」


「……は?」


「だから例え華恋が残虐非道で傍若無人な性格だとしても僕は普通に接してあげるのさ」


 口から適当な言葉を発する。本心を濁すように。


「そういうボケはいらないから。私は真面目に聞いてんのよ」


「ボケとは失礼な。大真面目だし」


「真剣な話だっつってんでしょうが! ちゃんと答えなさいよね」


「だから何度も言うけど…」


 ふと横にいる彼女と視線が衝突。そこにあったのは今までに見た事がない真剣な眼差しだった。


「えと、その…」


 適当にはぐらかそうと思っていたのに。その表情を見て意識の中に疑問が発生してしまった。


「……だからだよ」


「ん?」


「華恋の事が好きだから」


「……それはやっぱり家族として?」


「う~ん、どうなんだろう」


 頭を捻るが出せない。この疑問を納得させるような明確な答えが。


「どっちなの? ハッキリしてよ」


「心の中がモヤモヤしてて分からない」


「あぁ……やっぱりダメだ、この男」


「そっちはどうなのさ。なんでいきなりそんな質問してきたの?」


「そ、それは…」


「人に尋ねる前に自分が答えておくれよ」


「え~と…」


 取り調べから逃げ出すように攻守を逆転させる。対話相手の肩を掴んで同じ質問をぶつけた。


「教えて」


「い、言えない…」


「黙秘権はダメだよ。答えるまで部屋から出さないから」


「そんな……実力行使ってズルくない?」


「散々人を問い詰めといて、いざ自分が質問されたら逃げるのはズルくないの?」


「だ、だって…」


「好きか嫌いかで言ったらどっち?」


「くっ…」


 静かな攻防戦を展開する。刑事と犯人を入れ換えたやり取りを。


「私は……アンタのこと嫌い」


「あ…」


「だから離して」


 強気な姿勢を貫いていると彼女が小さな声で呟いた。期待とは正反対の答えを。


「ゴメン、私が変なこと聞いちゃったせいで」


「い、いや……こっちこそ無理やり問い詰めて悪かったよ」


「……ん」


 部屋に気まずい空気が流れる。1時間ほど前の砕けた関係からは考えられないような雰囲気が。


「アンタも私のこと嫌いになって良いよ。気を遣ってくれなくても」


「え?」


「やっぱり嫌でしょ? 私みたいな女」


「別に…」


 嫌いになれと言われて気持ちを動かせるほど人間の心は器用ではない。好意も嫌悪も本能に従っての行動だからだ。


 今のやり取りを記憶の中で無かった事にしようとする。しかし心に受けた動揺は止められなかった。


「やっば!」


「……え?」


「ちょっと、どいてどいて」


「な、何?」


「立って、ほら早く」


 落胆しているとドアノブに手をかけていた華恋が振り返る。何故か慌てた様子で。


「香織ちゃんが来ちゃった。アンタ、適当にごまかしといて」


「え? え?」


 そのままベランダへと移動。干してあった布団を回収したかと思えば豪快にベッドへとダイブした。


「げっ!」


 耳を澄ませると確かに聞こえてくる。階段をゆっくりと上がってくる音が。


「うぉっと! どうしたの?」


「あ、やっぱり帰ってたんだ」


「うん、さっきね。香織は寝てたみたいだから起こさなかったけど」


 すぐさま扉の前に移動。体を使ってシールドを張った。


「まーくん、1人?」


「そだよ。何で?」


「華恋さんは? 下にいないんだけど」


「あ……えと、また出かけるって言ってどこか行っちゃった」


「へぇ、そうなんだ」


 会話しながらも訪問者が隙間から中を覗こうとしてくる。姿勢を上下左右に動かしながら。


「そういえばもうご飯食べた? 蕎麦とパイシューなら冷蔵庫に入ってるよ」


「あ、まだ食べてないや。なら今から食べようかな」


「そっかそっか。じゃあ食てら」


「まーくんは? お昼まだだよね?」


「え? そ、そうね」


「じゃあ一緒に食べよ。お腹空いちゃった」


「……よ~し、遅めの昼食をとるとしますかね」


 本当は空腹なんか感じていない。けれどここで誘いを断れば駆け引きが長引いてしまうだけ。躊躇いはあったが一階へと下りる事にした。


「え~と…」


 冷蔵庫からコンビニで買ったきた食料を取り出す。2人分のグラスにお茶を注ぐとカツサンドの袋を急いで開封した。


「ちょっと、そんな一気に食べて大丈夫なの?」


「モゴモゴモゴ」


「喉につっかえちゃうよ。慌てて食べなくても盗ったりしないのに」


「うげっほ!?」


「ぎゃーーっ、汚い!!」


 しかし無理やり口に放り込んだせいか途中で盛大に吹き出す羽目に。テーブルの上は悲惨な状態になってしまった。


「あのさ、今から猛烈に勉強するから部屋には入って来ないで」


「え? どうしたの、急に?」


「集中したいんだよ。分かった!?」


「わ、分かった」


 食べ終わった後はテーブルに手を突いて勢い良く立ち上がる。牽制の言葉を場に残しながら。


「ゲプッ…」


 飲みかけのお茶とゆでたまごを持って廊下へ。階段をゆっくりと上がると二階に戻ってきた。


「……何これ」


 部屋に入った瞬間ある違和感に気付く。不自然に盛り上がっている布団の存在に。


「お~い、起きなって。いつまで隠れてるのさ」


「ちょっと座んないでよ。重たいじゃない!」


「1つ残念なお知らせがある。外から見たらバレバレだよ、コレ」


「え? マジ?」


 押し潰すようにその上に着座。中からは間抜けな忍者が姿を現した。


「どうして前みたいにベッドの下に隠れなかったの?」


「だって狭いし。胸が挟まって窮屈なんだもん」


「サイズ大きいですもんね」


「セクハラか、この野郎っ!!」


「うわぁっ!? すいませんすいません!」


 乱暴に胸倉を掴まれてしまう。顔に唾がかかる距離まで引き寄せられながら。


「もしかしてさっき香織ちゃんに見られちゃったかな?」


「大丈夫じゃない? それより下からゆでたまご持ってきたけど食べる?」


「お、サンキュー」


 コンビニ袋から透明なパックを取り出した。先程購入したばかりの食料を。


「おいひぃ」


「コンビニのゆでたまご食べてる人とか初めて見たよ」


「そう? 結構イケるけど」


「オッサンみたいな女子高生だ」


「うっさいな。ちょっとそのお茶ちょうだい」


「え? いや、これは…」


「いいから、ほらっ!」


 伸ばしてきた手に強引にペットボトルを奪われる。彼女はキャップを外すとそのまま口をつけた。


「んぐっ、んぐっ」


「あ…」


 躊躇う事なく一気飲み。その様子を隣で黙って観察した。


「はい、サンキュー」


「……うん」


「あぁ、美味しかった。でもこれからどうしよう」


「とりあえず下に戻ったら?」


「私、出かけてる設定だから見つかるとマズいんだけど…」


「あ、いけね。そういやそうじゃん」


 もうコレは彼女をベランダから突き落とすしかないのだろうか。アリバイ工作の為に。


「……はぁ」


「とりあえず香織には部屋入って来るなって言っておいたからさ。しばらくここにいれば良いよ」


「そう。ありがと」


「ん…」


 気を遣う発言をするが会話は途中で座礁。つい数分前まで気まずい話をしていたのだから当たり前だった。


「あのさ…」


「ん?」


 だが小心者の人間が居心地の悪い空気に耐えられる訳もなく。勇気を出して話題を振ってみた。


「さっき言ったじゃん。嫌いになっても良いよって」


「……うん」


「もし僕が本当に嫌いになったら、どうするの?」


「どうするって…」


「家でも学校でも無視。口も利かない目も合わせない。ムカついたら後ろから蹴り飛ばしてやる」


「ちょっ…」


「それでも構わないの? 華恋は」


 もちろんそんな事を実践しようとは考えていない。あくまでも憶測で口にした台詞。


「……やだ」


「でしょ? ならやっぱり無理だよ」


「で、でも私はアンタのこと嫌いなのよ? なのに…」


「それでもだよ。避けられたとしてもこっちから嫌いになるなんて事はしないさ」


「あ…」


 投げかける言葉に彼女が黙り込んでしまう。しかしそれは一瞬ですぐに口を開いた。


「そういう言い方卑怯じゃん。そんな風に言われたら……アンタのこと嫌いって言えなくなる」


「別に無理して突き放そうとしなくても」


「そ、そうなんだけどさぁ…」


「普通で良いじゃん、普通で。好きと嫌いの二択って訳じゃないんだし」


「ぐすっ…」


 強気な態度はいつしか困惑した顔付きを生成。そして最終的に瞳を潤す悲しい表情へと変化した。


「ど、どうして泣き出すのさ。泣いてるよね?」


「だって、だって…」


「泣くほど嫌わなくても良いのに。さすがにそこまで拒絶されると傷つく」


「違っ…」


 彼女がこちらに飛び込んでくる。タックルでも喰らわすかのように。


「え、えぇ!?」


「ゴメン、本当はアンタのこと好き…」


「へ?」


「嫌いってのは嘘。本当は全然嫌いなんかじゃない」


「……うっ」


 声を出そうとするが失敗。喉の奥底で何かが詰まってしまったせいで。


「い、今なんとおっしゃいましたか」


「だから別にアンタのこと嫌いじゃないよって」


「いや、その前。凄い言葉を言ったよね?」


「うぐっ…」


 聞き違いでないのなら有り得ないような単語を耳にした気がした。自分にとって喜ばしいキーワードを。


「ハッキリ聞こえなかったからもう一度言ってください」


「……む」


「お、お願いします」


「やだ…」


「え?」


 けれど全身にかかっていた圧はすぐに無くなってしまう。彼女が腕をほどいて離脱したせいで。


「恥ずかしいからもう言わない…」


「な、なんでさ? もう一回言ってくれるぐらい良いじゃないか」


「やだ。聞き逃したアンタが悪い」


「そんな……好きって言ってくれよ」


「聞こえてんじゃんか!」


「ぐえっ!?」


 強気な攻めに返ってきたのは告白ではなく攻撃。顎に鋭い掌底を喰らってしまった。


「いったぁ…」


「アレよ、アレ。アンタが言ってたみたいに家族としてって意味だからね」


「分かってるよ。でも良かった」


「何が?」


「嫌いって言うのが嘘って分かって」


「……あ」


「やっぱり人に嫌われるって良い気分しないもんね。それが家族となれば尚更だよ」


 頬の筋肉が緩む。緊張感が少しだけ和らいできていた。


「ゴメンね。さっきは傷つけるような事言っちゃって」


「アレでしょ? ツンデレってヤツ」


「かなぁ……自分ではよく分かんないけど」


「ツンの部分が強すぎてたまにドン引きするけど」


「……ごめん」


 指摘に対して彼女の声のトーンが下がる。ボリュームを下げたテレビの音声のように。


「いや、別に怒ってるわけではないんだよ。そこまで嫌ではないし」


「アンタ……ひょっとしてマゾ?」


「はい、マゾです」


「ふ~ん…」


「あ、ドン引きしないで」


 今度は反対に汚らわしい物を見るような目で見てきた。すっかり見慣れたいつもの表情で。


「まぁ、そうよね。アンタがSだったら私とっくに愛想尽かされてるだろうし」


「ムカついて喧嘩になっちゃってるだろうなぁ」


「そう考えたらアンタのその性癖に感謝すべきなのかしら」


「性癖って…」


 お互いの顔を見て笑い合う。数分ぶりに砕けた雰囲気を味わう事が出来た。


「でもまさか好きって言ってもらえるとは思わなかったよ」


「だ、だからそれは家族としてって意味で…」


「分かってる分かってる。それでも嬉しいのさ、僕は」


「ア、アンタが変なこと言うからぁ…」


「変?」


 彼女の言葉に首を傾げる。頭にいくつものクエスチョンマークを浮かべながら。


「バイトからの帰り道……私のこと好きってアレ」


「あぁ。まだ気にしてたんだ、あの時の事」


「面と向かってそんなこと言われたの初めてだから頭から離れなくて」


「告白された経験ないんだ。意外だよ」


「そ、そう?」


「まぁね。じゃあ彼氏が出来た事もないの?」


「ん…」


 話の流れで恋愛に関しての経歴を質問。返ってきたのはコクコクと首を縦に動かす仕草だった。


「へぇ、だからそういう状況に耐性ないんだ」


「ア、アンタだって同じ様なもんでしょうが」


「うん。今まで誰かと付き合った事ないもん」


「そうなの? 意外でも何でもないわね」


「うえぇっ!」


 両手を目元に当てる。ワザとらしい泣き真似を演じた。


「そういえばどうしてさっきは嫌いなんて言ったの?」


「えぇ……それ聞いちゃう?」


「わざわざ嘘ついた理由が分からないんだよね。照れ隠し?」


「言わなきゃ気付かない?」


「へ? 何が?」


 相手を気遣った遠回しのアプローチだろうか。けれどそんな事をする意味は無い。どちらにも恋人はいないのだから。


「アンタが何回も言ってるでしょ。自分達は家族だって」


「あ、あぁ……うん」


「家族間でそういう感情持つのはマズいかなぁって躊躇っちゃったのよ」


「……なるほど」


 聞かされた説明に納得。同時に告白されてる気分になった。


「下手に好きって言ってアンタが私に欲情でもしたら困るでしょうが」


「凄い自信家…」


「でも突き放したのにアンタが食らいついてくるからさ…」


「うっかり本音を晒しちゃったと?」


「……うん」


 生まれて初めて誉められた気がする。へたれな性格が起こした成果を。


「じゃあ家の中でベタベタするのはマズいよね。朝みたいに」


「あ、当たり前でしょうが! あんなの見られたらこの家にいられなくなっちゃう」


「でもまたああいう風に遊びたいなぁ。体を突っつき合ったり」


「そ、そう?」


 頬を赤らめた彼女と目が合った。まんざらでもないという表情と。


「1人っ子だったから同世代の触れ合いに憧れるんだよね」


「ん? アンタ、妹いるじゃない」


「香織と知り合ったの中学生になってからだよ? 思春期だったからあんまりボディタッチしなかったし」


「そうなんだ…」


「背中に乗っかって足の裏に落書きしたりするぐらいしかしなかった」


「充分やってんじゃないのよ……過剰なスキンシップ」


 足の裏をボールペンで落書きすると何とも言えないこそばゆさを感じてしまうのだ。大抵の人は我慢出来ず、のたうち回る羽目に。


「しかしまさか華恋があそこまでノリノリで付き合ってくれるとは思わなかった」


「べ、別にノリノリだったわけじゃ…」


「お兄ちゃ~ん、もっと撫で撫でしてぇ」


「……っ!」


「ギャーーっ、痛いぃ!?」


「変な声出すな、バカっ!!」


 顔面に平手打ちが飛んでくる。恐らく全力だろうと思われる強烈な攻撃が。


「ひぃぃ……何も本気でぶたなくても」


「恥ずかしいこと思い出させないで。頼むから…」


「でも可愛かったなぁ、あの甘えん坊の華恋ちゃんも」


「なっ!?」


「また会いたいなぁ。あの子に」


 ワザと悪戯っぽい笑みを浮かべてみた。狼狽している対話相手の様子を窺いながら。


「た、たまになら良いけど…」


「え? 本当に?」


「まぁ……うん」


「うひょ~、言ってみるもんだね」


 絶対また殴られると思ったのに。どうやら彼女も一連のやり取りを楽しんでいたらしい。


「そうだ、良いこと思いついた」


「ん?」


「兄妹ごっこを続けよう。そうすれば家でも外でもスキンシップを図れるよ」


「は? 何言ってんの、アンタ」


 ハイテンションで立ち上がる。脳裏に浮かんだシチュエーションを口にしながら。


「だから僕達の間柄を仲の良い兄妹って事にしておいてさ。四六時中そういう風に接すればいいわけよ」


「……ぽかーん」


「擬音を口にする人初めて見た。でも何が言いたいのかは分かったでしょ?」


「それって意味なくない? 私達の知り合いには同居人ってバレてるんだから」


「あっ、そうか」


「2人だけで楽しむのにしか使えないわよ、その設定」


「2人だけ…」


 彼女からは反論の言葉が炸裂。同時に思考が違う方向で興奮してきてしまった。


「ちなみに華恋って何月生まれ?」


「ん? 6月」


「げっ、じゃあ何日?」


「どうしていきなりそんな事聞いてくんの?」


「いいから教えてくれ。知りたいんだ」


「5日」


「……え」


 耳に入ってきた台詞に言葉が詰まる。その情報があまりにも予想外すぎて。


「い、一緒なんだけど。誕生日」


「はぁ!? 何でよ」


「いや、何でよと聞かれても…」


 今まで同じ生年月日の人に会った経験はない。同級生全員を調べても1人いるかいないかの確率だろう。それがまさかこんな身近で見つかるなんて。


「うわあぁあぁぁっ!! ならどっちが妹で弟か決められないじゃないか!!」


「そんな事のために質問してきたんかい」


「日付が先の方を兄、もしくは姉にしようと思ってたのに」


「ふ~ん…」


 欲望の氾濫は止まらない。思考回路はかつてない程の暴走に陥っていた。


「私が先だったらアンタにお姉ちゃんって呼ばれるの?」


「優しいお姉ちゃんって憧れるよね。宿題を見てくれたり、病気の時に看病してくれたり」


「……けっ」


「あ~、降臨してくれないかな。そういう人」


「私、そういうの無理。諦めなさい」


「だよねぇ、はぁ…」


 どちらかといえば彼女は兄や母親のような存在。備えているのは男のような逞しさだった。


「アンタも兄っぽくないからお兄ちゃん失格」


「な、何それ!」


「お兄ちゃんっていうのは妹に優しくて格好良くて勉強もスポーツも出来て喧嘩も強くて、それから…」


「待って待って、そんな奴が一体どこにいるというのさ。日本中探してもいないよ!?」


 喧嘩が強い人間は大抵ガタイもいい。なので秀才やイケメンとは両立しないパターンがほとんど。


「無理じゃなくてなりなさいよ。努力してさ」


「……無茶言わないでくれ」


「お願ぁ~い。良いでしょ?」


「うっ…」


「ね? ね?」


 反論していると卑怯な上目遣いが目前に迫ってくる。苦手だが嫌いではない表情が。


「け、検討してみます」


「やったあぁ!」


「へへへ…」


 騙されてると分かっていてもつい気持ちとは逆の返事をしてしまった。本能には逆らえない恐ろしさを痛感。


 戸惑いながらも頬の緩みが抑えられない。女性の怜悧狡猾さと男の単純さを思い知ってしまった。

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