二十一日目(日) 性欲とは異なる幸福だった件

 寄せ書きを見終わった後は問題の作文ページへ。阿久津が『六年間の思い出』という素晴らしい作文を書いていた中で、俺の短歌風作文を読んだ夢野は当然ながらお腹を抱えるほどに笑っていた。

 口直しがてらに見た四年と二年の文集でも作文は相変わらずカオスだったが、集合写真を見た夢野は予想通り今日一番の反応を示す。特に二年生の俺に対しては可愛いの連呼で、これ以上ないくらい盛大に褒めてもらった。

 二年と言えば、そろばん教室で俺と夢野と再会した時でもある。俺からすればこの無邪気で可愛い男の子こそがクラクラと呼ぶに相応しい存在だと思っているが…………本当、どうしてこうなった。


「そろそろ再開するか」

「うん!」


 何だかんだで十分どころか三十分近くアルバムや文集を見た少女は、充分な休憩が取れたのか気合いを入れ直す。夢野は英語を続ける中、俺は化学へと教科を変えた。

 自腹で買った参考書を元に、無機化合物における重要箇所を手帳サイズのノートにまとめていく。赤シートを当てた時に消えるよう、覚えるところは勿論オレンジ色のペンだ。

 この自腹で参考書を買うというのは、アキト直伝の勉強方法。こうすることで「こんな物のために1400円+税なんて大金を払ったのか……」という強い後悔を胸に抱き、悲しみと怒りのパワーを勉強に向けられるという訳である。


「ねえ米倉君。おやつにしない?」

「おやつ?」


 再び一時間ちょっとの勉強をしたところで、夢野が唐突に子供っぽい提案をしてきた。時刻は三時半とおやつには少し遅いくらいだが、言い方が可愛いので問題ない。


「私、ブラウニー作ってきたんだ」

「マジか! それならティータイムだな。紅茶でいいか?」

「うん。あ、何か手伝うことある?」

「大丈夫だ。夢野はお客さんなんだし、ゆっくりしててくれ」


 俺は部屋を出ると一階へ下りる。バレンタインでもないのに夢野の手作りお菓子が食べられると聞いて、テンションは上がり気付けば鼻歌を口ずさんでいた。

 リビングへ向かうと、そこにはソファでいびきをかいて寝ている父上が。こんな姿はとても見せられないと思いつつ、点けっぱなしだったテレビを消すとお湯を沸かして紅茶の用意をする。


「んー」


 こちらも何かしら紅茶に合うものを出そうと探してみたが、棚に入っていたのは柿ピー及びスナック系の菓子類のみ。母上がいたなら秘蔵の一品が出てきたかもしれないが、流石にその隠し場所まではわからないので仕方なく諦めることにした。

 そうこうしているうちにお湯が沸騰したため、二つのティーカップに紅茶を注ぐとお皿やフォークと合わせてお盆に載せつつウキウキで階段を上る。

 自分の部屋に戻るとそこには、起き上がって仲間になるブラウニーしか知らない俺にとっては神々しく見える、それはそれは美味しそうな焼き菓子が用意されていた。


「おお…………って、どうしたんだ?」

「ううん。何でもない。映画館で撮ったプリクラ、そこに飾ってるんだね」

「ああ、それな」


 部屋に戻るなり、挙動不審に素早く元の位置へと戻った夢野。どうやら俺の机の上の透明なマットに挟んである、以前映画へ行った時に一緒に撮ったプリクラを見ていたらしい。

 写真が苦手であるため今までは拒否したり隠れていたものの、今回は断ることもできずに覚悟を決めたが、いざ撮影してみると写真とは完全に別物。夢野の手によって加工が施された結果、俺ですら見られるレベルになるのだから本当に驚きだ。


「私としては、もっと持ち歩くものとかに貼ってほしかったな。携帯とかお財布とか」

「そういうところに貼ると失くしそうでさ……っと、砂糖とミルクは?」

「ううん。大丈夫。あ! このお皿、米倉君が作ったお皿でしょ?」

「陶芸部だからな」

「じゃあこっちのマグカップは?」

「それはちょっと勘弁してくれ。湯呑ならあるんだけどな」

「ふふ。でも、こういうマグカップも陶器で作れたりするのかな?」

「ああ。前に冬雪が作ってたのを見たことがあるけど、湯呑の成形をした後で取っ手部分を付けるだけだよ。ただその作業がちょっと大変そうでさ」

「へー。陶芸って何でもできちゃうんだね」

「そりゃまあ、部室で卓球できるくらいだからな」

「そういう意味じゃなくて!」


 夢野お手製のブラウニーがそれぞれの皿に移されると、チョコレートの香りがふわーっと漂ってくる。それだけでもう美味しそうで、思わず涎が出てしまいそうだった。


「いただきます」

「めしあがれ♪」

「うん! 美味い! メッチャ美味い!」

「本当っ? 良かった」


 アイスのような冷たさと、濃厚なチョコレートが口の中に広がる。表面は程良く硬いが中身はしっとりとした生地で、甘過ぎることもなく紅茶にピッタリだ。


「うん、凍ってたらどうしようと思ったけど、程良く解凍されてるかも」


 普段ならパクっと平らげてしまうところだが、今日はちびちびと丁寧に味を噛み締める。

 俺がフォークは進めている中で、ふと夢野が手を止めてこちらを眺めていたことに気付いた。


「ん? どうしたんだ?」

「ううん。米倉君が幸せそうで嬉しいなーって思って」

「そりゃ幸せだよ。こんな美味しい物を食べられるなんて思ってもなかったからさ」

「普段からテスト勉強の時はお世話になってるし、作るのもそんなに大変じゃないから。これくらいでいいなら、いくらでも食べさせてあげるよ?」

「マジか。ぜひ頼みたいところだな」

「うん。いいよ。じゃあ食べさせてあげる。はい、あーん」


 そう言うなり、夢野が自分のブラウニーを乗せたフォークを差し出してくる。

 一瞬戸惑いはしたものの、その笑顔に魅入られるかの如く身を乗り出すと、若干照れ臭かったがダブルミーニングで食べさせてもらった。

 のろけに聞こえるかもしれないが、同じブラウニーの筈なのにこれだけで更に美味しく感じるのだから本当に不思議である。


「ねえねえ、私にもお願いしていい?」

「え? あ、ああ」


 あーんしてもらったことすら、去年の春休みのバイト休憩中に阿久津から一度してもらっただけであり、人にあーんをする立場なんて初めての経験だ。

 自分の皿に乗っていたブラウニーをフォークで刺すと、やや震える手で夢野に向けて差し出す。そのまま口元へ運ぶと、夢野はパクッと口を閉じた。


「うん。美味しい♪ これ、一度やってもらいたかったんだ」


 嬉しそうな夢野を見て、自分がブラウニーを食べた訳でもないのに心が満ち溢れる。こんなに幸せだと、明日の抜糸が失敗したりしないか不安になってくるな。


「ごちそうさまでした」

「御粗末様でした。ねえ米倉君。米倉君は何か私にしてほしいことってないの?」

「いやいや、テスト勉強を手伝ったくらいで、そこまでしてもらわなくても大丈夫だって。こうやってブラウニーを作ってくれたりしてくれるだけで充分嬉し過ぎるくらいだよ」

「ううん。勉強のお礼だけじゃなくて、プラネタリウムに誘ってくれた時以外は私から提案してばっかりだったから。この前の映画も、今回の勉強も。文化祭の時だってそうでしょ? どこか行ってみたい場所とかないのかなーって」

「んー、そうだな……」


 腕を組みつつ悩むが、行きたい場所はあっても金銭面が辛かったりする。今日みたいにお金が掛からない場所なら問題ないが、今は夏祭りに備えて貯金中だ。


「夢野が誘ってくれる場所が、俺にとって行きたい場所でもあるからさ」

「本当に? 私の独りよがりじゃない?」

「そんなことないって。現に俺がつまらなそうにしてたことなんてなかっただろ?」

「それは確かにそうだけど、でも何だかいつも我儘に付き合わせちゃってる気がして。私も何か米倉君の願いを叶えてあげたいんだけど」

「そう言われても、これといって特にないからな」

「えー?」


 まるで何でも叶えてくれるみたいな口振りの夢野に対し、紅茶を飲みつつサラリと答える。

 言うまでもなくこれは建前であり、本音を言えば煩悩だらけ。今の俺の脳内では邪鬼眼を封じるかの如く「鎮まれ! 鎮まるんだ俺の欲望!」といった状態だ。


「じゃあ肩揉んであげるね」

「いや、いいって」

「いいからいいから。遠慮しないで」


 ブラウニーを食べ終わるなり立ち上がった夢野は、俺の背後へと回り込んでくる。

 そして少女の細い指が俺の肩に添えられ、優しいマッサージタイムが始まった。


「お客さん、凝ってますねー」

「そうか? あー、今は大丈夫だけど、高校受験の時に一回だけ物凄く肩が凝ったことあったっけ。多分変な姿勢で勉強してたからなんだろうけど、あれは驚いたな」

「米倉君、勉強のやり過ぎだったんじゃない?」

「そんなことないっての。寧ろ本当にマジでやらないとヤバかったくらいだよ。正直に言って、今年の梅を馬鹿にできないくらいにギリギリだったからさ」

「ふーん……よいしょ! 大丈夫? 痛くない?」

「ああ。丁度いいし、気持ちいいよ」

「良かった。足とか背中もマッサージしてあげよっか?」

「いやいや、全然凝ってないし、流石にそこまではやらなくて大丈夫だって」

「私のマッサージ、気持ちいいってお母さんに評判なのに」


 今の状態ですら吐息を感じるだけで興奮するくらいなのに、そんなことをされた日には俺の理性が決壊まで秒読みになってしまう。これ以上ない魅力的な提案なのに、断らなければいけないという辛さ……平然と振る舞ってはいるが血の涙が出てきそうだ。


「寧ろ夢野は他に行きたいところとかあるのか? 俺にしてもらいたいことでもいいぞ」

「うーん。いっぱいありすぎて困っちゃうかも」

「そんなにあるのか。例えば?」

「プリクラを持ち運ぶ物に貼って貰うこと!」

「それ、そんなに重要度高かったのか?」

「うん。物凄く高いよ? 後は…………やっぱり呼び方かな」

「呼び方?」

「だって米倉君、望のことは名前で呼んでるんだもん」

「別におかしくないだろ? 伊東先生も似たようなこと言ってたけど、夢野って呼んだらどっちを呼んでるのかわからなくなるんだし」

「それなら私のことを名前で呼んでほしかったなー」

「夢野が夢野じゃなくなって望ちゃんが夢野になったら、それはそれで今度は俺が混乱するっての。夢野がゲシュタルト崩壊を起こすから、呼び方変更の申し立ては却下だな」

「えー?」


 してもらいたいことがあるか聞きはしたものの、叶えるとは言っていない。例え本人が呼んで欲しいと言っていても、名前呼びは周囲の反応を考えると流石に抵抗がある。

 俺の肩をトントンと軽快に叩いていた夢野は次なる願い事を考えているのか、うーんと悩むような声を出すと少ししてから手を止めた。


「後は……こうしたいかな」

「!」


 そう呟くなり、少女はそっと身を寄せてくる。

 俺は背後から抱きつかれるような形で、優しくハグされていた。


「あ……えっと……夢野……さん?」

「駄目?」

「いや、駄目じゃないけど……その……」


 合宿の時に言ってはいけないことだと学んだが、布越しに二つのプニュっとした物がムニュっと押し付けられている感触ばかり気になってしまう。

 更には全身を抱擁されているが、夢野の腕がまた柔らかい。密着したことで良い匂いもする一方で、このお預け状態に発情してはいけないというのが辛いところだが、同じ失敗を繰り返す訳にもいかず冷静になるよう自分に言い聞かせる。


「本当はもっと色々な所に行きたいけど、受験生ってなるとそうも言ってられないよね」

「ま、まあそうかもな」

「これで中間テストが終わったら、またあっという間に期末テストで…………ずっとそんな繰り返しばっかりだったのに、もう三年生なんて嘘みたい」

「そうだな。ついこの前まで一年生だった気がするよ」

「私も。このまま高校生が続けばいいのに。いつまでもこうしていられたら良かったのにね」

「夢野……」


 寂しげに呟いた少女は身を寄せたまま、ゆりかごのようにゆっくりと身体を揺らす。

 そうしているうちに、俺も夢野が抱きついてきた理由が何となくわかってきた。


「男の人の背中って大きいね」

「そうか?」

「うん。米倉君、温かい……それに私の好きな匂いがする」

「どんな匂いだ?」

「米倉君の匂い……かな?」


 幸福感とでも言うべきだろうか。

 語り合い、肌が触れ合い、一緒にいられる。

 たったそれだけのことなのに、不思議と心が満たされていく。


「夢野」

「何?」

「ありがとな」

「うん」


 性欲とは全く異なる快楽……今こうしている自分がいるという喜び。

 人の温もりを感じたいという気持ちを、今になってようやく理解できた気がする。

 夢野に背中を預けた俺は、これ以上なく幸せだった。

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