十五日目(月) 阿久津が受験生だった件
「はよざ~っす!」
「…………はよ……」
「うわ~、今日のお兄ちゃん、人相だけじゃなくて機嫌まで悪そ~」
「頭が悪そうなお前に言われたくない」
「ふっふ~ん。梅もうアホじゃないもんね~」
「そんなこと言ってると、あっという間に元通りだからな? 高校は学区別じゃなくて学力別で集まってるんだから、周りは全員お前より頭が良いと思え」
「え~? 受験の時は周りがアホだと思えって言われてたのに~?」
「それはそれ、これはこれだ」
まだ入学したての癖に、生意気にも制服のスカートを短くしている妹に溜息を一つ。望ちゃんは普通の丈だったしあんなにも素直なのに、何でコイツはこうなんだ。
もっとも梅の言う通り、今の俺の機嫌はすこぶる悪かったりする。その理由は単純明快で先日行われた粉瘤、別名アテロームの切除手術が原因だった。
…………クッソ痛い。
手術前は全然痛くなかったのに、麻酔が切れた後は滅茶苦茶に痛いという歯の治療みたいな罠。こんなことなら病院なんて行かなければ良かったと心底後悔している。
切ったのだから痛いのは当然と言えば当然だが、暫くの間は痛みが続くという話を聞かされたのは手術後……それならそうと事前に話しておいてほしかった。
「はあ……行ってきます……」
「むっふぁふぁっふぁーい!」
一週間は入浴も不可能でシャワーのみ。激しい運動や患部に圧が掛かるようなことも控えるように言われたため、今日の体育の授業も受けられず見学である。
体感的には歩くより自転車の方が負担は少ない気がするが、登校中に傷が開いたりしたら洒落にならないため、今週は大事を取って電車で行くことにした。
「…………ん?」
自転車と違い電車通学は融通が利かず乗り過ごすと面倒なため、時刻表を確認しつつ普段よりやや早い時間に家を出たが、いきなり阿久津と出くわし思わず足を止める。
ひょっとしたら駅で会うかもしれないとは考えていたものの、まさか外に出た瞬間にドンピシャで遭遇するとは予想外であり、反射的に弛んでいた表情が引き締まった。
「よう」
「やあ。全く、何分待たせる気だい?」
「へ?」
「もう一本前の電車に乗ると思っていたけれどね。積もる話は歩きながらしようか」
まるで待っていたような言い方をする幼馴染の少女を前にして、俺の頭の中では「?」が大量発生する。
自転車ではなく電車で登校することまで熟知しており、一緒に登校するという約束でもしていたかのような口振りだが、そんな覚えは当然ながら一切ない。
「思っていたよりは元気そうに見えるけれど、足は今も痛むのかい?」
「何で知ってるんだ?」
「麻酔が切れるなり櫻もキレたと、昨日梅君から連絡があってね」
「ちょっと待て! 確かに多少なりイラついてはいたけど、断じてキレるようなことはしてないぞ? アイツ絶対に上手いことを言いたかっただけだろ!」
「腫瘍を取ると言っていた時点で、何となくこうなる未来は目に見えていたよ。それで予想通り今週は電車で登校すると聞いたから、こうして無事を確認しに来た訳さ。必要とあればキミの荷物を持っても構わないけれど、本当に大丈夫なのかい?」
「いやいやいやいや。流石にそこまでは痛くないから」
女子に荷物を持たせる男子とか、周囲からの視線が辛すぎて逆に心が痛くなる。
しかしながら俺の知らない間にそんな連絡が行われていたとは、黒谷南中のバスケ部ネットワークは相変わらず情報が早い様子。心なしか歩くペースもこちらに合わせてくれている阿久津へ、ふと疑問に感じたことを尋ねてみた。
「じゃあ、わざわざ俺が家を出るまですっと待ってたのか?」
「時間にして十分ちょっとだね」
「それならそうと、昨日の時点でメールなりしてくれれば良かっただろ?」
「キミが「大丈夫だ、問題ない」と意地を張ってボクの提案を断るのは目に見えていたし、どうせ待つことに変わりないなら連絡する必要もないと思ってね」
「俺が集合時間に遅れる前提みたいな言い方だなおい」
「そんなことはないさ。もしもキミが五分前行動をするなら、ボクは十分前行動をしているという意味だよ」
「じゃあ俺が十分前行動をしたらどうなるんだ?」
「十五分前行動だね」
「何でそうなるんだよっ?」
「人を待たせるのは、借りを作るみたいで嫌じゃないか」
「そうか? 別に借りでも何でもないと思うし、仮にそうだとしたら尚更時間を合わせた方がいい気がするけどな。阿久津が待たせた相手は、借りだらけになる訳だろ?」
「ボクが待つ分には気にする必要はないよ。やりたいようにやっているだけだからね。今日だって単にキミが家を出たら、偶然にもタイミングよくバッタリ出会ったと考えれば済む話じゃないか」
「それなら第一声が明らかにおかしいだろ。思いっきり「何分待たせる気だい?」って言ってたからなお前。偶然とか一言も言ってなかったからな?」
「櫻には随分と貸しが溜まっているからね。ちょっとした催促代わりだよ」
「うっ! 足がっ! 足がぁああああっ!」
コイツに対する借りとなると、既に利子すら返済できないくらい山ほどある気がする。
二ヶ月前にあった俺の誕生日にも、以前にプレゼントしたシュシュのお返しとして、時折部室で自転車の鍵が無いと慌てる姿を見兼ねてかキーケースを貰ったばかり。少しくらい借りを返す機会をくれてもいいんだが、阿久津が俺を頼るとか絶対にないよな。
「実際のところ足はどんな状態なんだい?」
「ああ。とりあえず腫瘍は切除して、来週に抜糸するってさ」
「それで完治なのかい?」
「いや、暫くの間は月一くらいで通院する形だ」
「傷が完全に塞がるまで様子を見る感じかな? 思っていた以上に大変みたいだね」
「まあ、何とかなるだろ」
「初めての手術はどうだったんだい?」
「手術って言っても十分くらいで終わってさ。手術台とかに乗せられることもなかったし、麻酔も足だけで思ってた以上に呆気なくて――――」
こうして話していると、気が紛れて痛みも少し和らぐ。
ここ数日元気がないように見えた阿久津も、今日は普段と変わらない様子だった。
「まあ、あまり無理はしないでもらいたいね」
「そっちこそ大丈夫なのか? 部室に来る日は減ってるし、何か最近ボーっとしてるように見えるけどさ」
「そうかい? 少なくとも授業中はしっかり集中しているから問題ないよ」
阿久津とは昨年数Bが一緒だったが、今年も数学探求という授業が同じクラス。確かに授業の時には普段通りだが、どこか寂しげなのが少し気になる。
「やっぱり予備校が忙しいのか?」
「部活を休んでいたのは予備校じゃなくて、サテラーに行っていたからだね」
「あれ、お前も申し込んだのか」
「その言い方だと、キミもやっているのかい?」
「ああ。まだ一回しか行ってないけどな」
サテラーというのは、衛星通信方式の講義名。予備校で行われている授業の録画版を見ながら勉強するようなもので、自分の好きな時にいつでも行くことができる。
屋代ではFハウスの三階にサテラ―用の自習室が用意されており、そこにはヘッドホンを付けて支給されたテキストを開き、画面の中の講師の説明を聞いている生徒が沢山いた。
一回の授業は一時間半。勿論録画なので途中で止めることもできるし、聞き逃した話は巻き戻して繰り返し確認することもできる。
「その調子だと、いつぞやの通信制ゼミみたいに溜まりそうだね」
「うぐ……ちゃんと行くっての」
車の免許を取る際のシステムもこんな感じらしく、姉貴は面倒臭くて教習所に中々行かなかったという話を前にしていたが、こういうところは血の繋がりを感じずにいられない。
七限まである日は一回分で下校時刻になるが、六限までの日ならギリギリ二回分見ることも可能。ただ問題なのは、前回一時間半やっただけでクタクタに疲れたんだよな。
「じゃあ予備校はいつ行ってるんだ?」
「曜日にもよるけれど、サテラーに寄った後だよ」
「マジか…………凄いなお前」
「これからは毎月のように模試があるからね。ボクだって本当は毎日のように陶芸部へ顔を出したいけれど、あえて我慢して毎週の月曜日だけにしているんだよ」
「そんな勉強ばっかりで、辛くないのか?」
「…………そうだね。できることなら、いつまでも部室でのんびり楽しんでいたい気分かな。それでも、何事にも終わりは来るものだからね…………」
そう呟いた阿久津を前にして、俺は思わず自分の目を疑う。
その姿は普段では考えられないほど弱々しく、まるで消えてしまいそうなほど儚く見えた。
「まあ週に一度は楽しみがある訳だし、ゴールデンウィークの歓迎会や夏の合宿を控えているだけ今はまだ幸せな方だよ。そういうキミこそ大丈夫なのかい?」
しかしながらそんな風に見えたのは一瞬だけであり、幼馴染の少女は普段と変わらないケロっとした様子で俺に質問を投げかけてくる。
「高校受験の時と違って、大学受験はそう簡単にはいかないよ。仮にキミが月見野を本気で目指すつもりなら、今の自分の状況を改めて見直すべきだね」
「わかってるつもりではいるんだけどな」
どうやら人の心配をする前に、自分の心配をしておくべきだったようだ。
いつまでも居心地の良い陶芸部に入り浸ってはいられない。阿久津と一緒に登校しながら話を聞いていた俺は、自分が受験生であることを自覚し始めるのだった。
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