一日目(水) Gが全人類の敵だった件

『きゃっ?』

『うわっ? マジかよっ!』


 伊東先生が慌ててトイレに向かったため開けっ放しだった後方のドアの先、廊下の方から何やら女子生徒や男子生徒の悲鳴とざわめきが聞こえてくる。

 一体何かと思い、陶芸部の面々が揃って顔を上げ視線を向けた。


「「「……!」」」


 真っ先に動いたのは冬雪。ガガガッという椅子を引きずりつつ慌てて立ち上がった少女は、この世の終わりとでも言わんばかりの表情を浮かべている。

 次いで立ち上がった阿久津と早乙女も、何やら深刻な表情でドア付近を見ていた。


「厄介だね……星華君、見張っていてくれるかい?」

「り、了解でぃす」

「何よ? どうかしたの?」

「……っ」

「雪ちゃんっ?」


 柄にもない機敏な動きで、冬雪がいきなり陶芸室を飛び出す。

 状況を理解できずにいると、今度は俺の隣にいた夢野が身を強張らせた。


「どうしたんだ夢野?」

「あ、あれ……」


 後方ドア付近の床を指さす少女。

 一体何だと目を細めて注視するが、示しているものは未だに伝わってこない。


「ユメノンまで、何だってのよ?」


 これといって何も見当たらない気がする中、同じく状況を呑みこめていない火水木が身を乗り出すと景色でも眺めるように額に手を当てつつジーっと観察する。

 そして動きを止めた。


「えっ…………えっ? ちょっ! 嘘でしょっ?」


 慌てて数歩退く少女を前にして、俺は不思議に思いつつも改めてよ~~~~く見た。

 別に何もないように見える。

 しかし次の瞬間、小さな物体が素早く蠢いた。


「っ!」


 カサカサと動く姿を見るだけで不快感を煽る、黒光りした醜いフォルム。

 名前の字面だけで人に嫌悪感を与える、最凶最悪の害虫。

 そこにいたのは全人類の敵……通称Gだった。


「高音に反応して向かってくるらしいから、悲鳴はあげないことを奨めるよ」

「うぉっ? おいっ! 俺を盾にすんなっ!」

「べ、別に良いでしょっ? ちょっと、どこ触ってんのよっ!」

「触ってんのはお前だろっ!」


 外へ逃げようにも生憎の豪雨という背水の陣……とは言っても陶芸室の隅を通って廊下へ逃げれば済む話だが、混乱している火水木は何故か俺の背後に隠れ右肩を掴む。

 更には隠れながらも身を乗り出して様子を窺っているせいで、背中にめっちゃ柔らかい物が何度も当たっている件。でかいとは思っていたが、予想以上のボリュームだ。


「ネック! さっさと何とかしなさいっ!」

「何とかって言われても……」


 我が家では専ら母上が処理してくださるため、正直言って俺もGの対処は慣れていない。それ以前にジェットな殺虫スプレーすらない現状でどうしろと言うのか。

 気付けば夢野まで俺の左肩を掴みながら隠れる始末。女子の良い匂いに包まれるという傍から見ればこれ以上ない幸せな状況だが、実際は冷や汗ダラダラである。


「参ったね。見当たらない……」


 何かしら対処できる武器を探していたのか、引き出しを片っ端に開けていた阿久津が困った様子で呟く。しかしアイツ、こんな状況でも相変わらず冷静だな。


「ほら! そのしおり使っていいから!」


 仮にしおりを丸めたとしても、そのリーチは約20センチ。誰がどう考えても明らかに短く、新聞紙ならともかくこれを使っての近接戦は流石に避けたい。

 機敏に動いては止まり、また唐突に動き出す……そんな不穏な動きを繰り返して部屋の中央に陣取るGと睨み合いの中、侵入の原因を作った顧問が呑気に戻ってきた。


「ふう……おや? 皆さん怖い顔をして、どうかしたんですか?」

「イトセン、ストップ! ストォーップっ!」

「はい?」

「そこ! そこ!」

「…………わお」


 Gを見るなり驚いた伊東先生は、回れ右をする。

 そのまま阿久津が探していたであろう殺虫スプレー的な武器を出すのかと思いきや、先生は退治するどころかそのまま陶芸室を出ていった。


「ちょっ? わお、じゃなくて助けなさいよっ! 何逃げてんのっ!」

『カサカサ』

「キャーッ!」

「ばっ! 押すなってっ?」


 火水木のでかい声のせいか、Gは地面を這いながらこちらへ距離を詰めてきた。

 完全に盾代わりとして押し出される中、必死に身を引こうとする。その際に俺の肘が火水木の身体の柔らかくて大きな胸にプニプニと当たり、何かもうおっぱいおっぱい……じゃなくていっぱいいっぱいだった。

 幸いにもGは途中で方向転換し、再び動きを止めて触角を動かす。


「だ、だらしないでぃすね! それでも男でぃすかっ?」

「無茶言うなよ! お前はしおり使って倒せるのかっ?」

「せ、星華は見張りで忙しいでぃす!」


 全然忙しそうに見えない件。阿久津同様に元バスケ部ということで体育館の暑さにやられた虫の死骸を見慣れている筈だが、所詮コイツは口だけらしい。


「仕方ないね」


 捜索を諦めた阿久津が、引き出しから梱包用の新聞紙を取り出して丸め始める。

 魔剣の錬成を終えた少女は、戦場へ赴くなり強敵と対峙した。


「どこへ行くか分からないから、部室の外へ避難することを奨めるよ」

「ゴ、ゴメンねツッキー。アタシGはちょっと……」

「誤解しないでほしいけれど、ボクだって慣れている訳じゃないさ」


 まるで「お前の仕事だろ」と言わんばかりに阿久津にチラリと見られた気がする。いや、それは単に俺の後ろめたさから生じた被害妄想なだけかもしれない。

 冷静さを取り戻したのか、火水木と夢野はゆっくりと俺から離れるなり出口へと移動開始。早乙女は部屋に残っているものの、完全に距離を置いており役立たずだ。


「キミは逃げないのかい?」

「え……? あ、ああ……」


 YESともNOとも受け取れる曖昧な返事をする。個人的には御言葉に甘えて退散したいところだが、それはそれで火水木辺りから絶対に何かしら言われるだろう。

 これがギャルゲーなら逃げるか逃げないかの選択肢が出てきて、逃げなかったら好感度アップの場面。そんなことを思いつつ鞄から取り出したプリントを丸めて構えるが、男女間の友情は存在する会の会長は「そうかい」と一言呟くだけだった。

 もっとも今の状況はギャルゲーというよりも、RPGの方が近いかもしれない。


「作戦は?」

「キミが最初から『おれにまかせろ』と言ってくれれば、こちらとしても助かるけれどね」

「よしわかった。ここは『バッチリがんばれ』でいくぞ」


 Gは様子を見ている。

 櫻は身を守っている。

 阿久津は身を守っている。


「…………」

「………………」

「いやー、マジで雨ヤバいッスよ」

「「!」」


 誰かがやらないと終わらないとわかっていながらも、譲り合いの精神を忘れない俺と阿久津。そんな中不意に扉が開くなり、水も滴る良い男が外から戻ってきた。


「ナイスタイミングだテツ!」

「でしょ? オレくらいになると空気が読めるどころじゃなくて、酸素が読める男って感じッスからね。あ、ネック先輩。オレの鞄からタオル取ってもらっていいスか?」

「いやそうじゃなくて緊急事態なんだよ!」

「こっちも緊急事態なんスよ。いや本当パンツの中までグショグショで――」

「人の話を聞けいっ!」


 こんなクソピンチな時にも拘わらず、マイペースな後輩は不思議そうに首を傾げる。

 状況説明するように黙って敵を指さす阿久津。俺達の視線の先に何がいるのか気付いたテツは、ようやく今がどういう事態なのか理解したらしい。




 作戦→『めいれいさせろ』 

 テツ→攻撃


「うぉっ? ゴっ? ヤバイヤバイっ! ガチのマジでヤバイじゃないッスかこれ!」


 テツは混乱している。


「ヤバイ時には歌を歌うッス! ラン、ランララランランラン♪」


 しかしGには効かなかった。


「あ! オレちょっと忘れ物したんで行ってくるッス!」


 テツは逃げ出した!




「あ、おいっ?」


 頼りになりそうな見た目をしている割に、全然そんなことはなかったらしい。

 Gが動いたのを見てギャーギャー騒ぐだけ騒いだテツは、再び豪雨の中へと去っていく。そんな姿に呆れつつも、本格的に活動し始めたGへ阿久津が身構えた。


「どうもお待たせしてすいません」

「!」


 少女が一歩目を踏み出そうとした瞬間、逃げた筈の顧問が戻ってくる。

 右手に殺虫スプレーを携え、左手にボウル型の容器を抱えた伊東先生は辺りを見回した。


「どこに行きま……っと、そこでしたか。隠れていないのは助かりますねえ」


 歩み寄り射程距離に近づいた先生はスプレーを発射。すかさず一目散に逃げるGだが、先生は容赦なく追いかけ噴射を続けると動きが鈍った瞬間を見てボウルを被せる。

 止めとばかりにボウルを少し持ち上げ、隙間から殺虫剤を噴くと再び封印。ボウルの上にスプレー缶を置いた先生は、任務完了とばかりに大きく息を吐いた。


「はい。おしまいです。後処理は先生がしますので、他の皆さんを呼んで構いませんよ。くれぐれもボウルをひっくり返さないよう、宜しくお願いします」

「ふう……伊東先生、ありがとうございました」

「救世主でぃす!」

「いえいえ、どう致しまして。先生、これでも先生ですからねえ」


 そう言った後で、伊東先生は殺虫スプレーを引き出しに入れると準備室へ戻っていく。

 そんな後ろ姿が妙に恰好良く見えつつも、俺は外へ逃げたテツへ声を掛けた。


「忘れ物は見つかったか?」

「見つかったッス。忘れてたのは、あの夏の日の思い出だったッス」

「やかましいわ!」

「しかしイトセン先生、超カッケェッスね」

「ああ、そうだな」


 そんでもって歌を歌って逃げたお前と、呆然としてただけの俺は超恰好悪かったよ。

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