俺の彼女が120円だった件

守田野圭二

1章:俺の彼女が120円だった件

初日(月) 米倉櫻が小心者だった件

 人の記憶というものは底が知れない。

 何でも最近になって、人間の脳は従来考えられていたより十倍も記憶できると判明したとのこと。単位にすれば一ペタバイト……文字情報なら何と2000万文字である。

 先日情報の授業中に内緒でネットサーフィンをして見つけた雑学さえ、案外覚えていた自分に驚くくらいだ。まあ先生に名指しでバラされてクッソ恥ずかしかったけど。


「………………どっちだ?」


 そんなトリビアを自慢げに語る偉大な生物、米倉櫻よねくらさくらは今、数分前に記憶した僅か数文字を思い出せずにいた。

 右手にはシャンプー。

 左手にはリンス。

 ふむ、少し落ち着いて考えてみよう。

 目を閉じればほら、風呂場から呼び出してきた妹の声が聞こえてくるじゃないか。



『お兄ちゃ~ん! ――――切れてるから買ってきて~』



「ぬおおっ? 思い出せんっ!」


 九月半ばの雨の降る夜。普通ならこのコンビニまでは自転車で三分もかからない距離だが、それが徒歩となると実に面倒で往復するのは避けたいところだ。

 まあ待て、深呼吸をしてからもう一度だけ思い出してみよう。



『お兄ちゃ~ん! ――――切れてるから――――』



 何だか前より酷くなった気がする。これじゃ怒ってるみたいじゃん。

 いっそリンスインシャンプーという最終兵器を買ってしまうのも手だが、それはそれで敗北感が半端ない。兄としてのプライドにも関わるし、妹から文句も言われるだろう。


「ありがとうございました」


 そうこうしているうちに、店内の客は俺一人になってしまった。

 いつまでもシャンプーかリンスかで迷っている訳にもいかない。ちょっと頭を働かせてみれば、こんな問題は難しくも何ともないのだ。


「あ、袋いらないんで」

「かしこまりました」


 レジにいる店員さんへ、詰め替え用のシャンプーとリンス両方を差し出す。

 費用は倍になるものの、それで威厳を保てるならば良しとしようじゃないか。兄としてのプライド? 何それ美味しいの?


『ピッ――ピッ――』


 丁寧な手つきでバーコードリーダーを当てるのは、俺と同じ高校生くらいの少女。前髪を桜の花びらヘアピンで留めている、ショートポニーテールに髪を結んだ可愛い子だ。

 普通なら店員の顔なんて覚えないが、彼女は前にも一度見かけた気がする。

 印象に残っている理由は眩しい笑顔と綺麗な声。勿論営業スマイルだろうが、その微笑みは見ていて元気になるし、透き通るような声は聞いていて癒される。


夢野蕾ゆめのつぼみ


 財布から紙幣を取り出しつつ、適度に膨らんだ胸のネームプレートをチラリと拝見。夢野って良い苗字だな……少なくとも根暗を連想させる、どこぞの苗字より――――。




『夢野蕾 ¥120』




「…………」


 何度か瞬きした後で、再び少女のネームプレートを確認する。

 見間違いではない。

 ネームプレートにピッタリ収まる形で、名前の後に指先程度の大きさをした小さい値札のシールが貼られていた。

 えっと……つまりどういうことなんだこれは?


「――――あの……お客様……?」

「へぁっ?」


 非常事態に混乱していたあまり、不意の呼びかけに対してウルトラとかヒトデにマンが付きそうな返事をしてしまう。

 既に代金は表示されており、商品にシールを貼り終えた少女が困惑していた。


「お会計ですが、1000円からで宜しいですか?」

「あっ! す、すいませんっ!」


 手にしていた野口英世を慌てて差し出す。まるで支払うのを躊躇っていたみたいに見られたかと思うと、何だか滅茶苦茶に恥ずかしい。


「1000円からお預かりします」


 しかしこの状況、どうするべきだろう。

 やはり教えてあげるべきか……いやでも彼女の立場になって考えてみれば――――。




「ありがとうございました」




 コンビニから出て来たのは、勇気を出せず敗走してきた男の姿だった。

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