第10話 鬼

 俺は狭い地下室で縄梯子につかまり、床板の小さな隙間から、小屋の中の戦いを見つめていた。

 おじいさんは大きな背中を丸め、抜身の刀身を腰の高さで構えていた。年老いてもがっしりした体つきを沈め、大岩のように低い重心。

 一方、より小柄な老人、枯は両腕をだらりとさげて、素手のまま白い歯を見せていた。何かを面白がるように。


「先手を譲ってやろうかのう?」

「昔のよしみじゃ、目上に譲ろう」

 枯のにやついた笑み。おじいさんの表情はわからないが、その口調は低く、緊張しているように思えた。

「じゃっ!」

 奇矯な叫びをあげ、枯が飛び上がる。ひざを胸につきそうなほどに折りたたんで大きく腕を振るう。羽毛に覆われた長い袖が翻り、おじいさんへと迫る。


(目つぶし……?)

 袖で目を覆わせる手か、と思ったが、その疑念はすぐに打ち消された。

 おじいさんが立てた刀がその袖を受け止め、固い金属音を響かせたからだ。

 バラバラと羽毛が床に落ちる。枯の袖の合間から、明かりを反射する鈍い金属がちらりと見えた。

(隠し刃!)

 長い袖の裏に刀が仕込んであるのだ。袖に隠れて太刀筋が見切りにくい。暗い場所なら、なおさらだ。

 あの老爺ろうやが俺の頭に振れた時にも、わずかに手をゆするだけでこの細い首を刎ねることができたのだと気付いて、うなじに鳥肌が立つ心地だった。


「ふぅぉっ!」

 床を踏みしめ、枯が体をひねる。左、右、左。ツイストダンスのように腕をふり、袖の刃が振り回される。

 おじいさんは初撃を刀で受け流し、続く二太刀を身を引いてかわす。胴を薙ぐような刃を、すんででかわす。

(見切ってる……!)

 おじいさんは、枯の袖に仕込まれた刃の長さを見切っている。いや、のだろう。


「いつか、こうなる気がしておった」

 左足を引き、半身になりながら、まっすぐに刀を振り下ろす。後ろ足に体重をかけた、けん制の一撃だ。

 ギンッ!

 今度は、枯がその刃を受け止める。すぐさま、もう一方の腕が振り上げられ、おじいさんを横から切りつけようとする。

 しかし、それよりも早くおじいさんの右足が空いた胸部を蹴り上げる。

「っぐ、う……!」

 つま先で突き刺すような激しい一撃が、枯の細い体を押しやり、後退させた。


「貴様の首を落とすことを、何度も考えた。あの日以来な」

 剣豪映画のように、二人がふたたび、対峙する。

 おじいさんの言葉に、枯はせき込みながら「にやり」と口元をゆがめた。

「大口をたたくようになったのぉ」

「おぬしほどではないわ!」

 板間から土間へ、大きく飛び上がりながらおじいさんが刀を突きだす。

「じゃが、剣筋が変わっておらん」

 枯はわずかに身をそらし、胴の真ん中へ突き刺さる刺突をかわした。まさに紙一重。刃は、羽毛に覆われた着物を破り、腋の下の空間を貫いていた。


「くっ……!」

 体重を乗せた突きを放った後だ。おじいさんはあわてて刀を引こうとするが……

「させんよ」

 刀は、ぴくりとも動かない。

 何が起きているのか、一瞬、わからなかった。枯の小枝のように細い指が、刃を握りしめていた。

「ぬ、おお……!」

 おじいさんは気合の声とともに刀を抜こうとするが、体重で劣っているはずの枯がつかんだ刀すら動かすことができないでいた。


「お前がいかに武術を誇ろうと、鬼となったワシには勝てん」

 さらに、信じられないことが起きた。

 枯が手に力をこめた直後、「ぽきり」と軽い音を立てて、おじいさんの刀がへし折られたのだ。


「なっ……!」

 思わず、声をあげそうになって、あわてて口を押える。

「きんちゃん……?」

 俺の背中にずっとつかまっていたあかねちゃんが、不安そうにか細い声を上げる。

「……おじいさん、どうなったの?」

 暗くて、あかねちゃんの顔はわからない。

「し、しずかにして……」

 我ながら声が震えていたが、そう答えるのが精いっぱいだった。


「力の差を思い知らせてやろうぞ」

 枯の細い腕が一閃する。おじいさんが防御のために挙げた左腕に袖が打ち当てられ、その体が真横にふっ飛ばされた。

「がっ……!」

 苦悶の声を上げるおじいさんの腕は深く切り裂かれ、真っ赤な血が流れ出していた。

 ちょうど、シロの腹にあったのと同じような傷だ。

 おじいさんは土間につんであったたきぎの中に突っ込み、傷ついていない腕でなんとか身を起こそうとしている。


「まだ、宝を明け渡す気にはならんか?」

「おぬしなんぞに!」

 膝をついた体勢で、おじいさんは薪をつかんで投げつける。枯はもはや受けようともしなかった。

 太い木材が顔に当たっても、仮面に覆われた表情ひとつ変えずに迫り続ける。

「やぶれかぶれじゃな」

 枯が右手をゆっくりと振り上げ、袖から突き出た刃がギラリと光った。


 そのときだ。

「まだじゃっ!」

 突如、おじいさんがはじかれたように体を起こした。血を流す左腕で薪の横に置いてあったなたをつかみ、その手首を右腕でつかんで無理やりに力を込めながら振り上げる。

 土間の隅にまでは明かりが届かず、おじいさんの体で隠していた左腕の動きにまでは気が回らなかったに違いない。遠心力で加速した鉈の刃が、枯の腋の下から深々と、右胸に突き刺さっていた。


(やった……!)

 どろりと、枯の右半身から赤い血がにじむ。

「きさ……ま……!」

 仮面の奥の眼光を怒りに光らせ、枯が声を上げる。

「ワシの家じゃ。どこに何があるかはよく知っておる」

 疲労に息をつきながら、おじいさんが強引に鉈を引き抜く。枯の着物に、さらに赤い血がひろがった。


「これで、とどめじゃ」

 そして今度は、老爺の首めがけて鉈を横から振り……

 それを、枯が右手で受け止めた。

「っ!?」

 さっきの一撃で切り裂かれた右胸の筋肉が動くはずがない。俺がそんなことを思うよりも早く、枯の口元が震えた。


「許さん」

 その口元が左右にに大きく裂け、、牙が伸びていく。

 怒りに紅潮する顔に、仮面が一体化していく。ひび割れた固い表面が、顔中を覆い、額から2本のツノが突き出していく。

 さらには、着物を覆った赤い血が、と音を立てて、真っ赤な炎に変わっていく。その炎はみるまに広がり、黒い羽毛が炎へと変わっていく。

 細い下半身までもがひび割れた甲殻に覆われて、巨大な爪が出来上がっていく。まるで鳥の……いや、図鑑で見た肉食恐竜の後ろ足によく似ていた。

「遊びは終わりじゃ」

 口から火を噴きながら、鬼と化した枯がさけんだ。



   🍎



 猜疑は己を焦がす炎の如し。

 はじまりは小さな火種でも、一度炎が上がれば、止めるすべなどなきに等しい。

 村を、城を、山を、国を、灰へと変えた地獄の炎。

 もはやおさめることかなわじ。


 業火焔焔ごうかえんえん紅炎爍爍こうえんしゃくしゃく

 残すものは、ただ灰燼かいじんのみ。

 名は、焱翼猜鬼えんよくさいき・枯。



   🍎



「ワシに勝てるとでも思うたか!」

 全身を炎に包むバケモノと化した枯が、おじいさんの胸を蹴り上げる。大きく跳ね上がった体は、土壁を突き破り、小屋の外へと飛び出した。

「皮と肉と骨と臓腑を、焼きつくしてくれる!」

 哄笑をあげ、枯がそのあとを追う。二人の姿は、板の隙間からはもはや見えない。


「おじいさん……」

 あかねちゃんの声が不安げに震える。

「あかねちゃん、ここにいて」

 そっとささやき、俺は落とし戸をそっと開ける。

「だめ、きんちゃん」

 裾をつかみ、引き止めるあかねちゃん。

「俺には力があるはずなんだ。きっと、やつを倒せるような力が……だから、行かなきゃ」

 あかねちゃんの小さな手を振り払い、床下から身を乗り出した。


 身をかがめて、壁に開けられた穴から外の様子をうかがう。そこに見えたのは……

「この木、何か力が宿っているな?」

 うつぶせて傷を押さえるおじいさんを見おろし、枯が笑っていた。大きな口から、春だというのに蒸気が噴き出している。

「くだらん。ワシにはもはやこんなものに頼る必要はない。露悪ろあく様から授かった力を見せてやろう」

 3倍にも膨れ上がった腕がのばされる。その先にあるのは……


「やめろっ!」

 思わず、叫んでいた。

 シロの木に手を伸ばしかけた枯が振り返る。

「小僧か。下らん、ワシを止められるものか」

 俺に一瞥をくれただけ。それだけで、枯は再び手を伸ばし……その指が触れた瞬間、木の幹に炎がともった。


「お前……くそ、くそおっ!」

 無我夢中で、俺は枯へと飛びかかった。転生する前に、ケンカなんてしたことがない。きっと、無様で、ろくに拳もにぎれていなかったに違いない。


 でも、俺だけが鬼を倒せるはずなんだ。そう信じて……

 次の瞬間には、強く頭を打って地面に倒れていた。

「っ……!?」

 頭の裏側がちかちかして、何がなんだかわからない。顔の上に、何かが乗っていた。

「だまってみておれ」

 ずっと上から、枯の声が聞こえた。そしてようやく、枯の大きな足に頭を踏みつけられているのだと気付いた。


 巨大なかぎづめに頭を押さえられながら、衝撃で手を動かすこともできない。

 ぐらぐらする視界の隅で、赤い色が大きくなっていくのが見えた。

「貴様らの力など、この程度じゃ」

 大きな口から哄笑をあげる枯。

 その腕から上がる炎が、シロの命と引き換えに伸びた木を包み、巨大な火柱を作り出していた。

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