第8話 終わりじゃない
老人の気配が消えて、動かなかった体を起こす。初めて味わう感覚だった。
人間の形をしているのに、まるで違うものと話しているかのようだった。
「シロ!」
俺は立ちあがり、麦穂の中に大きな体を横たえたシロのほうに駆け寄った。
「檎太郎様……」
シロの鳴き声が震えている。力なく、ぐったりとうつぶせていた。
「だ、大丈夫。こんなはずないから……」
俺はその体を抱き起そうと腕をのばす。おじいさんの家に運んで、治療してもらえば……
けど、その腕にはぬるりとした感触が伝わってきた。
「っ……!」
思わず手を引く。夜の闇と同じ色の血が、俺の手を汚していた。
シロの腹は、白い毛皮が見えなくなるほどに温かいもので濡れている。やわらかい腹に、何か鋭利なものが突き刺さったみたいに。
「シロ!」
手を添えて、出血を少しでも防ごうとする。でも、シロの大きな体の中に流れていた血が、俺の小さな指の隙間からどんどんとこぼれだしていく。
命そのものが、俺の指の間をすり抜けていた。
「つづきを……」
力のない声で、シロがつぶやいた。
「つづきを、聞かせてください。私の、おはなしの……」
「あ……ああ……」
吐く息がのどにつかえたみたいだ。息を吸うと、鉄さびのにおいがした。涙があふれて、目玉が痛い。
「おじいさんは、犬に感謝して、土に埋めてあげる。そしたら、松の木が生えてきて、おじいさんはその松で臼と杵を作るんだ。その杵で臼をつくと、また宝物が出てくる。結局、意地悪なおじいさんに臼や杵は燃やされちゃうんだけど……でも、その灰を集めてまいたら、枯れた木に花が咲いて……」
「おじいさんが、喜んでくれるんですね……?」
弱弱しい呼吸を漏らしながら、シロは微笑んだ。少なくとも、俺にはそう見えた。
「うん」
頷く。頭が痛くて、今まで自分で聞いたことがないくらい、声が震えていた。
「おじいさんだけじゃない。みんな喜んでくれる」
「よかった。これで終わりじゃない」
そういって、シロはふつりと動きを止めた。
月の光が、麦穂の中の俺たちを照らしていた。
俺の涙がボロボロと落ちて、白い毛皮を濡らしていた。この涙であふれる血を洗い流して、元通りになればいいのに。
でも、転生したばかりの俺の体は小さくて、涙どころか全身の水分を集めても、シロが流した血には足りなかった。
🍎
檎太郎は、自分が「おはなし」の世界の中にいることを知っていました。
しかし、この時まで彼は気づいていなかったのです。
彼の知っているむかし話と、この世界で起きることが食い違っていることに。
「どういうことだよ……」
檎太郎。上を向いても、私の姿は見えませんよ。私はただ、語ることしかできないのです。
「そんなことはどうでもいい! おかしいだろ! 『意地悪なおじいさん』は、自分もシロを使って宝を掘り当てようとするんじゃないのか!?」
そうです。
いえ、そうでした。
「答えろ、かそけし! この世界で何が起きてるんだ!」
語り部を呼び捨てにするとは……いえ、いいでしょう。
この世界の「おはなし」は、鬼によってゆがめられています。
「鬼? あの、ツノが生えてる……?」
そう、その鬼です。
と言っても、それだけが鬼ではありません。
鬼はもともと、邪悪なできごとに姿を与えたものです。
疫病や飢饉、恨みや憎しみ、強盗に悪辣漢……それらが物語に語られるとき、キャラクターとして登場したのが鬼なのです。
「ここは物語の中だから、その鬼が実在するって?」
その通りです。ですが、もとからいたわけではありません。
物語は、時代によって移り変わり、語られるもの。
あなた方が【あちらの世界】でいくつもの物語を語るうちに、そこには少なからず邪な心が向けられます。
「ちょっと、話が難しくなってきたんだけど……」
つまり、むかし話に込められた教訓や思いやりが忘れ去られ、人々の心が荒れたとき、鬼は物語の中に入り込み、邪悪な結末を導くためにやってくるのです。
「それがちょうど、俺が死んだころに起きたってこと?」
そうです。何度も繰り返し行われてきました。
そのたび、「おはなし」は姿を変えて新しい世代に語られてきたのです。
口伝で、書で、漫画で、アニメで……そして今、あなたが主人公となって、再び語られる時が来たのです。
「概念的っていうか、ややこしい設定だな」
複雑化した社会を反映しているのです。
「……なんか、都合のいいことばっかり言って、隠してる裏があるような気がする」
何を申しますか。私は公明正大な語り部ですよ。
「でも、俺を転生させる力があるんだろ? その力で何とかできないの?」
できません。新しいお話を紡げるのは、新しい主人公だけ。私は、その物語を語るための力しか持っていません。
「転生も、必要な手段だったって?」
そうです。マーケティングリサーチに基づき、あなたの魂を現実から連れてくることで、よりカスタマーへリーチしやすいコンテンツとして……
「こっちは友だちが死んでるんだ。このシロの命も、おはなしだから仕方ないっていうのか?」
いいえ。どんな世界であろうと、命は命。
あなたが生きているその世界でも、失われた命は決して戻りません。
「……やっぱり、そうか」
ただし、物語には命について語る力があります。
シロの命が松に、臼と杵に、そして枯れ木に花を咲かせる灰になるのは、ひとつの命の尊さを読者に教えるため。しかし……
「しかし?」
あの枯という鬼は、それすら奪おうとするでしょう。
「やっぱり、あれが鬼……だったのか?」
そうです。鬼は人間や動物に化けることができます。おおかた、この村の周囲にある悪党どもの根城に入り込んだのでしょう。
「奪おうとするって、どういう意味だ?」
この物語から教訓や、意義を奪うのがやつらの目的です。
よい行いにはよいことが、悪い行いには悪いことがかえってくる、という、「はなさかじいさん」の教えを無に帰すため、シロが残した宝を奪おうとしているのです。
「……そうか」
それを防ぎ、読者に正しい教訓を伝えるのがあなたの役目です。
檎太郎、わかりましたね?
「あんたの言うことを全部信じてるわけじゃないけど、シロの命をムダにするのは、いやだ」
……今はそれでいいでしょう。
「でも、どうやって? あんなやつを倒すなんて、こんな子供の体じゃ……っていうか、大人だって無理だ」
あなたには力が備わっています。自分でも気づいていない、ふしぎな力が。
「あんたが与えた力だろ!?」
語り部として、ネタバレだけはできないのです。
「だからって……」
あなたが一晩中泣いていたから、もうすぐ朝になります。おはなしのつづきが、あなたを待っていますよ。
「待て、もうちょっと……!」
🍎
手を伸ばした俺の手の先で、位置を低くした月が白む空に溶け込みそうになっていた。
遠くの山々の間から、薄紫の空が徐々に赤く、そして白くなっていく。
夜明け。俺の膝の上には、まだシロの頭が乗っていた。
俺の力ではシロを運べなかったけど、畑の一角でうなだれている俺をおじいさんが見つけてくれた。きっと、俺とシロがいなかったから探しに来てくれたんだろう。
おじいさんは、「今までありがとうな」とだけ言って、シロを自分の家のそばに埋めた。
シロと一緒に暮らしていたふじさんやあかねちゃんも、隣のおばあさんも、涙を流しながら手を合わせてくれた。
それから、村の人たちがやってきて、みんながシロのことを悼んでくれた。何年もずっと、この村の畑を守り続けてくれていたんだ。俺がこの世界に来る前から、この世界にはみんなが生きてたんだって、そう思った。
昼ごろには、シロが埋められていた場所から、小さな芽が顔を出していた。
俺が眺めているうちに、その芽はぐんぐんと伸びて、大きな木になった。
「はなさかじいさん」のおはなしのとおりだ。でも、松の木じゃなかった。固い樹皮を撫でると、なんとなく、それがりんごの木だとわかった。
(シロが俺のりんごを食べたから……)
きっと、そうだ。
鬼だけじゃない。俺だって、元の話にはいないんだ。
だったら俺の力で、結末を作ることができるはずだ。
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