『同じ空の下』

 通知音が、ほとんどひとけのなくなったホールに響きわたって、ほとんど閉じかけていた私の瞼を再び開かせる。

 柱にかけてある時計を見れば、最後に確認したときからなんだかんだ三十分ほどが経過していて、しかしその三十分というのがまた、程よく私に待つ時間というのを提供してくるのだ。


 結局、まだまだこの眠い時間が続くらしい、とわかって、私はため息をつく。

 耳に入れっぱなしだったイヤホンからは、ボリュームを絞ってシャッフル再生にしておいた音楽がまだ途切れずに続いている。しばしそれに身を預けようとして――ふと聞こえてきた歌詞にふと、動きを止める。


『同じ空の下』


 つい、手が携帯の画面に伸びる。

 再生を止めて、私はため息をついた。


 好きなアーティストの、有名な曲。

 今までだったらすっと耳に入ってきていたはずだったのに、今日に限ってどうにも耳を傾ける気にならないのは、多分私の『空』が広がったせいだろう。




 『離れていても、同じ空の下にいる』

 歌謡曲において、そんな歌詞は、使い古されたとは言わなくても、それなりに多く聞くものだと思う。


 実際のところ、出会いと別れ、というのは、生きていれば何度も経験することだ。

 進学するに伴って、だとか、引っ越しをする時になって、だとか。かくいう私だって、残念ながらそれなりに歳を重ねてしまっているわけで、ともすればそれなりに出会いも別れも経験してきている。


 遠く離れた場所にいる、ほとんど会うこともできない誰かとだって、見上げている空は同じなのだ、という言葉に、私は幾度となく励まされてきたのだ。それはきっと、他の人だって同じだと思う。


 けれども、私はつい最近まで、そんな『空』の本当の広さを知らなかったのだ。


 なんてことはない片田舎で生まれてこの年までずっと同じ場所で育ってきた私にとっては、離別なんてそう大した規模なんかじゃなかった。

 とりわけ小学校や中学校の頃はそうだ。『親の都合で海外へ』とか、『受験で遠くへ』とか、そういった話なんてまるでなくて、引っ越しだとか通学区域の関係だとか言ってもせいぜい同じ市内。会えないと思っていた同じ空の下の住人は、自転車でちょっと頑張れば会いに行けるような場所に住んでいた。

 高校くらいになるとそれも少しは変わったのだけれど、それだって電車に少し揺られていれば何とかなる距離で、だから私は別れの時、躊躇なく「また会おうね」なんて声をかけることができた。


 その時の私は、それがやがて願望を込めた「きっと会おうね」という言葉に変わることなんて、考えてもいなかったのだと思う。




 もう一度、大きくため息をつく。

 結局、私たちは大人にならずにはいられないのだろう、なんて思う。


 『同じ空の下』という言葉は私の中ではすっかり、「会おうと思えば会えるのだから」という意味から、「会おうと思っても会えないけれど」という意味に変わってしまっていて。

 実際、私の通っていた高校は、田舎の自称進学校だけあって偏差値の振れ幅がひどく大きかった。

 可もなく不可もなく、という成績で結局地元に残ることになった私と同じような感じになっている人だって少なくはなかったのだけれど、それよりも多くの友達が、色々な理由でここを去ってしまった。


 勿論連絡先は知っているし、今だってメッセージを一つ飛ばせばきっと、同じ校舎で雑談していたあの頃と同じような会話をすることができると思う。


 けれど——みんなに会うには、余りにも私たちは遠くに散らばってしまって。

 多分、この中のほとんどの人とは、下手をすれば二度と会うことはないのだろうな、と、卒業式のときにふと思ってしまったことを覚えている。


 そんな風に自覚してしまったときに、私の『空』の範囲はどんどん広がって、気付けば日本全部を覆ってしまった。


 それですら広いのに。


 私は、その『空』をさらに広げてしまったアイツのことを思い出す。


 大学に入って、いろんなところからやってきた知らない人に囲まれて委縮していた私の心にいつの間にか入り込んで、気づけば傍にいるのが当たり前になりかけていたアイツは、突然海外に行くと言って、本当にいってしまった。


 突然一人にされた私は心細くて、けれど会いたいと思っても、往復の交通費だけで五桁の数字が立ちふさがる。

 ただの学生にそれは余りにも重くて。他にも宿泊費だとか言語だとか、考えなきゃいけないことはいっぱいあって、その上そこまでして会いに行っても、ちゃんとビザを取っているアイツと違って、私は数日たてば帰ってこなければならないのだ。

 その事実は私から会いに行こうという気力を奪ってしまって——結局私は、『同じ空の下にいる』という言葉に縋るしかなくて。

 私の中でこの言葉が憂鬱な気分を想起させるものになったのも、だからきっとアイツのせいで。




 いい加減幸せをすべて逃してしまうのではないか、という三度目のため息をつこうとしたとき、不意に階段の方から足音が聞こえてきた。


 その音に顔を上げると——その先で、アイツが驚いた顔で固まっていた。


「……なんで居んの?」


 その記憶通りの声に——私は緩みそうになる表情を引き締め、わざとむくれた顔を作る。


「なんで、ってなにさ。……そっちこそ、今日こっちくるんなら教えてよ」


 そんな風に言えば、アイツは頭の後を掻いて。


「いや、だって報告出しに来るだけだし……会うためだけに呼びつけるのも悪いだろ」


 その言葉に、今度は本気で文句の一つも言おうかと思ってしまったけれど――しかし、『会いたかった』なんて素直に言ってやるのも、それはそれで癪だった。

 だから、私は代わりに。


「……それで。久々に帰ってきて、友達に対して何か言うことはないわけ?」


 そう言うと、アイツはあぁ、と納得の声を漏らして。


「……ただいま」

「よし、合格」


 そんなことを言いながらも、私は今度こそもう笑みを抑えられなくなってしまう。


「……なんだよそれ」

「ふふ、ごめんごめん。……おかえり」


 そう告げた瞬間に、またいつもの日々が戻ってきたのだ、という実感が湧いてきて。


「ねぇ、このあと時間ある?せっかくだし、留学の土産話とか聞かせてよ」

「え、散々メッセで聞いてるじゃん」

「いいじゃん。直接聞くとまた違うでしょ」

「……まぁ、いいけどさ」


 きっと最後にはそう言ってくれるだろう、と思っていても、やっぱり実際に聞くと嬉しくなってしまって、だから私は笑みを深めてしまう。


「……で、どこから話せばいい?」

「えっと、じゃぁ最初は――」


 少し前まで『同じ空の下』にいたアイツが、今は同じ天井の下にいて、同じ場所に座って、言葉を交わしあっている。

 それが心地よくて——私は、これから、少なくとも暫くの間、こんな日々が続いていくことの喜びを噛みしめていた。



                  /



『少し前まで同じ空の下にいたあなたが今は同じ天井の下にいる。それはただ上にあるものの大きさが変わっただけに過ぎないのに。それが今のわたしにはたまらなく嬉しいことだった』




 

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