深雪の国のアリス

 その日。いつも通り、少し遅めの時間に目覚めた私は、まず最初に、カーテンの隙間から、この季節にしてはやたらと明るい光が差し込んでいることに気付いた。

 その瞬間、普段のお寝坊さんな私は引っ込んでしまって、代わりに焦りの感情が顔を出す。

 慌ててカーテンを勢いよく押し開いて、結露した窓を開けると、冷たい空気が肌を刺した。

 その瞬間、まるで私が違う世界に迷い込んでしまったかのような感覚がした。


 そこからの私の行動は早かった。

 普段は母が起こしに来るまでそもそも起き上がりすらしないところを、着替えまで済ませて階段を駆け下りる。


「あら、今日は早いのね、おはよう」


 母のそんな一言に対して「おはよ」とだけ返し、私はトーストが焼きあがるのを今か今かと待つ。

 そのうちに父も居間へと降りてくる。私と同じで(というか私の方は多分彼からの遺伝なのだろうけど)低血圧な彼は、目を擦りながら、「あれ、もう起きてるのか」と、母と同じようなことを言う。心外だ。私だって早く起きるときもある。


 いつもとは違う理由で言葉少なな朝食を終えた後も、私は休むことなくどたばたと支度を続ける。

 防寒具の準備。忘れ物がないかの確認。そして、流石に急いでいても女を捨てるわけにはいかないので、ちょっとしたメイク。

 そうした一通りのことが終わって家を出よう――と思った矢先に、寝癖を見つけて慌てて鏡の前へと戻る。危うく友達間で笑いものになるところだった。

 ちゃんと飛び出た部分を直して、よし、と呟く。

 そして、「いってきまーす」の声とともに、私は家を飛び出した。




 昨日までは真っ黒だったはずのアスファルトの路面が、今日は真っ白に染まってしまっていた。

 それだけじゃない。昨日までは退屈に街を彩っていた色んなものが、今は色を奪われてしまっていて、見渡す限りではただ私だけが一人、色をもって動いていた。

 急がなきゃ、と、そう思った私の足は、しかしいとも簡単に取られてしまう。

 まだあんまり人が通っていない道を走って抜けるのはとても難しそうで、だから私は焦る心を押さえつけて、一歩一歩足元を確かめながら目的地を目指す。




 待ち合わせの大時計の下にたどり着いたときには、私渾身のセンサーで選んだ冬靴もかなり濡れてしまっていた。

 やっぱり母の言うとおり、オシャレよりも防水性を意識しなきゃダメだったらしい。

 けれど、しょうがないじゃないか、とか思ってみる。やっぱり何だって、それが好きかそうじゃないか、ってことはものすごく大事なのだ。


 まだまだ、待っている人は訪れそうにない。私は、口のあたりまでを覆っていたマフラーを少し下げて、白い息を吐いた。

 この場所を待ち合わせに設定したのは、私が今絶賛待っている途中の彼だった。


「お前のせいでいっつも遅刻しそうになるんだから、これくらいの皮肉があっても赦されるだろ?」


 と、そんな風には言っていたけれど、そんな言葉とは裏腹に、その表情がなんだか妙に楽しげだった。彼が、そういった冗談や言葉遊びの類をやたらと好む節がある、と知ったのは、それから少し後のことだった。

 確かに、毎度毎度寝坊なり二度寝をかましては待ち合わせに遅れてくる私への皮肉として、大時計を選ぶ、というのは、なかなか的を射ていて。

 それは実際に私も、毎朝ここで時計の針を見ては、ちょっとばかりの罪悪感に駆られてしまっていて、まったくもってどうしようもないほどに思い通りにされているな、と思ったものなのだけれど。

 しかし、だったら私が、その時計の下で彼を待っている、というのも、彼にとっては一つの皮肉になったりするのかな、と思った。


「——あれ」


 そんな声がして。

 ふと気づくと、目の前に彼が居た。


「おはよ」


 コートのポケットに突っ込んでいた片手を出して挨拶をすると、彼は同じように片手をあげて返してくれる。

 それから。


「……珍しいな、俺より先に来て待ってるなんて」


 と、言った。

 まったく、誰も彼も同じようなことを。そんなに私が早起きするのが珍しいのか。自覚はあるよ。


「私だって、やるときはやるんです」

「そうか。……じゃぁ、いつもももう少し早く出てきてくれると助かるんだけどな」

「……善処します」


 私が小声でそう言うと、彼は心底楽しそうに笑った。

 まったく。私にとって早起きって言うのは本当に大変なことなのだから、みんなもそれをもう少し理解してほしいものだ、と思う。

 もっとも、私の場合は、多少遅れたとしても、彼なら私のことを待っていてくれる、という、その事実に甘えている面もあるのだけれど。


「……さて、それじゃ、行くか」


 その言葉に頷いて、私は彼の隣に並んで、歩き出す。

 それから、ぐっ、と、彼のコートの裾を引っ張る。


「……ん」


 それに気付くと、彼は、片方の手にはめた手袋を外して、手を差し出してくる。

 私も、その反対の手にはめた手袋を外して、それからちょっと乱暴に、彼の手を取った。

 そしてその瞬間、私の心の中に目覚めたときからあった焦燥感が、ふっと融けて消えていくのを感じた。


「……なんか、今日は妙にグイグイ来るな。なにかあった?」

「ううん、何も」


 その言葉に、彼は、そうか、と言って、不意に空を見上げる。

 それから。


「……そういえば、一年くらい前も、早く来てた時があったよな。……あの日も雪だったような気がするけど、雪の日だと早く起きれる、とか、何かあるの?」

「別に」


 今度の返事は嘘だ。数年前、私がこっちに引っ越してきて初めてこの景色を見て以来、ずっとこんな日には思ってしまうことがあるのだけれど、しかしそんなこと、恥ずかしくって言えやしない。

 まるで違う世界に迷い込んでしまったみたいで不安だ、なんて。


 私は、確かめるようにもう一度、彼の手を握り締める。

 彼は私のその様子を少し訝しんだようだったけれど、結局それ以上は何も聞かずにいてくれた。




 だから私は、心の中でそっと思う。


 多分、君は知らなくて、あるいはたとえ言ってもわかりはしないのだろう。

 こんな風に、何もかもが雪に閉ざされてしまった白い世界の中で、いつもと変わらないあなたが手を握ってくれることが、私にとってどんなに嬉しいことなのか、ということを。



                  /



『雪が高く積もると、まるでちがう世界に迷い込んでしまったようで。だから私は不安になって、いつもよりずっと早く家を出る。いつもと変わらないあなたに、一秒でも早くこの手を握って欲しくて』







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