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バスカヴィル家の犬事件。
ホームズの長編における人気作の一つで、ダートムーアの資産家を舞台に起こる殺人事件の物語である。
なぜ私がそのことを思い出していたかというと、「まるでバスカヴィル家の犬事件だ」と枢野先生が呟いたことが理由だった。舞台がダートムーアで、しかも事件現場に巨大な犬の足跡となると、その物語を連想するのも無理はない。
ホームズさん(依頼人の女性刑事の方)から話を聞いた私たちは、どういうわけか――と、言うより、枢野先生のわがままで、事件現場へ向かうべく、ダートムーア往きの列車に乗っていた。
「まったく……編集長を説得するのは大変なんだから」
「すみません、無理に付き合わせてしまって」
「取材ってことにしたから、良いけど……でも、どうして急に現場を見に行こうだなんて言い出したのよ」
彼は対面の席で足を組みながら、
「こうしてロンドンに住んでいる身としては、ダートムーアには一度行っておきたかったんですよ。ホームズファンからしたら、何て言っても聖地みたいなものですから」
「ホームズオタクめ」
「まあ、僕の友人の希望なんですけどね」
「……その友人、一度会わせてもらいたいわ」
会って一言文句を言ってやる。
枢野先生はその友人のことになると強引になるんだから……それ以外はコントロールしやすい、とても良い作家さんなのに。
それにしても、
「事件現場に行くくらいなんだから、ある程度の推測はあるんでしょうね」
「そうですねぇ」
のんびりとした口調と共に、彼の視線が窓の外に向けられる。窓の外には話通り荒涼とした大地が延々広がるばかりで、見ていてちっとも面白くない。
「まあ、行ってから考えるってことで」
「今日、ディナーをご馳走してくれるんじゃなかったのかしら」
「向こうでご馳走しますよ。田舎町とは言え観光地です。流石に宿の一つはあるでしょうから」
「なかったら?」
「野宿ですね」
「は?」
「野宿です」
……野宿? 三十手前にもなって?
「冗談じゃないわよ! 私帰る!」
「まあまあ。ほら、例の巨大な魔犬にも会えるかもしれませんよ?」
「車掌さん! 今すぐこの列車止めて! と言うかこの暴君作家を止めて!」
うがあっと頭を抱える
「大体、魔犬だか何だか知らないけど、そんなの本当にいると思ってんの?」
「波戸さんはどう思いますか?」
そんなこと私に聞かれても……私は動物の専門家でもなければ彼のように推理のスペシャリストというわけでもない。
私は数秒考えた後、一つの仮説を立てた。
「そんなに大きな犬がいるわけない。だからあの足跡はきっと、熊か何かのものなのよ!」
「なるほど、実に想像力豊かな仮説ですね」
「……馬鹿にしてる?」
「まさか」
彼はそう答えると肩を竦ませて、笑ってみせた。
このガキ、絶対私のことを馬鹿にしてるだろ……!
私は一つ咳払いを挟んで聞き返す。
「それじゃあ、先生はどう考えているのよ」
「僕ですか? そうですねぇ……やっぱり犬がいたんじゃないでしょうか」
「犬って……人間の二倍以上の大きさの足を持っている犬なんているわけないじゃない」
「ええ、いないでしょうね」
「はあ?」
言っていることがめちゃくちゃだ。
「現実には、ね。でも誰かの頭の中にはいるんですよ」
「誰かって……?」
今度は先生が咳払いをした。
「それが
「どういうこと?」
「よくある都市伝説と同じですよ。その怪物を見て戻った者はいない――では、どうしてその怪物の存在を知ることができたのか」
「デタラメでないとすれば……痕跡から推測した?」
「今回の場合はね」
確かに、ホームズさんの話にあった巨大な犬は、誰かが実際に見たわけじゃあない。足跡という“痕跡”からその存在を推測したにすぎない。獣害事件と銘打ってはいるけれど、実際のところはこれは“失踪事件”ではないか。
「でも、事件現場と思われる車の付近には、巨大な犬の足跡があった。ということは、何者かが“魔犬”の存在を推測させたいと思っているということです」
「何者かって……?」
先生はニヤリと笑って言う。
「それを、これから調べに行くんですよ」
「先生、楽しそうね」
「そうですか?」
「ええ、とっても。そんなに
私が言うと、先生は一瞬だけきょとんと目を丸くした。
何せ今の先生の格好はというと――
「まあ、ロンドン市内で調査するわけじゃないですからね」
「今度こそ、鹿討帽が必要になったのね」
鹿討帽にインバネスコート。
つまり、シャーロック・ホームズそのものだった。
ダートムーアに到着した私たちであったが、取りあえずホテルはあるようで安心した。
しかしその安心も束の間、ある一本の電話が、事態の急展開を招いたのだった。その電話はロンドンに残ったホームズさんからのもので、
『枢野先生、大変です! 被害者の一人――フレデリックが発見されました!』
という消えたアンダーソン家の長男の発見を知らせるものだったのだが、ここで先生の顔色が急変した。
電話を切った先生に、私は尋ねる。
「どうかしたの、そんな深刻そうな顔をして。見つかったんなら良かったじゃない」
「いえ、見つかったことで、より事態は悪化したかもしれませんよ」
「はあ? なんで」
「……」
先生は答えない。ただ固く瞼を閉じ、考えに耽っている。そして所々で「そんな……まさか……」と呟きを漏らした。いつになく真剣そのもののその表情に、私はやはり嫌な予感を感じられずにはいられない。
「先生! 一体どういうこと!」
「いや……ちょっと待って下さい」
「ちゃんと説明してよ! フレデリック・アンダーソンが生きていたら、どうしてマズイことになるのよ!」
先生はゆっくりと瞼を開け、
「波戸さん」
と、これまたいつにない重々しい口調で私の名前を呼んだ。
「この世には何の感情もなく罪を犯せる人がいる。人を殺せる人がいる。もし僕がそう言ったとして、貴女はその言葉を信じられますか」
彼はそう言って、じっとこちらを見つめた。私の瞳の中に沈む真実の心さえ見抜かんばかりの眼光だった。もしかしたら彼自身、過去にそういった人に出会ったことがあるのかもしれない。
この質問にだけはいつものように茶化したり誤魔化したりせずに、きちんと答えなくてはならない。どういうわけか、私は確かにそう思った。
私は、さっきまでこの青年がそうしていたように瞼を閉じる。
私は彼ほど頭がキレるわけではない。犯罪行為に関して何の専門的知識も持ち合わせない。私はただのしがない編集者だ。それは私以上に、この枢野猫という作家は理解しているはず……では、どうして彼は「何の感情もなく人を殺せる人」なんていうまるで生粋の犯罪者のことを私に尋ねてくるのだろう。
そんなの、簡単なことじゃないか。
彼は私に例えば探偵や刑事のような意見を求めているのではなく――名探偵に対するワトソンのような、あるいは小説家に対する編集者のような意見を求めているのだ。
私は目を開く。
視線の先では、枢野先生が先程と全く変わらぬ目をただ真っ直ぐに私に向けたままだった。
「私は、先生ほど犯罪に詳しいわけでも、推理ができるわけでもないけど、でも、枢野猫が天才推理作家だということは知っているわ。おそらく相当な訓練をしてきたのだろうけど、それでも先生はなるべくして作家になったんだと思う。推理作家になるべくしてなる人がいるなら、何の感情もなしに犯罪者になる人だって、いるんじゃないかしら」
普通に暮らしていて、そんな人に会うことはまずない。けれど彼ならば、そんな人間を見たことがあるのかもしれない。信じたくなくとも、頭でどれだけ頑なに存在を否定していたとしても、生きていれば理不尽な目に遭うことは誰にだってあることだ。どれだけ夢や希望を語っても、病気や戦争はなくならない――犯罪も。
先生はさらに数秒――あるいは数分思考すると、まるで観念したかのようにふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「やはり波戸さんは、優秀な編集さんですね」
「どうしたのよ、珍しく褒めたりして」
「いえ……やはり僕はどうやっても過去を振り切れないでいるようです」
「別に良いんじゃない? 人生は長いんだから、黒歴史の一つや二つくらい、誰にだってあるわよ」
「……なるほど、そういう考えもあるのか」
先生はその鹿討帽を外し、胸の前に置く。
「僕の友人なら、きっとこう言うでしょう。『歴史こそ人類の最大の遺産だよ。ほら、慣用句でも言うだろう? 賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶって。人は歴史を紡ぐために生きていると言っても過言ではない』って」
「だとしたらそのお友達は大馬鹿ね。社会に出たことのない世間知らずのボンボンだわ。過去に噛り付いていたって、人生生きていけないのよ。歴史学者にでもならない限りね。古典ばかり読んでたって、パソコンの一つもできやしないわ。パソコンは大事よ? どんな仕事でも使う機会があるし、編集者には少ないけれど、それができなくてリタイアしていった優秀な人生の先輩を何人も見たわ」
「貴女はとても前向きですね」
「先生が後ろ向きすぎるだけよ」
そんなやり取りをして、私たちは笑い合った。何だか殺人事件があったなんて嘘みたいで、つい数年前に出会って一緒にいる時間を合計したら一カ月にも満たないんじゃないかっていう私たちだけれど、その時だけはもう何年も付き添った幼馴染のような、そんな不思議な感覚になった。
一通り笑った先生は、歩き出す。
「先生、どこに?」
「当然、事件現場に」
「でも、大体の真相は分かったんじゃないの?」
「何事も証拠が大切なんですよ……ああ、そうだ!」
先生は何かを思い出したのか、ピタリと止まって私の方を振り返る。
「波戸さんに一つ頼みたいことがあります」
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