発見されたフレデリック・アンダーソンはかなり衰弱しており、取り急ぎロンドンの病院ではなくダートムーアの病院に搬送されることになった。

 知らせを受けた枢野先生の頼みにより私が彼の病室に赴くと、丁度ホームズさんも到着したところで、彼女は自己紹介をするとついでに私や枢野先生のことも説明してくれた。そして無人の車が発見されたことや現場に巨大な犬の足跡が残されていたこと、それから獣害事件として調査がされていることも。


「そうだったんですか。まさか、そんな大事になっているとは……」


 髭を生やし、すっかりやせ細ってはいるけれど、しかし好青年の面影は残っている彼はベッドの上でそう呟き、視線を落とした。そんな彼に、ホームズさんが尋ねた。


「気を落とされているところ申し訳ありませんが、あの日、一体何があったのでしょう?」

「それは……」


 フレデリックの表情がどんどん変わっていく。青く……いや、黒くなっていく。額には汗の雫がいくつも浮かび、彼の肩は小刻みに震えていた。よほど恐ろしいものを見たのだろう。

 彼は一分ほどそうしていたかと思うと、自身を落ち着けるように深く息を吸い、そして約一カ月前にあったことを話し始めた。


「あの日……僕たちは父の提案でキャンプに出掛けたんだ。キャンプ場の近くに小さな滝があるだろう? あそこは僕たち家族の思い出の場所なんだよ」

「ええ、存じています。失礼ながらご自宅を調べさせて頂きましたから」

「そうか……写真が飾ってあっただろう?」

「はい。十年くらい前のものでしょうか?」

「ああ……まだ家族が上手くいっていた時のだ。けど最近は……だからあの場所で、昔のことを思い出そうとしていたんだ。だけど……」


 フレデリックの口がパクパクと動く。きっと彼なりに言葉を探しているのだ。


「だけど、あの日……まさか、あんなことになるなんて……」


 そしてとうとう彼は頭を抱えてしまった。僅かだが嗚咽も混ざっているように聞こえる。


「フレデリックさん、落ち着いて話をしてください。あの日、あなたは何を見たの?」


 ホームズさんの励ましにフレデリックは何度も小刻みに頷き、そして再度深呼吸をして続けた。


「あの日……途中で僕たちの乗っていた車がパンクしたんだよ。それで、父が車を降りてタイヤを見ていたら」


 不意に彼が顔を上げる。しかし彼の視線は定まっていない……きっとあの日の記憶を見ているのだろう。


「『父さん、大丈夫?』って窓を開けて聞いてみたんだ。だけど、父は返事をしなかった。そして、僕は、を……見た」

とは?」

「分からない! 分からないんだ! あれが何だったのか!」


 突然上げられた大声に私とホームズさんは一瞬驚いたのは言うまでもない。

 ホームズさんが問いかける。


「あなたが見たのは、もしかして、“犬”だったのでは?」

「“犬”……? ああ、そうだ、犬だ。けど、でも、あんな犬いるわけないじゃないか!」


 現場に残った巨大な足跡……やはり何かとんでもない化物が闊歩しているのかもしれない。いや、しかし、いくらここ――ダートムーアが田舎だからって、そんな……。

 私とホームズさんが顔を見合わせる。しかし彼女にもやはりまだ状況が飲み込めているわけでもないようで、困惑を隠せないようだった。


「フレデリックさん。あなたが見たという“犬”――その生物は、一体どんな見た目でしたか?」

「見た目って言われても……」

「大きさや、色、何でも良いんです」


 そう言われてフレデリックは再度記憶を辿るように視線の焦点を失った。そして、答える。


「色は、黒でした。短い体毛で、シェパードのようでした。大きさは……トラやライオンの比じゃありませんよ!」

「なるほど」


 相槌を打ちながらホームズさんはメモ帳にペンを走らせる。それは私も同じであり、後で枢野先生に報告しなくてはならない。


「それから、どうなりましたか?」

「それから……父が首元から血を流して倒れているのを見つけました。あの犬がやったんだと、僕はすぐに直感しましたよ。僕はパニックになりました……ですが、そこで弟のジェフが、ダッシュボードに拳銃をしまっていたのを思い出したんです。アイツはそれを取り出して、車の外に飛び出ました」

「なるほど、弟さんが……それから?」

「何発か銃声が鳴って……アイツとあの犬が戦っているのだろうと思いました。けれど、銃声はすぐに止んで……弟の悲鳴が」


 私は息を呑んだ。

 銃を持つ人間を相手にして、それでいて勝ってしまう動物。そんな存在は映画の中にしか存在しないのだと、そう思っていたから。


「それからは、もう、どうしようもありませんでした。冷静な判断なんてとても……とにかく僕たちは銃を取り戻さなくてはならないと思い、一斉に車の外に出ました。でも……それが良くなかった。僕たちは次々に犬に襲われて……僕は恐怖で気絶してしまいました」

「それから一カ月の間、あなたはどこに?」

「次に僕が目を覚ましたのは、どこか分からない洞窟のようなところでした。僕は、首から下がすっかり地面に埋められていました。僕は犬が――これは一般的な犬の場合ですが、犬が食べ物を隠す時に地面に埋めるのだと知っていたから、きっと僕はあの巨大な犬の餌として捕らえられたのだと。そして、家族も……」

「あの、大変聞きにくいことなのですが、ご家族は?」


 ホームズさんのその問いかけに、彼はただ無言で首を振るだけだった。その否定の意味は「何も見ていない」なのか、あるいは「もう死んでいた」なのか。いや、どちらにしても同じことか。フレデリックは相当なショックを受けているようだったし、私はそれを言及するのをやめた。


「僕は何とか穴から抜け出し、洞窟を出てからは荒野を彷徨うことになりました。そこがどこかも分からず……しかし、まさか一カ月も経過しているとは思いませんでしたが」

「心中お察しします。ですが、一カ月もの間、どのようにして生き延びていたのでしょう。食事などは?」

「地面に生えている植物と雨水で何とか……でも、あの狂犬がいつ襲い掛かってくるのか気が気じゃくて、食事どころじゃありませんでしたよ」


 そこまで聞くとホームズさんは私に視線を向けた。どうやら私からの質問はないか? という意図らしかったが、私が先生から訊いてくるようにと言われた内容はこれまでのフレデリックの話で一通りされてしまった。私は特にない、と首を横に振ってみせる。


「ありがとうございました、フレデリックさん。私たちはこれで失礼しますが、何か他に思い出したことなどあればいつでもご連絡下さい」


 ホームズさんはメモ帳を閉じながらそう言った。私からもお礼を伝える。そして一礼して病室を出ていく彼女の後を、私も追うことにした。




「先程の話をどう思いますか?」


 病室を出た私たちであったが、廊下を進みながらホームズさんがそう尋ねてきた。何やら難しい顔をしている。


「どう、と言うと?」

「彼が嘘を言っているように見えたか、ということです」

「ああ」


 うーん。

 とは言え、特に気になったことはなかったし。


「ホームズさんは彼の話を嘘だと?」

「いいえ! 何せ大型の犬があの家族を襲ったという推測には、私も率先して同意していたくらいですから……でも」

「そんな犬が本当に存在しているのかってことですよね」


 コクリ、と彼女が頷く。

 黒い体毛ということだったから、ライオンやトラではないだろう。黒ヒョウなんて可能性はまだ残るけれど、しかしそんなことを言い出してはキリがないし、何よりイギリスにヒョウが生息している話なんて聞いたこともない。


「ええ、私もです。もしかしたら熊なんじゃないか、くらいは考えていましたけれど、でもあんなにはっきり“犬”と言われると……」

「“犬”と“熊”じゃあ、流石に間違いませんよねぇ」


 じゃあ、仮に犯人が犬だとして、


「その場合は警察はどう動くんです?」

「そうですね、取りあえず狩猟を専門としている方々に連絡して駆除を依頼することになると思います。その際の応援や、これまでの経緯を伝えたり、あるいは現場周辺の聞き込みをしたりというのは、私たちが担当するかもしれません」

「裁判になったらどうなるんですかねぇ」

「裁判は……成立しないでしょうね。何せ犯人は“犬”なんですから」


 と、なるとあのフレデリックが嘘を言っている可能性も出てくるというわけだ。

 自分で家族を皆殺しにして、その罪を架空の犬に擦り付けるというのは、大いにあり得る。しかしその場合、動機はどうなるのだろう? 彼はアンダーソン一家で唯一と言って良いほど問題のない人物だ。そんな彼が家族を殺すことがあるだろうか。

 それに、もし彼が犯人だったとしても、一カ月も身を隠す理由は?

 あの様子だと本当に空腹で死にかけたに違いない。そこまでのリスクを、彼が負うだろうか。犬に罪を擦り付けるのなら、もっと早く姿を現しても良い気がする。


「こっそり家に帰っていたりしませんかね」

「いえ、それはないかと。彼の家にはいつ誰が帰ってきても良いように親戚が待機していたんです。それに、警察の方からも定期的に連絡もしていましたし」

「じゃあ、こっそりコンビニに行っていたとか?」

「コンビニなんてそんなにそこら辺にあるものじゃないです」


 そうだった……ロンドン市内でもそんなに多くないんだった、コンビニ。日本に住んでいるとそういった感覚は薄れてしまうけれど、枢野先生曰く、ああも頻繁にコンビニのある国の方が少ない、というか日本以外に存在しない、らしい。コンビニでなくとも、この辺りの――ダートムーアの実に自然溢れる景色を見る限り、店という店も少なそうだ。


「犬の話だけが嘘で、一カ月間放浪していたというのは本当なのかもしれません。それなら辻褄が合いますし」

「そんな無茶な。彼は餓死しかけているんですよ?」

「そこは、ほら、気合で」


 根性論かよ……。


「まあ、仮に気合で何とかなるとしても、証拠がないことには何ともなりません。彼が家族を殺害したという証拠が」

「証拠……あ、そう言えば」

「どうかしましたか?」

「先生が言っていたんです、証拠を探しに行くって」

「ああ、だからハトさんが一人でいらしたんですね。それで、先生から何か連絡はありましたか?」

「ええと」


 私は携帯電話を取り出す。見るとメールが一件届いていた。言うまでもなく、差出人は枢野先生で、件名は「準備が整いました」で、内容は「証拠品を持ってこれからそちらに向かいます。到着予定は午後の六時くらいですのでホームズさんも交えて夕食を済ませた後、仕事に取り掛かりましょう。彼女にもそうお伝えください」というものだった。

 どうやらディナーの約束は覚えてくれていたようだ。私はメールの内容をホームズさんに伝えた。


「ええ!? 本当ですか! 証拠って……やはりフレデリックさんが犯人なのでしょうか」

「さあ……でも先生がああ言っている以上、今晩中には何らかの解決が見られると思いますよ」


 現在の時刻は午後五時。私たちは名探偵の帰還を待つことにした。

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