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枢野猫の仕事部屋はいつ来ても散らかっている。
床という床、あるいは暖炉の前に置かれたテーブルの上にも本棚から溢れた大量の本が埃を被っている。その本の半分は彼が日本から運び込んだもので、もう半分はロンドンに来てから買ったものだった。マロニー夫人が定期的に掃除をしてくれているし、何より彼自身、そこまでズボラな性格でもないのに、どうしてそこまで汚れるのかには、どうやら理由があるらしかった。
「僕を最も成長させてくれた場所が、丁度こんな感じだったんです。だからまあ、初心忘れるべからずってことですね」
と、彼は窓際に置かれた安楽椅子の上で答える。
私は溜め息をつきながらもまた彼の部屋を見渡した。
八畳ほどの広さで、入って右手には本棚があり、逆側には今は使われていない暖炉がある。入り口正面には窓と、彼の作業用のパソコンが置かれた机と椅子、そして部屋の中央――ちょうど暖炉の前には依頼人や来客の話を聞くためのテーブルとソファがある。
部屋の左手――丁度、暖炉の横には彼の寝室へと続く扉があるが、私はその扉より向こう側に行ったことはない。
私が中央のテーブルに目をやると、そこには散らばった用紙があった。私はその用紙を手に取り、まとめる。
「これが二次審査の結果?」
「ええ。メールで送ることもできましたけど」
「編集部の方針なんだから仕方ないでしょ」
「僕は構いませんけど、波戸さんが毎回大変なんじゃないかと」
まあ、否定はできない。
私は用紙に目を通しながら、彼に尋ねる。
「そう言えば、さっき下であの綺麗な女性と会いましたよ」
「ああ、彼女ですか」
「彼女って……“彼女”?」
彼は一瞬目を丸くしたかと思うと、笑いながら答える。
「いえいえ、あの人はただの友人ですよ。高校時代のね。まあ、大切な友人であることに変わりはありませんが……波戸さんが期待しているような関係じゃありませんよ」
「なあんだ……あ、チェック終了です。大丈夫よ」
「それは良かった」
答えながら、彼が立ちあがる。
「どこかに出かけるの? スーツまで着ちゃって」
「ちょっと
「警察? 何で? あ、先生、ついに何か犯罪行為を」
「していません。ちょっとした協力要請を受けまして」
「協力要請って、また何かおかしな事件?」
「さあ、どうでしょう。話を聞いてみないことには分かりませんけど、まあ、僕が呼ばれるってことは
「私もご一緒しても?」
「是非ともお願いしたいですね。何ならディナーも誘おうかと思っていましたよ」
まったく、調子の良い人だ。
「鹿討帽を被らないと、お友達が怒るんじゃない?」
「ロンドン市内でそんなものを被ったら顰蹙ものですよ。実際、ホームズも市内では被ったことありませんし」
「先生も大概ホームズオタクよね」
私は立ち上がり、部屋を出る彼の跡を追った。
そういうわけで庁内の雰囲気は大体把握してはいるものの、今日も今日とで大繁盛――もとい、忙しそうな空気であった。
そんな雰囲気に半ばうんざりしていた私だったが、どうやらその場に長居する必要はないようだった。
と言うのも、依頼人と思われる女性刑事がフロントで出迎えてくれたからだ。
そして彼女の提案で、私たちは近くのカフェに場所を移すことにした。
「シャーロット・ホームズです」
カフェに移るなり、女性刑事がそう言って右手を差し出した。
それに対して私は素で「は?」と返してしまった。
相手が自己紹介したのにその態度は失礼だと思ったけれど、そんな名前を聞かされてはきっと私と同じような反応をする人はいるだろう。だって、「シャーロット・ホームズ」だよ? まるでどこかの名探偵みたいじゃないか。
「両親が大のミステリー小説ファンで……まだしも女性名をつけて貰えて幸いでした」
と、女性刑事は恥ずかしそうに俯きながら答えた。
おそらくイギリス人であると思われる彼女――もとい、ホームズさんは見たところ二十代前半。枢野先生の少し上くらいだろう。それでもスーツは相当着慣れているようで、そこは西洋文化なのか、いや、彼女がいかに仕事に一生懸命打ち込んできたかの証明なのかもしれない。そしてその仕事に熱心な姿勢は、どこか私自身と重なるものを感じた。
そんな彼女の身長は、きっとこの国の平均よりかなり低く、彼女の頭のてっぺんは私の目線のあたりに来る。太いフレームの眼鏡と鼻の頭のそばかすが、彼女の純朴さを強調しており、おそらく学生時代は一人で本を読んでいることが多かったのではないか、と勝手な偏見を抱いてしまった。
「いえ、あの、仰る通りです。友達も少ない方でしたし……名前を名乗れば『ヘイ、名探偵、推理してみてくれよ』だとか『今日はワトソン博士はいないのかい?』だとか、からかわれてばかりでした。頑張って
そう言って彼女は小さく肩を落とす。あるいは今にも泣き出しそうだ。どうやら彼女は刑事という職種にしてはかなり気弱なようだった。
やはりその名前はコンプレックスなのか……。と、何だかこっちまで悲しくなっていると、枢野先生が口を開く。
「それで、お話しというのは」
「あ、はい」
ホームズさんが勢いよく顔を上げる。
「実は先生にお知恵を貸して頂きたいことがありまして」
言いながら、彼女はレディススーツの内ポケットから数枚の写真を取り出した。
枢野先生はテーブルの上に置かれたその写真に視線を落としながら、
「これは?」
と、聞き返す。
「とある事件の現場写真です」
私は先生が手に取った写真を、彼の横から覗き込んだ。
写真は全部で十枚ほどだ。事件現場と思われるどこかの山中の写真が四枚、そこに放置されたように見える車の写真が同じく四枚。そして、最も私たちの注意を引いたのが――
「これは……足跡のように見えますが」
先生の言葉にホームズさんが頷いてみせた。
先生と私の目に留まった写真は、ちょうど車のすぐ足元の地面を写したものだった。しかしながら当然、山道のただの地面を写したものではなく、そこには何か動物の足跡のようなものが写されていた。
「その足跡こそが、今回の事件の最大の謎なんです」
「詳しくお聞かせ願いますか」
やはり俯きがちに発せられたホームズさんの言葉に、先生はテーブルの上で両手の平を合わせながら聞き返した。
その事件があったのは6月5日のことだった。
舞台となるのはイギリス国内でも田舎中の田舎――ダートムーアという土地だ。
荒涼とした丘陵地帯に街や村が点在する、イギリス南西部に位置している土地である。
そこに住む大地主であるゲイリー・アンダーソン氏は、家族を引き連れてドライブに出発しようとしていた。
ここでその家族構成を紹介しておこう。
まず当主のゲイリー・アンダーソン氏。
彼は所有する広大な土地を担保に資金を借り、それを元手に株を売買することで利益を出していた。代々地主の家系で、彼でもう十四代目になるという。齢七十にも届こうかという高齢で、医者からは血圧を抑える薬を処方されていたらしい。家族仲は、あまり良好とは言えず、妻とは喧嘩ばかりしていたそうだ。
次にハンナ・アンダーソン婦人。
前述のゲイリー氏の妻で、今年で六十になるという。若い頃は大層美人だったそうだが四十を超えたあたりから整形手術にはまり、しかしそれが災いして今や実に不自然極まりないバランスの顔になってしまった。お世辞にも“美人”とは呼べない、そんな顔である。だから彼女は人前に出る時は帽子を深く被って表情を隠すことが多かったらしい。それでいて性格はヒステリックだったから、ゲイリーも含めてとてもではないが手に負えないといった感じだったそうだ。
そして、そんな夫婦には三人の子供がいた。
一人目は長男のフレデリック・アンダーソン氏。
普段はケンブリッジで主にヨーロッパの歴史を研究しており、事件があった日はたまたま実家に帰っていたらしい。長身で顔立ちも整っており、人柄も温和なことから誰からも好かれているそうだ。将来的には彼が家を継ぐことになるだろうということは、誰の目にも明らかだったと、近所の住人は噂している。
二人目の子供は長女のホリー・アンダーソン氏。
兄と同じくケンブリッジ大学に進学したものの中退し、実家で家事手伝いをしていた。母親とは正反対の性格で、実に控えめだったらしいが、音楽に関しては人並み外れた才覚があり、その一点だけはハンナに何を言われても決して譲らなかったという話だった。ちなみに兄弟仲は良好だったという。
そして最後の一人は次男のジェフリー・アンダーソン氏。
どうやら彼は一家の中でも相当異質な存在だったようだ。容姿端麗だった兄とは逆で顔立ちは悪く、内向的な性格から友人と呼べる存在もほとんどいなかったらしい。兄のように学があるわけでもなければ、姉のように何か一つでも秀でているわけでもない。彼はそのことが相当コンプレックスだったようで、学校にも通わず、専ら家に引きこもっている生活をしていた。しかしそれはそれとして上の二人とそれほど対立していなかったのは不思議なことだ。
そこまで話を聞いたところで、枢野先生は口を開いた。
「少なからず問題はあったようですが、家族間の関係としてはそう珍しいものではありませんね」
「ええ、外から見ている分には」
「だが、そんな彼らが事件に巻き込まれることになった。あるいは事件を起こすことになった」
「はい。正確には、その前者です」
枢野先生が「どうぞ続けて下さい」と言わんばかりに右の手の平をホームズさんに向け、彼女はコーヒーを一口飲んでから説明を続けた。
アンダーソン一家が家を出たのは7月1日の午前九時頃。近所の住人が目撃し、軽く挨拶を交わしている。ゲイリーが運転する五人を乗せた車は、近く(と言っても三十キロほど離れている)のキャンプ場へと向かっていた。キャンプ場の近くにはちょっとした滝が流れており、そこは家族の思い出の場所だったのだ。
そして車が三十分程走ったところで、その“事件”が発生した。
一家を乗せた車の右前輪がパンクを起こしてしまった。予備のタイヤは積んでおらず、そこで立ち往生するしかない。携帯で助けを呼ぼうにも、何の因果か分からないが、生憎その日は誰一人として携帯電話を持ってきている者はいなかった。
他の車が通りかかったらヒッチハイクでもしよう。幸い立ち往生した山道は、さほど車の出入りが少ないというわけでもない。夕方にでもなれば街から帰る車があるはずだ、と家族は考えていたそうだ。
ここまでの話ではちょっとした遭難事件だが、今回の話の肝はそんな甘いものではない。
「そこで見つかったのは車だけだった。そうですね?」
先生の言葉に、ホームズさんは首肯をもって答える。
アンダーソン一家の目論見通り、しばらくして仕事帰りの車が通りかかった。事件の発覚はその運転手の通報によるものである。
運転手は道端で停止している車を不審に思い、近づいて中を覗いてみた。するとそこには――
「誰も乗っていなかった」
私はその言葉に、ゾクリと背筋が凍るような感じがした。
警察が車の中を調べ、残されていた免許証から持ち主がゲイリー・アンダーソンという男性だということが発覚したそうだ。当然彼の家や、車の周辺が捜索されたが、一家は見つからなかった。
一家が消えた? 大の大人が五人、同時に?
「そこで」先生が一枚の写真を手に取り「
ホームズさんが頷いてみせる。
先生が差し出したのは例の動物の足跡の写真だった。
「写真では分かりにくいかもしれませんが、その足跡、明かにおかしいんです!」
「と、言いますと?」
「鑑識の話によるとそれは犬のものらしいんです」
「犬、ですか」
「はい、でも大きさがおかしくて」
「ほう」
「その足跡、つまさきからかかとの部分までで、1.5フィート(約46センチメートル)もあるんですよ!」
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