日本からヒースロー空港にはほぼ定刻通りの到着となった。

 空港を出た私はすぐにタクシーを拾い、彼の住むベイカー街へと向かった。こうしてロンドンに来るのはもう四度目になるし、彼の部屋を訪れるのも三度目になるから、慣れたものである。ここ最近は英会話にも力を入れているから、一通りの日常会話くらいはこなせるようになった。

 夏場のロンドンはとても素晴らしいと思う。

 日本では猛暑だの何だのと連日ニュースで報道されてはいるが、ここではそんなことはない。最高気温もせいぜい25度くらい。年々暑くなっているとは言われているけれど、しかし日本に比べたら百倍マシだ。湿気がないのも良いし。

 で、半ば避暑のうきうき気分で出かけたのは良いのであるが、生憎今日は仕事で来たのである。

 仕事というのは枢野先生に頼んだ新人賞の二次審査のことだった。所謂“下読み”という作業である。

 私の所属している柏木出版が主催する推理小説の新人賞――通称・柏木推理大賞は一次、二次、そして最終選考という三つの審査で進む。一次選考は主に基本的な物語更正ができているかなどが審査され、審査員は外注の形を取っている。

 そして二次選考に進んだ作品は、今度は既にデビューしている新人作家に審査をしてもらうことになる。よってデビューから二年しか経っていない枢野先生にこの仕事が回っていくのも当然のことだった。

 つい二日ほど前、彼から担当の全ての作品の審査が終了したと連絡を受けた。そしてこうして遥々ロンドンまで足を運ぶという話の流れになったのだが、移動距離や飛行機のチケット代を考えたら編集部にはもう少し考慮してもらっても良いかもしれないと思う。いくら経費で落ちるとはいえ、何だかこっちまで悪い気がしてならない。

 簡単なメールで済ませるという手段もあるのだろうけれど、頭の固いデスクたちはそれを許さなかった。というのも、柏木出版では編集と作家との繋がりを大事にするのが習わしとなっているのだ。言っていることは分かるけれど、海外に住む枢野先生に関しては例外にしてもらいたい。わざわざロンドンまで来るのは、正直骨が折れるのだ(いくら避暑になるとはいえ)。

 ベイカー街に入り、私はとある下宿(作家のプライバシー保護のため住所の公開は控えさせて頂く)の前でタクシーを降りた。

 その下宿先についても、前に一度、枢野先生に聞いたことがある。


「先生、大学に通うためにロンドンに住むのは分かるけど、どうしてベイカー街なの?」

「ベイカー街で何か不都合が?」

「いや、そういうわけじゃ……ただ、大学に近いとは言えないし、もっと他に良い所があるんじゃないかって」

「なるほど、確かに仰る通りですね」

「じゃあ、なんで……?」


 彼は少し黙り込んだ後、こう答えた。


「もしも僕がベイカー街以外の住居を選んだら、僕のとある友人がきっと言うと思うんです。『ロンドンに住んでいながらベイカー街を選択しないとは何事か。君はそれでも本当に名探偵を目指しているのか』って」

「はあ、そうなんですか」

「どうしようもないホームズファンで、つまらないところに拘る奴なんですよ」


 そう言って、彼はどこか寂しそうに笑みを浮かべていた。

 確か、ホームズが住んでいたのもベイカー街だったはずだ。けれどその友人の言うことを素直に承諾するとは、枢野先生だってつまらないところに拘ってばかりじゃないか。

 そんなやり取りを思い出しながら、私は彼の下宿先の前に立ち、インターフォンを鳴らした。

 目の前の扉には映画なんかでよく見る金属製のドアノッカーも付いている。映画に憧れて以前鳴らしたことはあるけれど、あれは存外中には音が響かないらしく数分ほど待ちぼうけを喰らうことになった。それ以来、私はインターフォンを押すようにしているし、現代ではこれが普通だろう。

 数秒して、ドアが開かれた。


「まあ、マスミさんじゃありませんか」


 と、顔を出したのは銀髪と蒼い瞳が特徴の初老の女性だった。

 彼女は名前をルイーザ・マロニーと言い、私や枢野先生はマロニー夫人と呼んでいる。今年で六十五歳になる彼女は数年前に夫と死別。以来、空いた部屋を留学生などに下宿として提供している。枢野先生は彼女の好意に甘える形になっているわけだが、生涯で子供を授かることのなかった彼女からしてみれば下宿を利用する若者は自分の息子や娘も同然なのだと、むしろ喜んでいるくらいだった。


「今日は、マロニー夫人。先生はいらっしゃいますか?」

「ええ、二階にいるわ。でも残念ね、実は今お客様が来ていて」


 夫人が扉を開けながら言った。

 私は中に入りながら聞き返す。


「お客様? また何か妙な相談でしょうか」

「さあ……でも彼は友人だと言っていたけれど」

「友人?」

「ええ、それも友人だそうよ」

「大切ぅ?」


 思わず声が裏返ってしまった。

 枢野猫は天才である。しかし天才とは総じてどこか世間とはずれているもので、彼もその例外ではなかった。確かに紳士的で人畜無害ではあるけれど、そんな変人の彼に友人がいるというのは、どうにも想像するに難いものがある。ましてやって……。


「どんな方でしたか、その友人って」

「日本人の女の子よ。長い黒髪がとっても綺麗で、礼儀正しい娘だったわ。英語もとってもお上手」

「私の英語は下手で悪かったですね」


 私の英語力はさておき、女友達と来たか……まさか、前に言っていた“彼女”じゃないだろうな。

 私が彼の交友関係を気にしているのは、決して彼に好意を抱いているからではない。むしろその逆で、確かに彼には以前お世話になったけれど、しかし仕事でもなければ自分から関わっていきたくないと思っている。つまり嫌いだ。

 ではなぜ女友だちというワードが気になったかと言うと、単に彼に恋人がいるのが許せないだけだ。私だって彼氏いないのに!

 怒りをぶつけるべく彼の部屋に乗り込んでやろうと息まいていたところ、トントンと階段を降りる音が聞こえてきた。

 まさか、例の女か!?

 私とマロニー夫人の視線が玄関から見える階段の方へと集まる。


 ――思わず、息を呑んだ。


 そこに現れたのはおおよそ私などという庶民とは住む世界が違う、そう確信できるほどの圧倒的な美人だ。

 艶やかな長い黒髪を携え、夏らしい爽やかな薄いブルーのワンピースがとてもよく似合っている。伏し目がちにした表情がより一層彼女の大和撫子ぶりを際立たせており、ここが海外だから幸いなものの、もし日本国内であれば街を歩くだけで十人に八人の男性は振り返ることは間違いがない。振り返るだけで済めば良い方で、きっとその内の何人かは彼女の連絡先を何としてでも入手しようと声をかけるはずだ。

 マロニー夫人は階段を降りてくる彼女を単に“美人”と評したけれど、とてもそんなものじゃない。きっとそれは英国人の感性なのだ。日本人が見ればきっと大抵は“超美人”と言うだろう。

 夫人がさも自分の手柄のように「ね。美人でしょ」と耳元で呟いたが、もはや私は返す言葉を失っていた。私はその超絶美人とは同性ではあるけれど、しかしうかつにも惚れてしまいそうだった。初めての一目惚れの相手が同じ女性とか……複雑すぎる。

 階段を降り切ったその女性は私に気付くと、ぱあっと顔を明るくし、駆け寄ってきた。その表情だけを見るとまだ僅かに幼さが残っているような、そんな印象を受ける。


「あのっ、もしかして波戸真澄さんですか?」

「え、ええ、はい、そうですけど」


 いい大人がしどろもどろになって情けないとか思わないでもらいたい。

 今、目の前にいる少女の眩しすぎる笑顔を浴びると、仕事一筋アラサー女は塵になって消えてしまいそうになるのだ。

 少女はとても澄んだ声で続ける。


「K(枢野猫の本名)さんから何度かお話を伺っています。とても面白い方だって」

「そうなんですか?」


 って、面白いってどういう意味だ!

 あの人、絶対私を馬鹿にしてるよね!?


「いつもKさんがお世話になっています。私、T(本人の要望で本名は伏せさせて頂く)と言います」

「こちらこそ、枢野先生にはお世話になっています。私は担当編集の波戸真澄です。って、もう知っているんでしたね」


 そう私が自己紹介をすると、マロニー夫人が口を開いた。


「Tさん、もうお帰りになるの? これからお茶を淹れようと思っていたのだけれど」

「申し訳ありません。これからちょっと用事がありまして。それに、こちらに来たのは仕事のついでで、少し顔を出すだけのつもりでしたから」

「そうなの?」

「はい。Kさんがお元気そうで何よりでした」


 私は尋ねる。


「こちらにはいつまでいらっしゃるんです?」

「今晩には立たなければなりません。もう少しゆっくりしたかったのですけれど、日本に残してきた父が早く帰って来いってうるさくて」


 そう言って、彼女ははにかんでみせた。彼女の顔を見る度に何だか私の中の邪な部分が浄化されていくようだ。


「忙しいんですね。お仕事と言っていましたけれど」

「ああ、いえ、普段は東京の大学に通っているんですけど、今日は父の仕事の手伝いで」

「お手伝い? お父様の仕事の?」

「ええ、貿易関係の仕事なんですけど、一応、父がそこの会社の代表なんです。それで私も将来的には跡を継がなくてなりませんから、仕事を教えてもらっているんですよ」

「へぇ、立派だなぁ」


 素直にそんな言葉が漏れていた。

 私が彼女くらいの歳の頃って何をしていたっけ? 大学生だから……ダメだ、遊んでる記憶しかない。じゃあ今はどうかと言われても、毎日“取りあえず”仕事をしているだけだ。私にはこの目の前の少女のような夢や目標と言えるものが、何もないではないか。

 そんなことを考えていると、彼女がチラリと自身の腕時計を見た。腕時計さえ高級そうだし(それでいてオシャレ)、何よりその動作一つをとっても何だか色っぽい。


「すみません。そろそろ行かないと」

「あ、こっちこそ、呼び止めてしまってすみません。あの、道中お気をつけて」


 私がそう言うと彼女はにこりと笑って会釈し、玄関の扉を開いて出て行った。後ろ姿ですら美人だと分かった。

 何とも言えない余韻に浸っていると、マロニー夫人が肘で私の脇をつく。


「ねえ、あの娘と上の彼の関係、聞かなくて良かったの?」

「あ」


 完全に忘れていた。

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