事件現場は日本・羽田空港発、ロンドン・ヒースロー空港行の飛行機の中。被害者が見つかったのは、その飛行機の、さらに個室トイレの中という、大空なんて広大なところにいつつもかなり狭い限られた場所であった。

 被害者の名前はアレックス・フジミ。日本人とイギリス人の両親を持つハーフだということが、彼の持ち物から判明した。

 フジミ氏は貿易関係の仕事をしており、その主な職務内容は海外のアンティーク品を日本国内に持ち込み、逆に日本の伝統的な品を海外へと送り出すというものだった。基本的に個人で行っていた事業のようだったが景気は良く、持ち物にはブランド品が多く見受けられた。

 貿易商という職業柄、日本と海外とを行き来することは多いらしい。今回も日本で受けた注文を元にイギリスで品探しをする予定だったようだ。

 彼が殺害されたとされる時間は二度目に席を立った直後――午前十一時ほどだと推測された。

 犯行に使われた凶器は22口径の拳銃。被害者は腹部と心臓を撃たれ、便座に腰かけた形で死亡していた。22口径の拳銃は発砲音が非常に小さいため、CAさんたちの中でその音に気付いた人間はいなかったらしい。


「つまり、そちらの女性の言うことが本当なら、事件の経緯はこういうことですね?」


 現場にしゃがみ込み、私たちの話を聞いていた少年が口を開いた。


「被害者のフジミ氏は午前十一時頃に席を立ち、このトイレへ。そしてそこで何者かによって殺害された。犯人はしばらく様子を見て、そちらの女性が、」

「あのっ」

「はい?」

「私、波戸と言います、波戸はと真澄ますみじゃ、言いにくいでしょう」

「どうも。それで、波戸さんがフジミ氏を心配して様子を見に来るのを見計らい、犯人は波戸さんの鞄に凶器を隠した……ということですね」

「ええ」


 私は頷く。


「なるほど……畠山さん」

「なんだ」


 畠山警部が外から顔を出す。


「事件直前で、こちらのトイレを利用した方はいらしたんでしょうか」

「従業員に聞き込みした結果、事件前後にトイレに入った人間は三人いたらしい。正確には離陸直後にもっと多くの人間が出入りしていたらしいんだが、多すぎて覚えていないんだと。だが、まあ、大勢が代わる代わる利用していたっていうなら、その中での犯行は無理だろう」

「つまり犯人は事件前後に利用したその三名に限られてくるというわけですね。それで、どんなお客さんです?」


 警部が手帳を取り出し、ペラペラと捲ってから答える。


「まずは第一発見者のそこの女だ」


 と、私に視線を向ける。


「被害者と話していたという目撃情報があったからソイツの持ち物を見てみた。結果はご存知の通り、凶器の銃がポロリ、だ」

「ですが、彼女が犯人とすると先程も説明した通りその行動は合理性を欠きます」

「分かってるよ。まあ、俺は完全には信じたつもりはないが、警視総監命令に免じて、取りあえずはそういうことにしておいてやる」

「で、他の利用者は?」


 警部は右手に持ったペンで自身の頭をボリボリと掻いた。そしてまた手帳に視線を落とす。


「一人は当然ながら被害者自身だ。で、もう一人は中年の女性。エコノミーの利用者でどこぞのセレブだそうだ」

「そちらの女性に聞き込みは?」

「まだだ。そっちの波戸とかいう女が犯人だと踏んでいたからな」

「その判断は半分正解ですね」

「どういう意味だ?」

「その女性に聞き込みをしなかったのが正解。波戸さんを犯人だと踏んだのが、不正解です」

「チッ、嫌味ったらしい言い方しやがって」

「まあまあ……もう一人の利用者というのは、当然?」

「ああ、被害者自身」


 警部がお手上げと言わんばかりに肩を竦ませてみせた。


「例の中年女が犯人じゃなきゃ、一体どこのどいつが殺ったって言うんだ。それとも何か、男は実は自殺で、自分を撃った拳銃はフワフワと勝手に波戸の鞄に潜り込んだってのか? 冗談じゃねえぜ、そんなオカルト」


 少年が警部の言葉に小さく頷いて、


「なるほど、話は大体分かりました。まあ、拳銃が自分で勝手に移動したという線はないでしょうね」


 少年が腰を上げる。

 ここで気づいたのは、彼の視線は目まぐるしく現場の至る所へ向けられているということだ。鋭い観察眼が、まるで獲物を探すかのように忙しく駆け抜けている。


「それにしても、なんでお前まで来てるんだよ」


 そう言って、警部はこちらを睨みつけた。


「一度は疑われたんですよ、こうなったら事件の真相を知りたいじゃないですか。それに、犯人は私を陥れようとした。絶対許せません!」

「俺はまだアンタを完全に信じたわけじゃねえがな。それと、そこの小僧も」


 警部が嫌味ったらしい視線を、私から目の前の少年に移した。

 私だって“探偵”を自称している高校生なんて信じられないけど……こうなったら、早くこの少年に事件を解決してもらうしかない。


「波戸さん」


 少年がクルリとこちらを向いた。


「右手の甲を出してもらえませんか?」

「はい?」

「右手の甲です」

「はあ」


 言われた通り、彼の目前に右手を差し出す。

 すると次の瞬間、信じられないことが起こった。

 彼の顔が右手に近づけられたかと思うと――


「失礼」

「……は?」


 ――少年の柔らかな唇が、私の右手の甲に当てられた。


「はあ!? こ、こんな時に何やってるんですか! 口説いてるんですか!? や、嬉しくないと言ったら嘘になりますけど、いくら男に飢えてるからって、君みたいな一回りも年下の彼っていうのはちょっと……あ、でも、もう何年かしてからっていうなら考えなくても、」

「うん……やっぱりそうだ」

「あ、でも、私的には早い方が良いのかなって思ったりもして。親にも急かされていますし……って、あれ? ?」

「ああ、すみません、突然のことで驚かせてしまいましたね」

「え、あの、口説いてるってのは?」

「口説いてる? そんなこと一言も言っていませんけど」


 それに、僕にはもう心を決めた人がいますし、と付け加えられる。

 ……。

 何だよぉ、違うのかよぉ!

 しかも彼女持ち!? こんな子供にも負けているのか、私は……。


「って、だったらどうして手の甲にキスなんてしたのよ……」

「すみません、キスをするつもりはなかったんですけど、口が当たってしまいましたね……僕が知りたかったのは、貴女の手の匂いなんです」

「匂いって……もしかして匂いフェチの方ですか?」

「いえいえ、ただどんな香水を使っているのか気になったものですから」


 香水って……ますます意味が分からない。私がどんな香水を使っているかって、この事件に何か関係があるのだろうか。


「畠山さん、この現場は保存されていたんですよね」

「解放したくとも、こんな血の海じゃあできまい。死体も転がっているしな」

「では、気付きませんか、犯人が残した痕跡に」

「痕跡ぃ?」


 言われて、警部は個室トイレに視線を巡らせる。私も同じように、警部の影から室内を覗き込んだ。

 個室トイレの様子は便座に座り込んだ冷たい身体と、床に広がる真っ赤な水たまりを除けば、至って普通、何ら変わりないように見える。ここに犯人が何か痕跡を残した? 一体何を?

 ……うーん、分からない。

 私は少年に視線を戻した。畠山警部も同様に。

 すると少年は得意げにニヤリと口元を歪めると、何を言わんとしているのか解説を始めた。


「目に見えるものだけが証拠ではないということです。――ですよ」

「匂い?」


 私は聞き返し、嗅覚に意識を集中させる。よくあるトイレの匂いだけど……何だろう、何か異質な、これは、芳香剤?


「それらしいものは見当たらなかったので、この匂いの正体は香水ですよ」

「香水……」


 畠山警部が難しい顔で頷く。

 そっか、だからさっき私の手の匂いを嗅いだのか。香水の匂いが一番残りやすいのは手元と首元だ。


「でもこの匂いって……」


 スンスン……。


「私が使っているものとは違うんだけど」

「ええ、事件から数十分経過しているのにこれだけ強く残っているということは、おそらく犯人のものでしょう」

「どうして……被害者とか、その前に利用したっていう中年女性のものなのかも」

「被害者から同じ匂いがしません。それとおそらく例の中年女性のものでもないでしょう……“ビーバー”ってご存知ですか?」

「ビーバー? 動物の?」


 あの……何か、ダムを作ったりする動物。


「ええ、そのビーバーです。ただしこの場合は、香水の種類の話です」


 少年の解説をまとめるとこうだった。

 香水の種類は大きく分けて二種類ある。

 動物性か植物性。

 “ビーバー”は動物性の一つで、強い皮製品の匂いが特徴なんだとか。そしてどうやら今、このトイレに漂う匂いは、このビーバーという種類の香水だという話だった。


「動物性の香水は男性が使用することが多いものです。ましてや例の中年女性はお金持ちで御洒落な方らしいですからね、その方が使うことはまずないでしょう。それともう一つ」


 少年の指が天をピンと指す。


「犯人はここまで計画的に犯行を進めて来ました。そんな彼が銃を撃った時に残るを考慮していなかったとは思えません。そうですね、畠山さん」

だな」

「その通り」


 銃を撃てば、たとえその発砲音を抑えられたとしても、硝煙の匂いだけは消すことができない。だから犯人は考えたのだ。のだと。


「普通の人は硝煙の匂いなんて気づきません……つまり犯人の几帳面さが裏目に出たというわけです。僕に手がかりを与ええるという裏目にね」

「だが、ちょっと待て、小僧」

「何でしょう、畠山さん」

「そもそも事件現場であるこのトイレには被害者を含めて三人の人間しか出入りしていないんだぞ。お前の言う通り女の方が犯人じゃなかったとして、それじゃあ一体誰が被害者を殺したってんだ」

「それです」


 天を指していた少年の人差し指が真っ直ぐに畠山警部に向けられた。


「CAさんたちの証言が正しかったとするなら、このトイレに入った人間は“二人”です」

「ああ、そうだ」

「でも、それはであってではない」

「は?」

「もっと言えば、二種類の人間が出入りしたということです」

「だから、どういうことだよ」


 警部が若干の苛立ちを表情に出す。

 少年は再度チラリと私に視線を向け、


「この事件を解く鍵は簡単なことですよ。波戸さんが初めに言っていたじゃないですか。『被害者の男性は二回トイレに立った』って」

「言ったけど……それが?」

「CAさんたちはトイレに入った人間は二人だと答えた。それは中年の女性と、それから被害者です。でもおかしいですよね、被害者は二回トイレに立っている。ならばトイレに入った人間はだと答えるのが正確でしょう」

「いや、でもそれは同じ人だから、」

「それです!」


 少年の語り口調が興奮を抑えられないようにさらに強くなっていく。


「その認識のこそ真犯人の狙いだったんです。通常、同じ人間が二回トイレに入ったとして、それはあくまでとカウントされる。で、あるなら、こうとも考えられないでしょうか。フジミ氏がトイレに入ったのは三回だったかもしれない、と」

「は?」


 え、どういうこと?

 でも、だって、彼が席を立ったのは間違いなく二回。そこに記憶違いはないはずだ。

 だけど、それじゃあ、


「三回目は、一体誰が……?」

「その人物こそ、この事件の真犯人――あるいは被害者なのです!」

「え。え? どういうこと?」


 私は少年と警部の顔を交互に見る。警部も私同様まだ事態が飲み込めておらず少しポカンとしていた。そして少年が得意面のまま続ける。


「つまりですね、被害者と真犯人、この二人は全く同じ顔をしていたんですよ!」

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