「だから、何度も言っているじゃないですか! 私とあの人はついさっき、空港で出会っただけだって! そんな私が、どうして彼を殺さなくちゃいけないんですか!」


 些か感情的になりすぎていたかもしれない。

 しかし、とにかく、私の人生において最大のピンチだということは確かだったと、ここにはっきり記しておこうと思う。よくピンチはチャンスだと言うけれど、この場合はどうあがいてもピンチはピンチのままだろう。仮に事態が好転したとして――逆転したとして、それはあくまでマイナスがゼロに戻るだけで、少なくとも私が得をするということは、まずない。と断言できる。

 狭い室内の空調は効きすぎていて、夏だというのに少しだけ鳥肌が立ちそうになるくらいだ。いや、寒さだけが私の鳥肌の原因ではないかもしれない。この目の前に直面したピンチが原因なのかもしれない。

 で、どうして私がピンチなのかと言うと。

 ――どんなピンチなのかと言うと。

 久々の休暇を旅行でもして過ごそうかと思って一人旅を企画し、空港で人の良さそうな(それでいてかなりのイケメンの)英国紳士らしき男性に声をかけられ、意気投合し、行き先も一緒だからということで行動を共にすることになったのが、私の運の尽きだった。

 だって! イケメンだったんだもん! しかも金持ち!

 あんな男に声をかけられたら、女性なら誰しも耳を傾け、私と同じような行動をとったに違いない。

 それは決して私が三十手前にもなって彼氏の一人もできず、仕事ばかりして、両親には早く孫の顔が見たいなんて遠回しに催促されたのが原因ではない。断じてない。女の子なら、きっと誰でもそうだったはずだ。ボーイミーツガールを、王子様との出会いを、望んでいるはずだ。私はそう信じて止まない。

 で、どうなったかと言うと。

 私と彼は偶然にも飛行機の席が隣同士だった。私が窓側の席で、彼が通路側。私たちは他愛もない世間話に花を咲かせ、折角の縁なのだから向こう(つまりイギリス)に着いてからも一緒に食事でも行こうという話になった。

 ここで私も嬉しくなかったと言えば嘘になる――イケメンだったからね。

 で、飛行機が離陸してから一時間ほど経過して、彼がお手洗いに立った。

 この時は別段気にはしなかった。そして彼が戻って来たのはその十分後である。

 私たちはまた新しい話題で盛り上がった。会話の内容は、確か好きな小説だったと思う。私が編集者だと言ったところから繋がったのだ。

 それで自然とお互いの仕事の話にもなって、で、彼がまたトイレに立った。これが確か――十一時より少し前だったと思う(あくまで日本時間で)。

 まあ、会話のタネもぼちぼちなくなってきたと思っていた私は特に気にも留めなかったのだけれど、しかし彼が席を外してから一向に戻っては来なかったのだ。その間、三十分くらい。私は男のトイレ事情には詳しくないけれど、しかしいくら何でも三十分というのはかかりすぎだろう。

 で、心配になって、トイレに行ってみた。

 ……行かなければ良かった、と割と本気で後悔した。

 そこに――つまり個室のトイレに彼はいた。

 いた……のだけれど、とてもではないが自分の席に戻れるような状態ではなかった。

彼の胸には空虚な穴が空き、まるで安っぽいテレビドラマみたいに真っ赤な液体がそこから飛び出し、高そうな、それでいて上品なスーツを、京都の職人もびっくりなくらい綺麗な紅に染め上げていた。

 こんな姿を見せられて、それでも彼が立って歩いて来たら、それはもう人間ではなくゾンビというやつだし、仮にドッキリだったとしても悪趣味極まりないと言えるだろう。どんなイケメンでも、そんな変態野郎は御免だ。

 私は、乾いた笑みしか浮かばなかった。

 だって人間の死体だよ? それも明らかに誰かに殺されてるんだよ? ついさっきまで一緒だったんだよ?

 そんなの、一体どんな顔をすれば良いというのだろう。

 で、そこからの流れはいたってシンプル。

 私の後に来た年配の婦人が死体を見つけて叫び、CAさんたちが何事かと集まり、刑事を名乗る屈強な男が私の腕を掴み、そして普段なら従業員の休憩なんかに使われていそうな個室に連れ込まれた、という流れだった。事情聴取――とは名ばかりで、完全に犯人扱い。

 どうしてこんなことに……。

 私は改めて盛大な溜め息をついた。


「私は本当に何もしてないんですよ……あの男の人とだって、空港で偶然出会っただけで、名前も職業も知らないんです」

「そうは言ってもだね、第一発見者はあなただしね」


 と、屈強な男性警官はあくまで事務的な口調を崩さずに答えた。

 私がいつまでも同じ言葉を返すばかりなので、流石に少し参っているようで、しきりに落ち着きなくその薄ら禿げた頭をペンの先で掻いている。

 刑事は私が話したことがまとめられているメモ帳を、老眼の目を必死に細めながら見て、そして口を開いた。


「ええと……波戸さん? でしたっけ? あなたはぁ……柏木出版の編集者! 大手じゃないの」

「はあ」

「それで、そんなあなたがどうしてあの人を殺しちゃったのかなあ?」

「だから! 私はやってませんって!」

「とは言えねぇ、関係者はあなたしかいないわけだし……被害者の財布やら何やらは手付かずだったから、物盗りの犯行じゃあないし……怨恨なんだわ。で、どうしたの? 別れ話のもつれとか?」


 話にならない。

 というか、一向に話を聞いてもらえない。

 どうしたら良いんだ……。


「あ! ほら、凶器! あの男の人、見たところ銃で殺されていましたよね。でも私、銃なんて持っていませんよ! これが何よりの証拠じゃないですか!」

「ああ、それねぇ……」


 ボリボリ、とまた頭を掻く。


「どうかしたんですか?」

「見つかったんだわ、凶器の拳銃」

「はあ……で、どこから?」

「あなたの鞄の中から」

「……は?」

「だから、あなたの鞄の中にあったんだわ。念のためね、調べさせてもらったんだけど、鞄の底の方にね、あったんだわ。で、あなたの指紋もばっちり」

「そんなバカな!」


 私は銃なんて見たことも触ったこともない!


「しかしねぇ……これは動かぬ証拠というやつですよ。や、勿論、あなたの犯行を裏付けるね」

「いや、そんな」


 おかしい。おかしい。おかしい。

 そんなこと、あるわけがない。

 私が殺した?

 銃で?

 あり得ない!


「私じゃありませんっ!」

「そうは言ってもだねぇ、現に証拠が」

「それは……」



「彼女の犯行じゃありませんよ」



 と、この場においておそらく最も冷静な声が、室内に響いた。

 若い男の声だった。いや、子供の声、と言っても良いだろう。刑事の詰問を遮って聞こえてきたその声の方を見ると、そこには私の予想通り、まだ高校生くらいにしか見えない男の子が立っていたのだった。

 中肉中背。十代半ば。チェックのポロシャツがよく似合っている。髪の毛は僅かに天然パーマがかっており、その眼差しはどこか憂いを帯びているようで、しかし重要なことを何一つ見逃さない鋭さをも兼ね備えていた。教室の一角にでもいれば冴えない印象しか受けないかもしれないが、この重大犯罪の舞台においては、彼はとてつもなく特別な輝きを放っているように、その時の私には思えてならなかった。


「君は……?」


 と、刑事が怪訝そうに眉をひそめる。


「ああ、申し遅れました。僕はK(本人の願いにより本名は伏せさせてもらう)と申します。職業は、ええっと、一応、探偵を自称させてはもらっていますが、まあ、普通の高校生ですよ」

「高校生ぃ?」


 刑事は容疑者であるところの私に向けるのとはまた違った、しかし弾劾の意を込めた睨みを入り口を固めていたCAさんに向ける。大方、誰も入れるなと指示していて、しかし高校生などと名乗る人物が入っていたから、どういうことだ、命令無視だぞ、という意味の眼差しだったのだろう。

 CAさんはバツが悪そうに苦笑いを見せて、その入ってき男子高校生から話を聞くようにと指さした。

 刑事は怪訝そうな表情を崩さないまま、今度はそれをその高校生に差し向ける。


「君、高校生が何の用件かな」

「いえ、先程からどうにも機内が騒がしいと思いまして……何かお力添えできないかと」

「民間人に借りる力などない。君は席に戻りなさい」

「そうは言われましても……」


 ちらり、と少年がこちらに視線を向ける。

 ――お困りでは?

 その視線にはそんな意味が込められていたような気がしたので、私は何度も頷く。


「あのっ、殺人事件で、私が疑われていて」

「そのようですね」

「でも、君、私が犯人じゃないって」

「ええ」


 そう言って、彼はまるで私の動揺なんてお構いなしで、得意げに笑みを浮かべてみせた。


「助けて! 私が犯人じゃないって証明して!」

「民間人は引っ込んでいろ!」


 と、とうとう物腰柔らかだった男性警官が怒声を上げた。


「何者なんだ、お前は! 何様だ! 刑事でもない奴がしゃしゃり出てくるんじゃねえ!」

「僕は探偵ですからね、事件があって」こちらを見る。「依頼人がいれば動きますよ」


 男性刑事がさらに険しい顔を浮かべる。今にも力づくで少年を追い出してしまいそうだ。

 しかしそこで、思いもよらない事態が発生した。


『お客様の中に東京からお越しの公務員で、畠山様という方はいらっしゃいますでしょうか。もしおられるようでしたら、至急、操縦室までお越しください。繰り返します……』


 機内放送だ。聞こえてきたのは渋めの男声で、おそらくこの飛行機の機長だろう。


「畠山……?」

「多分、俺の事だが……」


 男性警官は眉をひそめる。どうやら操縦室から呼び出しを受けるいわれに、彼自身心当たりがないらしい。


「何だってんだ、こんな時に」


 男性警官はボリボリと頭を掻き、少年に視線を向けると、


「とにかく! これは殺人事件だ。民間人の出る幕はない!」


 しかし、当の少年は全く気にも留めていないようで、


「まあまあ。それより、早く行った方が良いんじゃありませんか? 機長がわざわざ機内放送を使ってまで呼び出したということは、よほどの緊急事態だと思いますよ」


 彼がケロリとそう言ってのけると、男性警官はまだ何か言い足りなそうではあったが、取りあえずとして部屋を後にすることにしたようだった。

 そして部屋には、私とこの謎の少年が残されたわけだけれど……。


「あの、君は……?」

「さっきから言っているじゃないですか。ただのしがない探偵です」

「そんなことを信じろって言うの?」

「あ、疑っています?」

「まあ、そりゃあ……」


 正直、かなり胡散臭い。

 こんな少年が探偵って、そんなドラマや映画じゃあるまいし。


「まあ、あの刑事さんが戻れば証拠になると思いますけど、そうですねぇ……」


 少年が少し考えたかと思うと、


「一カ月前に起こった殺人事件、あれを解決させたのが僕です」


 自身の顔を指さして、少しだけ照れくさそうに言った。


「一カ月前の殺人事件って……もしかして少年刑務所の刑務官が二人殺害されたっていう、アレ?」

「ええ、その事件です。犯人が未成年ってこともあって、すぐに騒がれなくなってしまいましたけど、あの事件についてなら隅から隅まで語ることができますよ」


 確か、報道部の友人が報道規制がどうのこうのと騒いでいたな。だから民間人にはほとんど知られていない事件だけれど……それを知っているってことは、やっぱりこの少年は本物なのだろうか。

 ……イマイチ、信じ切れない。

 そんなことを思っていると、先程出て行った男性警官が戻ってきた。出て行った時に比べて明らかにおかんむりって感じで、顔を真っ赤に染めている。今にも脳の血管が切れそうだ。


「お疲れ様です。それで、警視総監はなんと?」

「お前に協力しろってよ!」

「では、よろしくお願いしますね。ええと……」

「畠山だ。畠山はたけやま勇作ゆうさく警部」

「畠山さん、よろしくお願いします」


 少年が右手を差し出すが、畠山警部は未だに少年のことを認めていないようで、鼻息荒くそっぽを向いた。


「あの、警視総監って……?」


 あの? ドラマなんかで見る、具体的な立ち位置はよく分からないけれど、素人の私でもその役職が相当偉いのだということくらいは知っている。だけどそれと、さっきこの男性警官――もとい、畠山警部が呼び出されたのとはどんな関係があるのだろう。


「操縦室に行ってみたらいきなり無線機を渡されて、相手は警視総監だった。何でも、そこの小僧が根回しをしたんだと」

「根回しって……」


 少年の方を見る。


「そうなの?」

「えっと、根回しと言うと人聞きが悪いですけど」


 少年はバツが悪そうに頬を掻きながら答える。


「実は僕の友人にとても知り合いの多い女子がいるんです。とてもね。世の中の大抵の人間とは知り合いなんじゃないかってレベルの。で、彼女の紹介があって、つい先日、僕も警視総監と知り合ったんですよね。それで今回、調査をするにあたって、協力して欲しいと頼んだんです」

「いや、でも、飛行機の中って携帯電話とか使えないじゃない」

「ええ。ですからわざわざ機長から無線機を拝借したんですよ。機長も偶然ながらその友人の知り合いでして……いや、本当にここまで来ると僕自身もその友人に何か仕組まれているんじゃないかって思っちゃいますよ」


 警視総監とパイロットと知り合いって、一体どんな友人さんなんだろう……。

 そんなことを考えていると、畠山警部が「ふん」と鼻を鳴らした。


「警視総監からのお達しだからな、一応、話くらいは聞いてやる。だが勘違いするな。お前は民間人で、俺は刑事だ。決定権は俺にあると思え」

「分かりました。それじゃあ、早速事件現場を見せてもらいましょうか」

「チッ……分かってんのかよ、お前」

「ん? 何をです?」

「強引な奴め」

「僕の性格に強引なところがあるのだとすれば、それはとから受け継いだものでしょうね」

「ある女性?」

「ああ、いえ、すみません。忘れてください。今回の事件とは全く関係のない話でした」

「何だよ、昔の女か?」

「……まあ、そんなところです」


 少年が曖昧な笑みを浮かべて、くるりと部屋の外へと反転した。どうやらこれから事件現場に行くようだ。昔の女がどうこうってのも正直、気にならないわけじゃないけど、今優先すべきことは違うだろう。思わず私は彼を呼び止めた。


「ちょっと! 私が犯人じゃないって話は?」

「ああ、失礼しました。どうにも話を省略してしまう悪癖がありまして……貴女が犯人じゃないっていうのは、貴女の格好と、それから凶器が貴女の鞄から見つかったという話を聞いたのが理由です」

「どういうこと?」


 私の格好は、別段変わったところはない。いつも仕事の時に着ているのと同じ、灰色を基調としたレディススーツだ。それに凶器が私の鞄から見つかったことが犯人じゃない理由って……私はまさにその事項のせいで犯人扱いされているんだけど。

 少年は一度咳払いを挟み、説明を続ける。


「畠山さんの話によれば、凶器は銃だといいます。狭く、そして周囲に人がいる状況での犯行となると、取り回しが簡単かつ発砲音の小さい小口径の銃だったはずです。そうですね、畠山さん」


 視線の先の畠山警部が頷く。


「22口径。女でも取り扱えて、入手もそう難しくない」

「その通り、入手するのも男性を殺害するのも簡単な銃です。女性でもね。ただし、もし彼女が犯人だとするなら、一体どのようにして銃を機内に持ち込んだのでしょう」

「それは……」


 警部は私の方をジロリと見て「おい、どうなんだ」と尋ねた。


「私に分かるわけないじゃないですか!」

「何ぃ? お前、正直に言わないと、ためにならんぞ!」

「ああ、もう! これじゃあ振り出しと変わらないじゃない!」

「仮に、」


 少年が言葉を挟む。


「彼女が犯人だとして、何らかのトリックを用いて凶器を持ち込んだとしましょう。では、そこまで計画しておいて、どうして凶器を鞄なんて分かりやすいところに隠すんです? もし言い逃れるつもりなら、どこかに隠すなり捨てるなりしてしまえば良い」

「そ、そうですよ! ……って、あれ? スーツの話は?」

「そのスーツにしても、ですよ。飛行機内で銃を使っていることから、明らかに計画的な犯行です。それなのに、そんな返り血の目立つ服を着るでしょうか。小口径の銃を使うことを前提とするなら、至近距離で発砲するつもりだったはず。そんな犯人が、返り血を気にしないわけがない」


 そこまで聞くと、警部は顎のあたりを右手で撫でながら、


「ううむ、なるほど……」


 と、感心したように頷いてみせた。どうやら私が犯人ではないということが、ようやく伝わったらしい。


「じゃあ、真犯人は……?」


 私の呟きに、少年がニヤリと笑みを浮かべる。


「それを今から調べに行くんですよ」

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