第5話 真夜中の学校探検
消灯一時間前、ようやく自室に帰って来られたオレたちは、黴臭い畳に倒れ込むようになだれ込んだ。
「入浴時間、過ぎちゃいましたね」
いや一人だけ、ケロッとしてる奴が居たか。狭間だけが、私物の小さなノートに今日割り当てられた仕事をメモし終えると、テキパキと押し入れから布団を引っぱり出そうとしている。
あの後、賑やかな主従トリオが去った食堂で、二年の指導員と厨房のおばちゃんたちに、散々こき使われて、夕食もロクに口に出来ないまま、慣れない作業に従事した。寮内に居る生徒全員分の料理を盛りつけて、手際が悪いと罵られながら配膳し、当然発生する山のような皿洗いに至り、最終は食堂内の清掃。
皿がプラスチック製でなく陶器だったりした日には、ゴミ袋一つでは済まない量の犠牲が出ていただろう。それくらい、オレたち三人は使い物にならなかった。消灯時間までに終えられたのは、狭間の並外れた生活力とでも言うべき、手慣れた手際に助けられたおかげだった。
畳に寝転ぶオレたちを器用に転がしながら、次々に布団を敷いていく狭間に、おどおどした態度がデフォだと思っていた、最初に抱いた印象はどこにもない。その頼もしい背中を眺めていると、全てセッティングが終わったのか、ようやくホッと一息吐いた所で、ジッと見つめていたオレと目が合った。
「あの、えっと、その……つ、次は入浴時間に間に合うように頑張る、ね」
白い顔が真っ赤になり、仕舞っていたノートを引っぱり出し、ページに額を擦りつけんばかりに近すぎる距離で確認を始めた。お前一人だったら絶対に間に合ってたと思うよ、と心の中で申し訳なく思いつつも、疲れた体には起き上がる気力も残っていなかった。
まだ肌寒いくらいの気候だ、一日や二日風呂に入らなくても問題無いだろう。手近にあった枕をたぐり寄せ、寝る体勢に入った所で、自分の中にあった眠気は一気に吹き飛び全力で覚醒した。掴んだ枕をそのまま壁に叩きつけて、思わず咳き込む。左右を見ると同じ被害にあった由々式と皆元も、同じように枕を自分から遠ざけ、吐き気を堪えるような姿勢をしていた。
「除菌も出来る消臭スプレーが欲しいよね」
布団の上でのたうち回るオレたち三人を見ながら、狭間は家畜の待遇を嘆くよう深い溜め息を吐いた。
圏ガクの灯が消える時間は早い。三年寮は知らないが、オレらの寮は一年のみならず、二年も午後十時には消灯となる。まあ、電気を点けていようと、返却されたカバンの中身、持ち込んだ私物の類いは衣類以外の殆どを没収されていたので、やれる事なんて何もないのだが、慣れない環境の中、暗くなったからと言ってすぐに眠れるものではない。
枕代わりにしていたカバンから、スマホを取り出してボタンを押すと、まだ日付が変わるまで一時間以上あった。ぼんやりと光る画面の端には、しっかりと『圏外』の文字がある。まあ圏ガクなんて呼ばれてるんだから、当然か。暇つぶしのアプリでも起動しようとして、どれもネット環境必須だったらしく悉く失敗した。
「お? 夷川もスマホ持ち込めたんじゃな」
隣で背中を向けていたはずの由々式が、こちらを向いて自分のスマホを掲げて見せた。眠れないのはオレだけではなかったようだ。
「『入学裏手引き』?」
入学前に調べた情報の中にあった元圏ガク生のブログを由々式も見たらしい。
スマホはもちろん没収対象だ。でも裏技とでも言うべき方法がそこには書かれていたのだ。カバンにダミーの携帯もしくはスマホを入れておいて、そして持ち込みたい分は制服のポケットにでも入れておく。カバンの中に何もない場合はボディチェックまでされてしまうので、その時点で没収されてしまうが、カバンの中にそういう物があるれば、そこまでされないと書かれてあったのだ。まあ持ち込んだとしても『圏外』で使い物にはならないんだが……。
「おっし。そんじゃ行くべ」
ヒョイと器用に布団から飛び起きた由々式は、いきなりそんな事を言った。何処へ行く気なんだと問えば、
「電波に決まってるべ。電波入る場所を探すに決まってるでねーか」
スマホに居座る『圏外』の文字を指さし笑いながら答えた。
確かに『入学裏手引き』にあった言葉を信じるなら、この山奥の圏外学校と呼ばれる場所にも、電波が入る所があるとの事だが、その記事に明確な場所の名前はなかったはずである。
「皆元と、狭間は……寝とる、な」
由々式は二人の布団を覗き込んだ後、こちらを見た。
右も左も分からない、今日着いたばかりの場所で、あるかも分からない電波を探して、消灯後に部屋を抜け出すリスクを考える。日中に出くわした状況を思い出すと、この時間帯に部屋以外の場所で見つかった時のリスクは、間違いなく大きい。
「夷川はどうするべ?」
着々と出発準備を始める由々式の言葉に、
「行くか」
色々と後の事を考えようとそう答えてしまうのは、軽率以外の何物でもないのだが、この静かすぎる部屋に残るより百倍はマシだろうと即答してしまった。
パーカーを取り出して羽織り、脱いだ靴下を履き直した。スマホはポケットにねじ込み、念のための偽装工作、布団に誰か潜り込んでいるように見せる為の膨らみを作っておく。隣で眠る二人を起こさないよう跨ぎ、入り口付近に揃えてあった自分たちの靴を片手に部屋を出た。
真っ暗な廊下は、足下を照らす為の小さな明かりが点々としか灯っておらず、階段まで壁伝いに慎重に歩く。人の気配は扉を隔てた先に幾つも感じたので、次第に早足となり、階段が目視出来る距離まで来ると、走ってその内側へと滑り込んだ。軽く上がる息を整えながら、オレが下へと続く階段を眺めている間、由々式は廊下へ少しだけ顔を出し、辺りの様子を窺っているようだった。
「ん、問題ねーべ。誰も気付いてねー」
妙に場慣れしてる気がするのは気のせいか? こっちはたったこれだけの距離を移動するのでも、誰かに見つかるのではと、内心ちょっと動揺していたと言うのに……なんか悔しい。
「まあ、問題はここからだべな。ちょっくら偵察に行ってくるべ」
そう言うと、由々式は自分の靴をオレに押しつけて、階段を音もなく駆け下りて行った。階段を下りて行けば、二年が使っている階が続く。消灯後に階段の踊り場で駄弁っている、なんて気配はなさそうだが、念には念をと言う事だろうか。
少し暗さに慣れてきた目が、器用に何段も飛ばして階段を上ってくる由々式の姿をとらえると、オレの視線に気付いたのか、無言で手を使って大丈夫な事を伝えてくる。両手の塞がっているオレは、何も合図らしいものを返せないが、それに従って階段を下りた。
二年の気配に神経を尖らせながら、なんとか一階まで辿り着いて、どこから外に出るつもりなのか全く聞いていない事に気付いた。まさか、正面玄関からか? 確かに殆ど扉として役に立っていない、ガラスの割れた部分が在るには在るが、そこを潜って出るつもりだろうか。大きな声は出せないが、また廊下へと顔を出して周辺を確認している由々式に声をかけた。
「どこから外へ出る気だ?」
言葉少なく問えば、ふっふっふっと怪しく笑い出す由々式。振り返った奴の顔は、このまま背中を向けて部屋へ帰ってしまおうかなと考えさせられるくらいロクなもんじゃなかった。
「今日が当番で逆に良かったべ。すんなり脱出口を確保出来たからのう」
視線の先には食堂がある。由々式はその扉に駆け寄り、ポケットから取り出した定規? のような物を観音開きの扉の隙間に差し込み、コンと簡単に鍵を開けてしまった。古い扉が軋まぬよう、その手で慎重に押し開かれた先に体をスルリと滑り込ますと、その隙間から手だけが伸び出してきてオレを呼んだ。由々式に倣って食堂の中に侵入すると、静かに扉は閉まり、再び内側から簡素な鍵をかけ直した。
一階は宿直員室以外、誰も人は居ないはずだ。その宿直室も食堂からは少し遠い。それに扉の鍵を閉めた事で、ようやく少し気持ちに余裕が出てきた。それでも心持ち小さめの声で由々式に声をかける。
「この扉の鍵がコレだって知ってたのか?」
指先で単純な構造の鍵を弄る。申し訳程度の小さな鍵は、百均に売っていそうな板状の物を二枚の扉に渡す事で成立するタイプの物で、由々式がやったみたいに、その隙間を通る物でも使えば簡単に開くようなものだった。
「戸締まりしたのわしだべ。しっかり確認しとったよ。ここは内鍵しかないからのう。こうやって、入った後また鍵をしておけば、露見する事はないじゃろ。厨房側の扉の鍵はおばちゃんが持って帰りよったから、食堂から出たなんて誰も気付かんよ」
確かに安全性は高いかもしれない。もし見つかったとしても、これだけ広ければやり過ごせるかもしれないし、なるほど一石二鳥だとなかなかどうして、思わず感心してしまう。
突発的な行動と見せかけて、色々と緻密に考えられているらしい。僅かにだが由々式に頼もしさを感じるようになった頃、オレは電波が届きそうな場所に思い当たる事があるのか尋ねてみた。
「手始めに高い所から行ってみようと思っとるべ」
「高い所?」
オレたちは食堂の端の窓辺に並んで立ち、そこから新館を挟んだ先に見える校舎を見上げた。
「学校の屋上か?」
聞けば由々式は頷いた。同じ屋上ならこの寮内の屋上を使えばいいのではと考えて、自分の下りて来た階段に四階から上がなかった事を思い出した。確かにそれなら校舎を目指すのも道理だった。
行き先が決まったのにいつまでもモタモタしている理由はない。
目の前の窓を開けると、冷たい空気が室内に吹き込んできて、思わず足下から大きな震えが来る。パーカーのチャックを首元まで引き上げ、窓辺へ器用に腰掛けて自分の靴を履き終えた由々式に続いて、オレも靴を履いて外へ飛び降りた。足音もさせずに着地した由々式とは違い、オレは普通に砂利を踏む音をさせてしまったが、それほど大きい物ではなかったらしく、相方からは何のクレームもなかった。
身を屈めながら、それこそ忍者のように走り出した由々式を見様見真似して後を追う。走ったり体を動かしたりするのは苦手じゃないと思っていたが、先行する由々式を追いかけるのは必死にならないとすぐに振り切られそうだった。
行きのバスから見た足の速さも大したものだと思ったが、こうやって一緒に走ると洒落にならない奴だなと痛感する。
旧館の隣に建つ新館を見上げると、カーテン越しの明かりが何カ所も漏れていた。窓の少ない浴室などが集まっているらしい一角を横切り、校舎までの道を全力疾走する。
白っぽい服は避けたので、オレたちみたいな新入生を見張る為にジッとこちらを見ていない限り、ちょっと窓の外へと視線をやった程度では見つからないだろう。五十メートル程だが本気で走ったせいで自分の呼吸がうるさいが、とにかく校舎の影へと身を潜ませた。
同じように走って来たはずの由々式は息一つ乱れておらず、寮の時と同じく一人偵察に出てしまう。無理に一緒に行く必要もないと思い、遠慮無く呼吸を整えさせてもらっていると、予想外に早く由々式が戻って来た。
「焼却炉の近くにあったドアが開いとったべ」
誰かが鍵を閉め忘れたらしい。ラッキーとしか言いようがないが、一応、念のために周囲をしっかりと確認し、人の気配がないのを確信してから、オレたちは校舎内に侵入した。
再び靴を脱いで、見知らぬ廊下を歩く。今夜は雲一つない夜空に煌々と月が上っており、懐中電灯などなくても十分に校舎内を見て回れた。夜中に学校なんて来た事はなかったので、もっと不気味なイメージがあったのだが、何故か全くそうは思えなかった。
学校なんて何処も似たようなもので、オレたちは早々に階段を見つけ上へ上へとのぼる。もちろん、片手にはスマホを持ち、目的のモノがないかを調べながら進むが、残念ながら検索すらも試みてくれない。絶望的なまでに『圏外』が貼り付いて離れない画面を見ながら、
「屋上が駄目だったら、どうするんだ?」
恐らく、そうなるであろう事を口にすると、由々式は難しい顔をした。
「屋上より高い場所ってのは他にねーべ。そうすっと、次は学校と森の境目をぐるりと回ってみるべ。結構だだっ広いからのう。もしかしたら、端の方だったら入るかもしれん」
このだだっ広い敷地内を真夜中にマラソンする気だろうか……屋上が駄目だったら、今日の所は撤収するよう提案してみるか。
時刻を確認すると、まだ部屋を出てそれほど経っていなかった。……今はマラソンなんてやってられるかという思いが強いが、この有り余る時間という天秤に乗せた時、部屋でボーッと過ごすよりマラソンの方がマシと思うかもしれないと考えると、なんとも言えない気分になる。
こんな毎日が三年間続くのかと、どうしようもなく心のどこかが、うんざりしつつも、妙に浮ついたような気持ちにもなった。
屋上の扉を開くと、あまり開閉はされていないらしく、鉄が軋む音が踊り場に大きく響いた。思わず上って来た階段を振り返り、耳をすまして階下の様子を窺ってしまったが、シンと静まり返った空気があるだけで、人の気配どころか、物音一つ聞こえて来ない。
まあ、夜中の校舎に来て良い事があるのかと言えば、当然ない訳で誰かが来る可能性なんて随分と低いと思うのだが、後ろめたいせいか過剰なくらい気にしてしまう。
先に外へ出た由々式の後に続き、屋上に出てみると、そこはかなり寒かった。
「このドア勝手に閉まる心配もなさそうだし、このままにしとくべ」
風程度では動きそうにない扉を開けっ放しにして、オレは屋上にある転落防止用の鉄柵まで歩く。由々式は屋上の中でも一番高い場所、給水塔だろうか、それを器用に登りだしていた。
敷地内を一望できる見晴らしの良さは分かったが、眼下に広がるのはただの真っ暗闇だった。いや、少し違うか。高いフェンスの内側は、ボンヤリとでも何らかの輪郭が分かるのだが、その外側は本当に黒一色に塗りつぶされていたのだ。
そこに何があるのか分からないのに、風で擦れる葉音と虫の鳴き声が、不気味な威圧感となって校内を取り巻いている。目の当たりにしてしまうと、怖さがジワジワと腹に溜まっていくのが分かった。
人の手が入っていない自然という奴は、こんな真夜中に見ると驚く程に不気味だ。幽麗が出そうとか、そうゆうレベルの気持ちの悪さではなく、自分たちとは相容れない存在みたいなのを突きつけられている感じ……だろうか。大げさな言い方だが、そんなふうに思えてしまい、無意識に柵から数歩後退していた。
視線をそんな暗闇から背けたくて、由々式の方へと振り返ると、給水塔の上でまるでSOSでも出しているかのように、スマホを持つ手をグルグルと回していた。淡いフロントライトの残光がボンヤリと円を描いている。
「夷川もサボってないで、電波探すべ!」
小声で怒鳴るという器用な事をやってのける由々式。振ったら電波が入りやすいのか、大いに疑問だったので、その辺は無視してこちらもスマホを確認するが、当然『圏外』の文字が消えるような事はなかった。
両手を頭上で交差させ結果を知らせてやると、軽々と給水塔から飛び降りた由々式が戻って来る。
「こっちも全く駄目だったべ」
意気消沈とばかりに肩を下げると由々式は、自分のスマホをポケットにねじ込んだ。そして、ブルッと大きく震えると、もうここに用はないとばかりに校舎内へと足を向けた。
異変が起こったのは、早々に屋上から校舎内へと戻り、再び扉を閉めようとした時だった。開けた時と同じく、大きな音を響かせながら扉が閉じた時、ふいに階下から「誰かいるのか!」と、声が聞こえたのだ。
その一言に続くよう、複数の人間が何事かと喋りながら階段を上って来る気配が、オレたちの焦りに更に拍車を掛けた。屋上はもちろん逃げ場なんてない、かと言って階段を下りて行けば鉢合わせる。選択肢がそれしか残っておらず、階段を転がり下りると三階の廊下へと進路を取った。
屋上から屋内に戻った時に靴を脱げなかったせいで、廊下にはオレたちの足音が鳴り、階段の気配に剣呑な色が滲む。
こちらに駆け上がってくる勢いは鬼気迫るものがあり、廊下を悠長に走っていたら即見つかってしまうだろう。それを察してか、由々式は手前の教室の扉に手をかけ、静かに開くと中に滑り込んだ。オレも同じようにそこへ逃げ込むと、食堂の時と同じく鍵をしっかりかけて息を潜めた。
「ここじゃあ、すぐ見つかるべ。窓から外へ逃げよう」
神妙な顔をして、とんでもない事を言い出す由々式を睨み付けてやる。
「分かってるか? ここ三階だぞ。逃げるってどうやってだよ」
「雨樋を伝って下りるんじゃ」
言うや由々式は窓を開け、何の躊躇もなく窓枠を跨ぐ。今夜見てきたコイツの運動神経なら、そんな曲芸染みた事も易々とこなしそうだったが、月以外の明かりのない足下さえロクに見えていない状態で、校舎の壁に張り付いて下りるなんてオレには無理だ。
「夷川!」
先へ行く由々式が声を上げるが、その後に続く決心がつかなかった。磨りガラス越しにドアの外へと集まる人影が見える。扉を開けようと試みているが、鍵がかかっているので当分は開けられないだろう。
『ここに居るぞ。誰か、真山さんから鍵借りて来い』
廊下の声が鮮明に聞こえる。こんな所でボサッと立っていたら、それこそ阿呆だ。
「由々式、お前はこのまま行け。オレは他に逃げられそうな所を探す」
焦りの濃い顔をしていた由々式にそう言い渡して、窓をほんの少しだけ隙間を残して中途半端に閉める。
窓に背を向けて、改めて室内を眺めるとそこは一般教室とは違っていた。だだっ広い室内の隅に無数の机が積み上げられており、その先にオレたちが入って来たのとは別の扉がある。机でふさがれたその扉以外に選択肢はなさそうだ。四つん這いになって机の山に潜り込む。扉の開く向きによっては悲惨な末路だが、今はそんな事を考えている場合ではなかった。
机は上へと積み上げられていた為、その足下は這って進むには障害にはならなかった。けれど、室内にあった机を全部集めましたと言わんばかりの量だったので、結構な距離に感じてしまう。
このまま机の山の中でやり過ごすのは、現実的ではない。焦りからか何度も机に頭をぶつけたが、ようやく目的の扉の前に辿り着いた頃、廊下に複数の足音が響いた。
「頼む、開いてくれ」
自分の運を信じて、ドアノブに手をかける。祈るような気持ちで、手に力を入れると、目の前の壁がスッと開いた。先がどうなっているかなんて考える間もない。無我夢中でそこへと転がり込んで、静かに扉を閉める。
そして鍵をかけたと同時に、扉の向こうで乱暴に扉を開く音が聞こえた。
室内に雪崩れ込んだ足音の数に思わず息を飲む。
『見ろ、窓が開いてるぞ』
怒鳴るような声を上げながら、中途半端に閉めた窓が勢い良く、それこそガラスが割れるんじゃないかと思うような勢いで開かれる。一瞬、由々式がまだ下まで降りられていなかったらと血の気が引いたが、さすがとしか言いようがないが、無事に逃げられたらしい。
『逃げられたのか?』
『はい、どうも窓から逃げたみたいで』
『他も探せ。ここは三階だぞ。窓から逃げるのは無理だ』
すんなり諦めてくれないかと願ったが、どうも難しそうだった。窓から逃げる奴も居るんだけどな。
他の教室も探しに行くのだろう、扉や壁を蹴りながら何人かが出て行った。ここからどうやって動こうかと、考えても焦るばかりでその場に突っ立っていたが、外から聞こえてきた机や椅子がダイブする音にようやく自分の置かれている状況を悟る事が出来た。とにかく、逃げないと見つかる。
真っ暗な室内は、どこに扉があるのかすら分からなかった。
「……っ!?」
とにかく奥へと足を動かしたのだが、何も見えない中で床に放置されていた何かを思いっきり踏みつけてしまい、バランスを崩して床に倒れ込んでしまう。なんとか声は出さずに済んだはずだったが、
「悪い、大丈夫か?」
何故か、そんな気遣いが耳に聞こえた。もちろんオレの声じゃない。さすがにそこまで気は動転していない。目をこらすと、ぼんやりと人影らしきものが見えた。
床からのっそりと起き上がった影を見て、体が反射的に竦んだ。殴られると思ってしまったのか、腕が無意識に顔を庇う体勢になった。
背後では次々に勢い良く机や椅子がなぎ倒される音、そしてもれなくオレに対しての罵倒や恫喝、その上に予期せぬ伏兵。詰んだなと、頭の中では諦めもあるのだが、目の前に迫る暴力には純粋に怖いという思いしかなかった。体が強ばって、情けない事この上ないが、全く動けなくなってしまっていた。
「えらい外が賑やかだな」
場違いにも程がある、どこか間の抜けた声が、目の前の影のモノだと気付き、恐る恐る顔を上げる。
真っ暗で顔も何も見えないのだが、輪郭だけ浮かび上がるその大きさに驚く。オレが床に座り込んでいるせいもあるが、立ち上がっても二十センチ以上の差はありそうだ。
この状況を考えると、それだけで圧倒されてしまいそうなのに、声が穏やかすぎるせいか、オレの中にあった緊張感は少し緩まった。無条件で殴りかかってくるような気配を微塵も感じなかったせいだろう。
けれど、それも一瞬で、ドアノブを乱暴に回す音に再び体が硬直する。外のバリケードを一掃した連中が、扉を開けて入って来ようとしていた。
悪態を吐きながら鍵穴に次から次に鍵をねじ込もうとする音が、まるでカウントダウンのようにオレを追い詰める。呼吸がどんどん浅くなって、反対に心臓は今にも破裂しそうなくらい大きく鳴った。
口の中がカラカラに渇いて何も飲み込めず扉が破られるのを待つしかなかったオレに、突然襲いかかってきたのは、外の連中でも目の前の影でもなく、室内の蛍光灯の光だった。
暗闇に慣れてしまった目に飛び込んで来た光は、目にジンと痛みのような錯覚を与える。その眩しさに耐えて、見上げるれば、影だった男が壁にある電気のスイッチを押していた。こちらに視線をやった男と目が合った。人の良さそうな顔をした男は人差し指を口元にやり、黙っていろと言うように笑って見せると、こちらが止める間もなく鍵を開けてしまった。そして無造作に扉を開けてしまう。
外の連中が飛び込んで来ると身構えたが、なかなかその時はやって来なかった。
「こんな夜中に騒々しいな……集会でもやってるのか?」
男が変わらない調子で声をかけると、外の連中は冷や水でも浴びせられたように勢いが全く無くなっていた。
「お前が居るとは知らなかったんだ……寝てたのか? 悪かったな、起こしちまって」
どこか怯えているような、妙な雰囲気が言葉に混ざり込んでいるように思えた。男は大きな欠伸を一つすると、少し面倒臭そうに用件を聞く。
「また一年がやらかした。昼の奴かもしれないんだが、見なかったか?」
冷や汗が背中を伝う。男の横顔から目が離せなかった。眠たげな目がこちらを向くんじゃないかと、固唾をのむ。
「最近、なかなか寝付けなくてな……やっと眠れそうだったんだよ」
男が問いを無視するよう口を開くと、外の連中は怒るどころか、見えないのに分かってしまうくらい血相を変え、慌てて謝罪のような言葉を残して、部屋を出て行ってしまった。
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