第3話 運命共同体
寮は間近で見ると、やはりと言うべきか、けっこうなボロだった。壁の塗装は所々どころではなく、面積の大半が剥げているし、出入り口の扉は割れたガラス部分がガムテープと段ボールで補修してある。そして、男が言った通り、寮の玄関であるその扉に新入生の名簿が張り出されていた。五十音順ではないらしく、百近くある名前から自分の名前を探すのは、何だか受験の合格発表みたいだなと嫌な気分になる。
自分の名前を見つけると、その横に数字が振ってあった。『38』それが部屋番号になっているようだ。ここで突っ立ていても仕方が無い。開け放たれたもう一つの扉から中へ入った。
中はひんやりとした空気とは裏腹に、運動部の部室並のすえたような臭いが充満している。そこは下駄箱として機能しているらしく、両サイドに設置された靴箱には、ボロボロの履き古した靴の残骸がいくつかあった。ふと足下を見れば、簀の子に『土足厳禁』の文字が、バスの車体と同様にスプレーで書き殴られている。靴を脱ぎ片手で持ち、寮に足を踏み入れた。
玄関ホールの先に大きな両開きの扉があり、そこに部屋への案内書きが貼られている。案内通りに、電気の点いていない、窓から入る明かりばかりが眩しい暗い階段を上っていく。途中の階層からは、大きな笑い声やら話し声が聞こえてくる。きっと上級生だろう、この寮に居るのなら二年か。出くわすのは面倒なので、自然と早足になった。案内書きの通り、最上階に出ると長い廊下を挟んで沢山の扉が並んでおり、その一つ一つに数字が大きく書かれた紙が貼り付けてある。自分の部屋番号『38』は割とすぐに見つかった。何も考えず、ドアノブに手を伸ばすと、中から人の気配がして、咄嗟に手を引っ込めてしまった。
個室なんて望めないと分かっては居たが、何人部屋なのかもオレは知らなかった。中に誰か居ても数人……けれどバスの乗客を思い出すと、緊張を強いられるのは当然だろう。あんな連中と、これから四六時中同じ場所で生活するのかと、改めて実感してしまえば、重苦しい溜め息が出た。
ウダウダ考えていても始まらない。引っ込めた手を伸ばし扉を開くと、部屋の中に居た奴と同時に思わず「あ」と間の抜けた声を上げていた。
部屋の真ん中で大の字にでもなっていたのだろう。両足を畳に投げ出した状態で起き上がり、妙に怠そうな格好で座っている。まだ来て五分と経っていない場所でよくやれると呆れもするが、なんの躊躇いも無く、早速くつろぐ体勢に入っていたある意味大物なそいつは、脱走者第一号の由々式だった。
「びっくりするでねーか。普通ノックくらいするだろ? 常識だべ」
「これから、ここが自分の部屋なんだろ? 要るか、そんなもん」
つい反論してしまったが、由々式はそれに対して「親しき仲にも礼儀あり」とか訳の分からない事を言い出した。親しくも無ければどんな仲も無い、ほぼ初対面の人間に使える道理かと指摘すると、破顔し慣れた動作で胡座を掻く。
「わしは由々式誠ちゅーんじゃ。ユユシキでもマコトでも好きに呼んでくれ。張り切り君の名前は知っとるよ。夷川じゃろ?」
「……気絶してたんじゃないのか?」
由々式がオレの名前を知っていた事に少し驚いて、思わず疑問が声になってしまった。てか、張り切り君ってなんだ?
「迎えすら待てず、逆にバスを迎えに行って誰よりも先にバスに乗っとった。高校デビューに張り切りすぎてて、ちょっとイタイ奴だべ」
気付いたらププッと軽く吹きながら答える由々式の顔に、手に持っていた靴を一足張り切って投げつけていた。盛大に後ろへひっくり返った後、起き上がり小法師のように戻って来ると、奴の鼻は真っ赤に腫れて、目尻には涙が溜まっていた。
「いきなり何するだ!」
「悪いな張り切りすぎて手が滑ったんだよ」
「おっそろしい程の短気だべ。あのキチの春日野とずっと会話しよるだけあるな。そーゆー所は直してくれねーと、これから仲良くやってけねーべ」
「……アイツの同類だと思ってる相手に、よくそれだけ悪態つけるな、お前」
半ば感心していると、由々式は意外そうな顔をして見せる。
「別に同類なんて思ってねーべ。夷川はあのバスん中で唯一のまともな奴だ」
オレも由々式に同じような感想を抱いていたのだが、それをコイツは続く言葉で見事に粉砕した。
「少なくとも、見た目以外はまともな奴だと断言出来るべ」
とりあえず、残った方の靴も、もれなく顔面にぶち当ててやる事に決定した。快音を響かせながら、由々式は後ろへぶっ倒れ、今度はなかなか起き上がって来なかった。
「人の面をとやかく言える程、上等な顔してねえだろ、お前は」
扉の開閉部分は板の間になっており、その先に畳が敷かれている。オレはぼやきながら部屋の中に入り、由々式の側に転がっている自分の靴を拾い上げると、扉脇に揃えられた靴の近くへ同じように置いた。開けっ放しだった扉を閉め、しぶとく畳で呻く由々式を避けつつ、小さなベランダがある窓を開ける。埃や蜘蛛の巣、虫の死骸やらで汚れた網戸が嵌まっているのだが、何かで強く押さえたような弛みがど真ん中にあり、あまり役には立ちそうになかった。色々と思う所はあるが、窓ガラスが割れていないだけマシ、という事にしておこう。
窓の外は隣の真新しい建物の白い壁が眩しい。夏場はそのおかげで多少涼しそうだが、逆に言えば、日光の恩恵を全てそちらに持って行かれていそうだった。微妙にカビ臭さが漂う室内の空気を思うと、その予想は大きくは外れていないのだろう。
窓の下から新入生らしき人影の足音が聞こえてくる。その姿をいちいち確認していたら、気分が余計に塞ぎそうだったので、意識を外から内へと引き戻すと、由々式が顔面を押さえつつ起き上がっていた。
「夷川は酷いべ。顔面がすでに凶器のくせに、やることまで凶暴だ」
「まだ言う気か? どうゆう神経してんだ……ケンカ売ってんのか」
いい加減しつこい由々式の背中に蹴りを入れつつ確認すると、奴はまるでオレを諭すような顔つきで振り返った。
「わしのような一般的な男子高校生のハートをギタギタにしよるんじゃ、夷川の顔は。同種の生物とは思えん。ケンカ売るなんて冗談じゃねーべ。こちとら完全降伏だべ」
また訳の分からない事を言い出した由々式の前に、同じように腰を下ろす。何を言いたいのか探るように、目線を合わせると、靴のダメージを色濃く残した顔が「ぎゃあ」とコウモリでも握り潰したような声を上げた。
「夷川みたいな無双イケメンは、女のいない、その顔面凶器が無意味になる地獄に落ちてしまえばいいべ」
「……もう落ちてるんじゃねえの。お前の言う地獄とやらにオレたち」
そう答えてやると、神妙な顔をし出した由々式は、ジッとこちらを見据え手をおずおずと差し出してきた。
「な……なかよく、仲良くやるべ! 兄弟!」
にかっと笑う顔が妙に苛ついて、思わずその額に手刀を見舞ってしまった。
ぶいぶい文句を言う由々式は、地元のおかげか圏ガクの事を色々と知っているらしく、少し宥めると詳しく説明をしてくれた。
この部屋にはあと二人割り振られているらしい。要するに合計四人がこの部屋で寝起きをする。由々式と二人で駄弁っている分には、そう狭く感じる事はないが、四人分の布団を敷けば足の踏み場はないだろう室内を見回して、改めてその小ささを実感する。本棚や机といった物も一切見当たらない所を見ると、下手すると万年床になりかねないなと思った。室内にこもるカビ臭さは、もしかしたら、つい最近までそうやって使われていた名残かもしれない。
先の話になるが、二年に上がると、寮内の二階と三階の部屋を二人で使用するようになるとか。そして三年になってようやく、あの真新しい寮での生活が待っているらしい。ちなみに三年寮は冷暖房完備だが、オレらの当分の住処には扇風機すら贅沢品だそうだ。
「別に地元とか関係ねー。入学案内に書いてあったべ。まさか夷川は読まずに来よったんか?」
オレが頷くと、由々式は肩を竦めて、
「もしかして、圏ガクが普通の学校じゃと思うとるとか?」
心底、気の毒そうな顔をして見せる。稀に居るらしい、圏ガクの噂を全く知らずに入学してしまった奴なのかと、心配してくれているのかもしれない。
「さすがにそれは無いだろ。色々と噂は聞いてたし……ネットで調べたりして来たから、ここに普通な部分があるとは思ってない」
オレが曖昧に答えると、由々式はその話をスッパリと切り上げた。
「まあ、同室が夷川でよかったべ。もし春日野と一緒だったら、今頃あの道を歩いて帰る算段を立てとる所じゃった」
「スバルの部屋番も確認したのか?」
「もちろんだべ。わしの命に関わる情報だ。そりゃ即行探したべ。部屋もかなり離れとる。これでクラスが別なら一年は安心だべな」
いの一番に脱走した奴とは思えない顔で笑う由々式と一緒に、カバンと引き替えに渡された生徒手帳やら冊子を見て過ごしていると、結構な時間があっと言う間に過ぎた。
部屋の外、廊下は次第に人の気配で溢れ、ざわついている。そろそろ新入生が全員揃ったのかもなと、話していると扉を控えめに叩く音が聞こえた。そして唐突にやや乱暴にとでも言えるくらいの勢いで、扉が開いた。
「あ、あのっえっと、その……えっと、あ」
大きいのと小さいのがセットで立っていた。小さい方が慌てて何か言おうとするのだが、なかなか言葉にならず、
「全員揃ったから食堂に集まれ、だとよ」
大きい方が助け船を出すように、用件を的確に伝えてくれた。
オレたちに集合を伝えに来た二人が、同室の奴なのか問う前に、階下から怒鳴り声が聞こえた。
「貴様らぁ、旦那様をお待たせするとは何事かぁ!」
混雑する階段に猪でも突っ込んで来たのかと思うくらいの混乱が、のろのろと廊下に出たオレたちの所まで伝播し、慌てて階段へと向かう。
「食堂って、どこにあるんだ?」
流れていく周りの生徒について行けばいいだけなのだが、なんとなく由々式に振ってみると、
「玄関の真ん前にあった扉の先だべ。一年と二年が合同で使う食堂だからなー、一周するのに三十秒以上かかっちまったべ」
その好奇心の旺盛さに感心させられた。初めての場所を測量するのに、室内を走り回るのはどうかと思うが。一緒に行動している大きいのと小さいのも、適当に相槌を打っているようだ。
オレは渋滞する階段で、二人を改めて眺めてみる。
小さい方は、大きい奴と一緒にいなくても、その小柄さは目を引く。ここが高校でなく中学であっても、周りに馴染んでしまいそうな幼い印象を受けた。気弱な性格が滲み出ていて、圏ガクで本当にやっていけるのかと、他人事ながら不安になってしまう雰囲気のある奴だ。
大きい方は、とにかくがたいがすごい。そんなに長身という訳ではないが、全体的に分厚いのだ。もちろん太っているのではなく、筋肉質なのだろう。オレたちをバスで連れてきた教師の男より、本格的に何かをやっていそうだと思った。気性が荒そうという印象がないのは、ありがたい。まあ見た目だけで判断するのは危なそうではあるが、小さいのが他の連中から突き飛ばされたりしないような位置に居るのは、偶然かもしれないが保護しているようにも見え、オレの警戒心は一気に緩んでしまった。
「どうかしたのか?」
オレの視線に気付いたらしく、大きい方が声をかけてくる。
「いや……お前らって知り合いなのか? 中学が一緒とか」
視線で小さいのを指し聞いてみると、大きいのは首を軽く振って、否定した。
「部屋の前で会ったばっかりだ。ずっとドアの前で立ってたみたいでな。そっちはどうなんだ?」
由々式の事を言われているのだろう。
「いや、こっちも今日会った。オレらはバスが一緒だったんだ」
オレの答えに大きい方は「そうか」と素っ気なく返事をした後、何かを思い出したような顔をして「これから、よろしく頼む」と、穏やかな声で言い軽く頭を下げた。
各々の部屋で、自分が所属する最小の共同体を自覚した新入生たちは、ある程度は打ち解けた雰囲気があった。バスの中にあった、牽制に牽制を返すような険悪な空気は無い。玄関ホールから食堂へと続く廊下には、極当たり前の学校で目にするような光景が広がっている。
「女のようにペチャクチャとやかましい! 口を閉じ、早急に整列せよ!」
もちろん、一部を除いて、だが。
食堂の扉は両方とも全開にされており、そのまますんなり入れたならば、ここまで渋滞はしないだろう。廊下に溢れた生徒がたんまり居るのは、扉を通る前に障害があるせいだ。その障害は新入生に生唾を盛大に吐きかけるように、よく通る低く太い声を張り上げて、わざわざ食堂へ入るために整列を強いていた。ちらっと見えた程度だが、食堂内は由々式が言うように結構広い。クラス分けも済んでいない新入生をいちいち並べ立てなくても、さっさと入ってさっさと着席すれば、ここまで時間はかからないと思う。誘導するなら、中でやればいいものを出入り口に陣取った変な格好をした男は、自分の手際の悪さを棚に上げ、延々とこちらに向かって叱責し続けている。
ようやく扉の前まで進むと、男はオレたちの方を一瞥するや、目の前をおっかなびっくり歩いていた小さい方の背中を押すように思い切り叩いた。
「旦那様をいつまでお待たせするつもりだ! きりきりと歩かんかぁ!」
ものの見事に食堂へと叩き込まれた小さいのは「ひゃあ」と女のような悲鳴を上げて、床に転がった。その様子に何故かキレぎみの男は、こちらに何か言おうとしたが、小さい方へと向ける視線を遮るように、大きい方がヌッと割り込む事で黙って自分の作業に戻って行った。
「大丈夫か」
いつまでも床に座り込んだままだと、後が続かない。オレは小さい方に声をかけ、手を引いて立ち上がらせると、無理矢理歩かせる形で食堂の中へと進んだ。
「あ、あの!」
先に入った由々式を探していると、小さいのが精一杯と言わんばかりの声を張り上げた。
「あの……あり、がとう。もう、だいじょうぶ、だから、その……えっと」
何が言いたいのか、はっきりしない物言いに小さい方の顔を見ると、何故か頬が真っ赤に腫れ上がっていた。顔面を床に打ち付けたのかと、ちょっと引いてしまったが、
「もう、手を繋がなくても大丈夫だそうだ」
大きい方が通訳をしてくれて、ようやく自分が小さい方の腕を掴んだままだった事に気付いた。
食堂の中は、テーブルとイスが、所狭しと並んでいる。人が多いのは、やや入り口寄りの中央で、入り口から遠い、奥の方は空席ばかりだった。そんな周囲に誰も居ない中で、当然のように由々式は、説明会の会場としての最前列の席を確保していた。
「なんで真ん前なんだ?」
一応席に着いたはいいが、前方に置かれたマイクスタンドを眺めながら聞いてみると、由々式は何故分からんと言いたげな顔をした。
「極力、他の奴と接する面積を減らしたんじゃ。前後左右を取り囲まれるなんて心臓に悪いべ。それにここなら、何かあっても、すーぐ先生の目に止まるから安全だべ」
図太いんだか、慎重なんだか、分からん奴だな。席なんてどこでも一緒な気はするが。
「しっかし、ありゃなんだべ。なして執事モドキが食堂におるんじゃ」
いまだ混雑している出入り口付近に視線をやり、由々式がぼやく中に聞き慣れない単語が混ざっている。扉の前で仁王立ちしていた男の姿を思い出すと、その言葉に納得がいった。
「あの変な格好は執事だったのか」
「やっぱり、そう、なんでしょうか? でも、ちょっと……イメージと違いますよね」
「どっかの金持ちの坊ちゃんが在籍してるのかもな、この学校」
オレたちが執事(由々式曰わく『モドキ』らしいが)に対して、それぞれ感想を口にすると、由々式は不機嫌さを隠しもせず、それに倣った。
「どこの金持ちか知らんが、そいつはアホだべ。どうせ連れてくるならメイドに決まっとるべ。可愛らしい『美少女』のメイドだべ。それ以外の選択肢なんぞ、あるはずねーべ? それをなんで執事なんじゃ。どう考えても頭おかしーべ!」
お前の頭も十分おかしい。男子校におけるメイドの需要について語り出した由々式は、『気の弱い』と書いて『気の良い』と読む小さい方に任せる事にしよう。小さいのには悪いが、大きい方もオレと同じように視線を横へと逸らせていた。
こんな馬鹿げた話題になる前に、こいつらの名前でも聞いとけば良かったなぁと、そんな事を考えていると、シュルシュルと妙な音が背後から聞こえてきた。何とはなしに後ろを振り返って確認してみると、車椅子が一台、こちらへと近づいて来ていた。あまりジロジロと見つめるのも変な気がして、すぐに視線を戻したが、今度は戻した視線の先に車椅子が停止した。
視線をわざわざ逸らせるのも変な気がして、その姿を見る。
病院などで見かける簡素な車椅子ではなく、座り心地を追求しましたと宣伝するような見るからに豪華な造りだが、悪趣味な装飾の類は無かった。
妙な言い方だがその一角だけ、絵になるような佇まいで、座っている奴の雰囲気もどこか浮き世離れしているように思えた。気怠げに頬杖をつき目を閉じる横顔は、病弱という車椅子のイメージとは程遠い。まあ、他にも理由は考えられる。例えは、足を悪くしている……とか。その方がしっくりとくるかもしれない。
「貴様らぁ! ただ集まるだけで何分費やすつもりか!」
後方から、あの執事モドキの怒声が聞こえてくる。すると、微動だにしなかった車椅子の男の表情に変化が表れた。眉間に深々と皺が刻まれ、不快感が漏れ出したような溜め息を吐いた。そして独り言だろう「騒々しい」と呟いた。
「行動する時は口を閉じろ! 騒々しい! 黙って素早く動かんかぁ!」
間を置かず再び飛んでくる怒声に、車椅子の男は「お前が騒々しい」と、多分この食堂に居る奴ら全員が思っているであろう事を再び呟いた。すると、朗朗とした執事モドキの声が、こちらに向かって響く。
「申し訳ございません、旦那様。山野辺雫、沈黙の金を胸に抱き、早々に場を整えますので、今暫し旦那様のお時間頂戴いたします」
食堂内の空気が一瞬どよめいたが、すぐに後方から悲鳴が上がりだした。何事かと視線をやると、口を閉じた執事モドキが実力行使で新入生を誘導していた。早めに食堂内に入れてよかったと安堵しつつ視線を戻すと、車椅子の男は頬杖を崩し、頭痛を耐えるように指先で目元を押さえていた。
どうやら、メイドじゃなく執事を連れてくるような頭のおかしな金持ちの坊ちゃんは、この車椅子の奴ならしい。
しかし、今のやり取りはどうゆう事だろう。近くに居たオレの耳には確かに聞こえたが、車椅子の男の呟きは言葉通り、そう大きいものではない。合図を送った様子もなかった。……まさかテレパシー……いくら浮き世離れした雰囲気があるとは言え、随分と毒された答えが浮かんだものだなと自分に呆れた。
暫くすると、食堂内の騒動は収まり、ヒソヒソと控えめな話し声があちこちから聞こえる程度に静かになっていた。
すると、新入生の誘導が終わったのだろう、執事モドキが車椅子の男の元へ近寄り、手に持ったメモ用紙を恭しく差し出した。
手元に視線を落とした車椅子の男は、小さく溜め息を吐くと、
「口を開く事を許す。この件に対処しろ、雫」
実に『旦那様』らしい口調で、執事モドキに命令を下した。
「はい、畏まりました」
旦那様とやらに一礼する姿は、確かに執事の姿に見えもしたのだが、クルリと新入生側に振り返ると同時に、そうした謹みなど一瞬で霧散した。
「貴様らの中に、このオリエンテーションへの参加を拒む者が一人居る! 同室の者は分かるであろう、その者の所在を答えよ!」
食堂内にざわめきが広がる。大抵、オレたちみたく同室で集まって下りて来ているだろうから、確かに答えられないはずはない。けれど、当然のように誰も答えようとはしない。いや、答えられないのかもしれないな、オレもまだ同室二人の名前を知らないのだから。
「もしかして、春日野辺りがサボってるんじゃねーべか」
隣から由々式が小声で耳打ちしてくる。「そうかもな」とオレが答えると同時くらいに、明らかに苛立って来ている執事モドキは、最後通告のような言葉を口にした。
「答えなければ、その者が知れたとき、此度の件を同罪として連帯責任を負わす」
さすがに連帯責任と言われては、黙っている事は出来ない。その罪にどんな罰が付いてくるのか予想できないからな。後方でようやく踏ん切りが付いた誰かが立ち上がり、事情を説明し出した。
ジャラジャラと装飾品を山のように付けた男が居たが、同室の連中を面白半分にボコって「つまんねーの」と言い残して部屋を出て行ったとか。
サボりは予想通り完全にスバルだった。これから一緒に生活する連中をいきなりボコって、どうするつもりだろうか。……いや、心配するなら、スバルじゃなく、スバルと同室になった奴らの方か。
「どこに行ったか分からんのか! まったく、使いもんにならん奴らばかりだ!」
来て早々、災難に遭った連中に随分と酷い言い草だ。執事モドキは、車椅子の男にスバル抜きで始めるべきか、助言を求めたそうに振り向いたが、肝心の旦那様は我関せずと言った様子で、再び目を閉じていた。
その時、食堂の扉が大きな音を立てて開かれる。そして、執事モドキにも劣らぬ声量が室内を襲った。
「葛見ぃ! お前、一年を三年寮に寄越すとは、どういう了見じゃ!」
どうやら、スバルは三年寮の方で自室を確保すべく動いているらしい。そのバイタリティーには車椅子の男も驚いたらしく、しっかりと目を開けタイヤを操作して、三年生らしい闖入者の方へと体を向けた。
「すみません、先輩。僕の不手際です。すぐに回収いたします。……雫、行け」
「旦那様を呼び捨てるなど、言語道断!」
「雫。行け」
闖入者に殺気を向けていた執事モドキは、怒られた犬のようなしょげた有様で「はい」と渋々返事をする。
三年生と悔しそうな顔をした執事モドキが、食堂から出て行くのを見送った。大半の生徒は、スバルを見た事がないせいか、現状がどういった事態なのかいまいち把握出来ずにいるらしく、現物を知っているオレと由々式は、納得したような妙な顔をしていたのだろう。
「騒ぎを起こしている生徒に心当たりでもあるのか?」
突然、車椅子の男から声をかけられた。心当たりのあるオレたちは、どっちが口を開くか、互いに視線で押しつけ合い、結局少しばかし男と距離の近かったオレが答える事になった。
「学校へ来るバスが同じでした」
答えると、男は少し悩むような仕草を見せ、長すぎる間を取る。きっとオレが一言で答えられるように考えてくれたのだろう、実に的確な質問が続く。
「その生徒は、真っ当ではなかったのだな」
ただ一言「はい」とだけ答えれば十分なのだが、どうしてか躊躇われた。オレの中の物差しでは確かに異常だと思ったが、他の奴が見れば違った結論を出すかも知れない。ましてやここは悪名名高い圏ガクだ、スバルのような奴がゴロゴロ居ても不思議ではない。現に……、
「先輩はご自分の執事を真っ当だと思われますか」
あの執事モドキも冗談抜きで、真っ当とは言えないように思えたからだ。隣で由々式がギョッとした顔をしたが、ここは連帯責任だろう。面倒事を人まかせにするのは、どうかと思うぞ。
車椅子の男は、また考え込むように目を伏せ、会話の中に挟むには長すぎる間を取った。
「適切な表現ではなかったな。では、こう聞こう。その生徒は、我々が手を焼きそうか?」
男はそう言った後、微笑という表現が当て嵌まりそうな表情で「僕は自分の使用人に手を焼いている」と付け加えた。真っ正面からケンカ売ったようなモノだと思っていたので、そう返され少し面食らう。執事モドキの心酔する旦那様は、中々の人格者ならしい。
「それは保証するべ。正真正銘のキチだべ」
相手の懐が深いと分かるや、途端にしゃしゃり出て来た由々式が、オブラートに包んでくれていたモノをむき出しにして、色々と台無しにした。間違った事は何一つ言ってないだけに、オレの方へ寄越された、確認するような車椅子の男の視線に、小さく頷く事で答えると、男の顔は憂いに満ちて、実に重い溜め息を吐いた。何故だか、罪悪感を抱いてしまう。自分は何一つ悪くないのだが、不思議とそう思ってしまっていた。
車椅子の男は、スバルの回収を待つのは得策ではないと、オレたちの反応を見て悟ったらしい。
静かに移動する車椅子は、オレたちの目の前にあるマイクへと近づく。本来なら執事モドキが使うはずだったのか、マイクはかなり高い位置にセッティングされていた。席を立つべきか迷っていると、オリエンテーションの手伝いにかり出されたのだろう、二年生らしき一人がスッと歩み寄って、丁寧にマイクの位置を調整した。
「坊ちゃん、これでご不便はございませんね」
なんだか違和感を感じさせる言葉遣いに思えた。敬語のくせに上から目線と言うか……華奢な体付きをこれでもかと強調するような、勘違いした女のような痛々しさが印象的なそいつは、確かに女っぽい顔に女の腐ったような表情を乗せている。
「ああ、問題無い」
簡潔に答える車椅子の男を一瞥すると、そいつは非の打ち所の無い所作で、壁際に待機するように戻ったが、男に背を向けるやフンと不愉快そうに鼻を鳴らした。執事モドキの同僚か? と思ったが、こちらは普通の学生服のようなシンプルな格好をしている。
車椅子の男との関係が気になり、露骨に視線をやってしまったのは不味かった。そいつはオレの視線に気付き、
「何、なんか文句でもある訳? ふうん……随分と生意気な顔してるね、お前」
スッと近づいて来たかと思うと、いきなりオレの髪を掴むと、そのまま顔を机に叩きつけた。隣で由々式と小さいのが短く悲鳴を上げる。咄嗟に顔を横に振り、僅かに鼻を避けられたのは良かったが、打ち付けた顔よりも掴まれた髪がとにかく痛かった。このまま引き抜くつもりなのか、掴んだ髪を思いきり引っぱられ顔を上げさせられると、愉快と不愉快をない交ぜにしたような歪んだ顔を正面から拝むことになった。本当にロクなのが居ない。そいつの目を見ていると、自分も同じような顔をしているのだと実感させられて、心底不快な気分になる。当然、向こうも面白く思っていないのは明白だ。そいつが更に口を開こうとした所で、抑揚の全くない、さっきと全く同じテンションの、ある意味場違いな
「その手を離せ、操」
マイクを通さない車椅子の男の声が響いた。
「失礼いたしました。けれど、これは指導ですよ、坊ちゃん。礼儀を知らない一年への。我々二年に課せられた義務と言ってもいい。そんな非難めいた目で見られるのは心外です」
オレの髪から手を離したそいつは、悪びれる事なくヘラヘラと笑って答える。その言葉に興味を引かれ車椅子の男の表情を窺うが、別に非難めいた目などはしていなかった。単にオリエンテーションを始められないから止めろと注意した、そんな印象だけがあった。
髪を引き抜かれかけた頭皮のダメージと、打ち付けた頬の辺りがジンジンと痛む。この程度の仕打ちが日常茶飯事なのは、食堂内に居る教師らしきオッサンの態度でよく分かった。この事以外でも、執事モドキの実力行使だってそうだ、誘導なんて名目で行っていい類いのモノではない。けれど、まとめて黙認、か。これも生徒の自主性とやらを尊重した結果なのだろうか? しかし、先行きが不安になる校風をいきなり目の当たりにしてしまったな。
「あ、あの、これ……使って、下さい」
申し訳なさそうな小声が聞こえ視線をやると、顔色が真っ白になった由々式越しに、小さいのがハンカチを差し出していた。別に必要ない、そう答えようとした時、ふいに鼻の奥からドロリと一筋血が垂れる。まあ鼻血も出るわな、結構派手に打ち付けられた訳だから。手持ちにティッシュなんて物もなく、小さいのの申し出をありがたく受け取る。血を拭うが、後から後から溢れて来て、どうにもすぐに止まってはくれそうになかった。
ハンカチを鼻の穴に詰める訳にもいかず、少し上向き加減で押さえていると、投げ捨てるように机の上にプリントが置かれた。
「ちょっとは可愛げのある顔になったじゃない。まだ反抗的なその目は気に入らないけどね。まあ、今は見逃してあげるよ」
オリエンテーションのプリントを配っている鼻血の原因を作った奴が、ニヤニヤしながら、こちらを見下ろしていた。多少暴れても黙認されるなら、大人しくしている理由はない。その締まりの無い顔の矯正を手伝ってやろうと、立ち上がろうとして出来なかった。隣で放心していたはずの由々式が、かなりの力でオレを椅子に押さえつけていたからだ。
「おい、離せ」
「夷川、堪えろ。それだけは、やっちゃ駄目だ。ここで先輩に手を出したら終わりだべ」
由々式の必死な顔を初めて見た。それは当然と言えば当然なんだが、こいつでもこんな顔出来るんだなと、茹で上がった頭に冷水をぶっかけられたような気分になった。
「良い友達が居てよかったね。ボク的には残念だけど、さ」
嫌らしい笑いを残して、そいつは自分の割り当てられた仕事に戻って行く。立ち上がる理由が去ったと言うのに、オレの体を押さえ続ける由々式に、いい加減離せと言うと、なんとも情けない顔に戻って一気に脱力したようだった。
「い、生きた心地がしねーべ」
机にぐったりと伏せる由々式に、大きいのが苦笑しながら「お疲れ」と声をかけた。
「短気起こすのも大概にするべ」
責めるような視線を寄越す由々式に、鼻血の止まらぬ顔で同じような視線を返してやった。別にいきなり殴りかかろうとした訳ではないのに、どうして短気などと言われるのか不思議だ。むしろ気の長い方だろうが、一度は何事もなかったように流してやったんだから。
「ネットで調べたんじゃなかったのか? 圏ガクでは、わしら一年は」
『手元に資料は渡っただろうか』
由々式が呆れた顔で説教モードに入ろうとした時、マイクを通した車椅子の男の声がそれを遮った。
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