第2話 護送中~底辺クオリティー~

 圏ガク。


 圏外学校。


 正式名称とは違う、もちろん通称だが、その学校を大抵は『圏ガク』と、この別称で呼ぶ。そこに勤める教師ですら、いや、そこで生活しているからこそ、なのかもしれないが、当然のように男は圏ガクと言った。


 学校や家庭で問題を多く抱える奴、要するに札付きの問題児が集められる全寮制の男子高校であり、学校という体でありながら、刑務所……は言い過ぎだとしても、更正施設という側面を持っているという。


 生徒が逃げ出さないように、人里離れた山奥それこそ陸の孤島とでも言うべき場所に存在しており、ネットという現代人のライフラインの一つが断絶している。


 他にも生徒間で強力なカースト制度が敷かれているとか、殺人や放火など洒落にならない事をやらかしてる奴が、必ず一学年に一人か二人は紛れ込んでいるとか、教師はもれなく元ヤクザだとか、男しかいない上に娯楽が殆ど無いせいで、山を下りる頃には半分近い生徒がホモになっているとか、圏ガクのろくでもない噂は山のようにあった。


 中学で連んでた奴らに圏ガクに行く事になったと話したら、冗談だと思われたらしく、爆笑された後そんな話をいくつか聞かされ、多少なりとも不安になってしまい、ネットで検索をかけたら似たような噂がゴロゴロ出てきたのだ。


 最後の更新が何年も前の、随分と放置された元圏ガク生のブログで『入学裏手引き』なる記事を真に受けて、色々と入念に準備もしてきたのだが、その噂は予想以上に的を射ていそうだった。


 バスが走りだして十分以上経った頃だろうか。

 田んぼや畑ばかりの景色が続き、とにかく窓の外は閑散としていた。すれ違う車もなければ、田んぼや畑で作業している人の姿もない。

 目的地にどれくらいで着くのか見当も付かないので、緊張感はすっかり鳴りを潜め、仕方が無いので眠気の誘うまま、ウトウトと舟を漕いでいたら、突然バスがクラクションを鳴らし、ぼんやりしていた意識は一気に覚醒させられた。

 何事かと驚いて周りを確認すると、バスの先に学生らしい人影が現れていた。

 大きなリュックを背負い、腕の中にも結構な大きさのスポーツバックを大事そうに抱えているそいつは、圏ガクのイメージとは程遠い、極々フツーの奴に見える。

 オレの時と同様に、バスはスピードを落とし徐行を始めたが、そいつは視線を足下に向けて、まるでバスに気付いていないかのようだった。


「そっちじゃねぇぞ! こっちだ! こっち!」


 風通しの良い窓から顔を出して、男が大声で呼びかけるが、これまた反応は無い。運転手が気を利かせてかクラクションを連発させても、まるで顔を上げず、そいつは黙々と歩きバスとすれ違うや猛然と走り出した。


「脱走者第一号だな」


 男と運転手はゲラゲラと笑い、バスを停止させた。男はバスの窓から慣れた様子で外に飛び出ると、それこそ亡者を追いかけ回す鬼のごとく、腹の底から地鳴りのような恐ろしい声を上げ、恫喝しながら猛追をかける。


 さすがに成り行きが気になり、席を立ち窓の側へと移動すると、先を走っていた奴はこのままでは逃げ切れないと悟ったのだろう。

 大事に抱えていたスポーツバックを道端に捨て、更に加速していた。その足は遠目に見てもかなりの速さで、もしかして逃げ切るのではと思ったのだが、男が捨て置かれたスポーツバックを拾い上げ、全身を使って砲丸投げを彷彿とさせる勢いで放り投げると、その放物線上にそいつの背中があり見事にぶち当たる。


 蛙を踏みつけたような悲鳴が聞こえ、全てがアッと言う間に片付いてしまったようだった。脱走者が自力で立ち上がる前に、男は逃げられぬようしっかりと拘束していた。

 哀れ脱走者は、引きずられながら、バスまで男に連行されて来た。


「集合場所はこの先の駅前だって書いてあったろうが、逆走してんじゃねーよ、この阿呆が」


 少し息を弾ませながらバスに戻って来た男は、自分の手元へと視線をやりながらぼやいた。男の横で文字通り首根っこを引っ掴まれた脱走者が、ふて腐れた顔しながら口を開く。


「それぐらい知ってるべ。集合場所を横切って来たんじゃから」


「分かってんなら大人しく待てや! 手間かけさせてんじゃねぇーよ阿呆が」


 男の語尾の「阿呆が」を気にする風もなく、けれど脱走者は声を荒げた。


「あんなおっかない連中の中に入っていける訳ないべ! わしみたいな一般人が、地元民装って思わず素通りしてしまうのはしょーがない事だべ」


「お前は装う必要ねぇだろ、由々式。地元じゃねーかてめぇは」


「そうだべ! だからって、それがなんだべ!! そんな理由で来るような学校じゃねーべ。近いからって、なんで圏ガクなんだべ。父ちゃんも母ちゃんも頭おかしいべ!」


 脱走者第一号はユユシキと言う名前らしい。なんともローカルな喋り方のせいか、騒々しい事この上なかった。食ってかかるように次々と喋り立てるので、次第に男の顔が不穏な表情へと変化しているのだが、由々式はまるで気付いていない。


「ヤンキーの巣窟へ放り込まれるくらいなら、学歴なんていらねーべ。中卒で上等だべ!」


 黙ったまま、おもむろに男は由々式の持っていたスポーツバックのチャックを開けると、中を確認しだした。すると当然のように非難めいた声が上がる。


「勝手に何するだ! ププププライバシーの侵害だべ!」


「いやな、随分と荷物が少ねぇなあと思ってな。俺は心配してやってんだよ。分かるか」


 にやりと不敵に笑う男から、何かを感じ取った由々式は、形振り構わずとはこの事だろう、男の足に縋り付いて泣き喚き出した。

 

「後生じゃぁ、どぉーか離してくれぇ! 見逃してくれぇ! わしを家に帰してくれぇ!」


 いい加減、二人のやり取りにウンザリして来たのだが、それはオレだけではなかったらしく、バシーンと大きな何かを叩く音が聞こえてからは、バスは何事もなかったように静かになった。一番前の座席から、だらりと伸びた腕はピクリとも動かない。


 学校に着く前ですら、これからの三年間が穏やかに過ぎて欲しいという希望を木っ端微塵にするのだから、溜め息の一つも零れそうなものだが、その余裕は訪れそうになかった。


 一般人が思わず素通りしてしまう状況ならしい、本来の集合場所が目の前に迫っていたからだ。


 バスが到着したのは、さきの駅をそのままコピーして張り付けたような、本来ならば閑散とした駅前だった。廃線となった元は駅だった場所と言っても、誰も疑わないような郷愁すら漂う廃墟然とした風景が、異様としか言いようのない様相を体している。


 本来の風景を絵画に例えるなら、十数名の人間がそれぞれ牽制するように一定の距離を置くそれら個々は、景色にぶちまけた派手な絵の具だと言えた。


 派手なのは頭のテッペン髪に始まり、爪先の靴に至るまで、絵の具というくらいに色とりどりだ。規定の制服がない圏ガクは、いわゆる私服で授業を受ける事になっている。オレのように考えるのが面倒くさくて、中学の制服を着ている奴も数名いるが、どう考えても学校へ着て来るような服装ではないだろうと、一瞬で視線を外さざるを得ない奴まで居る。


 どうして即座に外へと向けていた視線をバスの中へと戻したのかと言うと、派手なそいつらは物珍しくは有るが、見る、という行為ですら関わりになりたくなかったからだ。それぐらい、そこはヤバい雰囲気の奴ばかりが集まっていた。……由々式が地元民を装って素通りして来た理由は嫌と言うくらい分かりすぎた。


 もし集合場所を一駅間違えていなければ……この中で一人放置されていたらと思うと本気で笑えない。


 この異様な集団相手に点呼じみた事を始めるのだろう、バスから男が降りようとした時、ふいにエンジンを停止したはずのバスが揺れた。


「おせーよ。つか、なになに? このバスマジで走んのヤバくね? ホーリツ違反なんじゃねーの」


 全開の窓から軽々と飛び乗って来た絵の具が、バスの中に飛び散る。目の前に現れた奴は、思わずそう感じてしまうくらい、とにかくチカチカしていた。


 全体的には黒を基調とした服装なのだが、そこかしこにジャラジャラと音が鳴るくらい装飾過多。金銀の様々な形をしたアクセサリーが、付けれるだけ付けられている。


 襟足の長い髪もかなり明るめの茶髪で、無造作に留められたペアピンすらも、服装に合わせたゴツい物だった。


 中性的とでも言えばいいのか、言わせたいのか、その顔には化粧すら当然のように施されているようだ。たまにテレビとかで見かける、パンクとかロックとか、そういう類のファッションだとしか分からないが、そいつはこの場で異様としか言いようのない存在感があった。


「窓から入るんじゃねーよ、馬鹿野郎!」


 窓から飛び出す男が、もっともらしく怒鳴りつけた。


「だっておせーんだもん。いいじゃん別に。どーせ乗るんだし」


 肩を竦めて軽口を叩き続けるそいつを、舌打ち一つで黙認する事にしたらしく、男はバスから降りてしまった。


 バスの外では出鼻を挫かれたと言わんばかりに、八つ当たり気味な男の声が聞こえてくる。外で待たされている連中がざわついていたが、同じようにオレの胸中もざわついていた。


 カチャカチャと音が鳴る。振り向いたそいつは、バスに先客が居たのだと、ようやく気付く。もちろん視線の先に居るのはオレな訳で、目の前に現れた脅威とでも言うべき異様な存在感と、問答無用で対峙する事になってしまった。

 ジッと野良猫のようにオレを見つめるそいつは、身動き一つしていないのに、なぜかチャリチャリと音の気配が漂う。


「オレっちより先に動いた奴いなかったのになぁー。んーもしかして……」


 独り言なのかブツブツとぼやきながら首をゆっくり傾げ、一歩一歩体をゆらしながら歩くそいつは、得体の知れない不気味な印象を大盤振る舞いしながら近づいてくる。男の時と違い、バスは微塵も揺れず、足音すらないのに、金属の擦れる音だけがしていた。


 すぐ側までやって来ると、そいつはオレの方へとのぞき込むような視線を遠慮なくぶつけてきた。そして、すっと上げた指先を突きつけながら、


「ユーレイとか?」


口の端を吊り上げ、随分とつまらない事を言った。


「んな訳あるか。一駅間違えたんだよ」


 少し警戒しながらも答えを返すと、そいつは何がおかしいのかケラケラと笑い出す。極力関わり合いになりたくなかったが、無視するというのも相手を刺激する。


 視線をその馬鹿笑いを上げる横顔へ向け、女のような小綺麗な顔を拝んでやった。目と口以外のパーツは小さく、全体的に見ても整っており女受けのよさそうな男だと思ったが、猫のようなまん丸の目には好奇心というには歪な、もっと攻撃的な色が映し出されているように感じた。その視線を向けられている肌がピリピリと痺れる、不思議な錯覚に陥る。頭の中で警鐘が聞こえる。


「そいつはザンネン。いちばんノリしたかったのになぁ。ま、いっか。どーしてか、そんなにムカついてねーし。ん、どーでもいいや」


 背中を向けたそいつは、なんの迷いもなくオレの隣へと腰を下ろした。どうしたものかと一瞬悩んだが、気になってしまったと言うか、出来れば隣に居てもらいたくないという気持ちが勝り、オレは窓の外を眺めるそいつに声をかける。


「そこ、イス汚れてるぞ」


「んー、だいじょーぶ。濡れてねーし、乾いてっからヘーキ」


 しかし、見事に目論見は外れてしまった。それだけでなく、そいつの興味が窓の外から自分の方へと向くように仕向けてしまったようなものだった。小さな子供のような無邪気さで、そいつがこちらを窺ってくる。


「なー、割り込みクンは名前なんてーの?」


 後悔先に立たず、唯一の救いは、そいつの機嫌が良さそうな事ぐらいか……恐らくそれも『今は』という限定的なものだろうが。


「オレはリッカワスバル。スバルでいいよ」


 一瞬の後悔の間に、そいつはスバルと名乗り、オレの答えを何がそんなに楽しいのか、ニコニコとニヤニヤを足して割ったような顔をして待っている。


「……夷川、清春」


「エビスガワキヨハル、ね。ん、覚えた」


 覚えられてしまった。後悔が次々に襲いかかってくる。見た目の印象だけで決めつけるのは早計かもしれないが、どうしてか警戒心は益々強くなっていく。それは、スバルだけが原因と言う訳ではない。バスを揺らしながら、次々と乗り込んで来る異常事態に、思考回路がパンク寸前なのかもしれなかったからだ。


 バスやイスに何か恨みでもあるのかと思わずにはいられないくらい、そいつらは一挙手一投足が荒っぽい。ガンガンと踏みならすバスの床は車体全てをギシギシと揺らし、ドスンと盛大に腰を下ろす度、右へ左へ大きく傾く。


 こちらには目もくれない奴、威圧するような視線を向けてくる奴、いきなり小競り合いを始める奴ら(即座に男が鉄拳制裁を下したが)、実に様々と言えば様々で、あえて共通点を探すなら、お互い友好的な雰囲気が微塵もないという一点に尽きる。


 そんな連中と比べれば、少々馴れ馴れしく派手派手しい奴であろうと、隣席のスバルは真っ当な部類の人間のように思えた。隣に視線をやれば、スバルは機嫌良さそうに何かを考えているようだった。己の現金さに呆れるが、その姿を見てどこかホッとしている自分がいた。


 オレが妙な安心感を自覚している内に、バスは最後の乗客を迎え入れていた。


 最後に乗車して来た奴は、どう見ても未成年には見えない。他の奴らを見ていても思ったが、もしかしたら社会人とでも言うのだろうか、子供ばかりが入学しているのではないのかもしれない。それを証明するように、唯一空いていたスバルの前の席へと座ったそいつは、席に着くなり懐から慣れた手つきで煙草を取り出し、口先で一本咥えた。流れるような動作でライターに火を付けるまで、本当に数秒。なんとなく目で追ってしまった先に見てしまう。


 床に転がった先っぽが焦げた、僅かに煙りを上げる煙草。


 あっと言う間に異常な色に変わる老けた同級生になる男の顔。


 そして、その首に深々と食い込む、アクセサリーが所狭しと填められている指先。


「テメェ、いきなりオレを殺そうとしてくれてんじゃねえよ」


 たった数秒で、隣に知らない奴が立っており、煙草男を問答無用で絞め殺そうとしていた。


「テメェの吐いた汚ねぇケムリで、オレっちの肺が汚れたらどう責任取る気だ! テメェの屑みてぇな命で釣り合うとでも思ってんじゃねーだろうな!」


 声、目つき、雰囲気、全てが別物だった。

 本当に別人であるかのようなスバルの豹変振りに、情けない事に息が詰まった。


 顔色が白くなり出した口から、汚い泡が零れ出す頃、大股で近づいて来た教師の男は、床に転がっている煙草一式を拾うと「学校施設内では全面禁煙だ、馬鹿野郎」と煙草男を更にどついた。


「春日野! お前も警察沙汰にしたかねーだろ、とっとと手ぇ離せ、阿呆が」


 完全に目が据わったスバルを見下ろす男の様子は、由々式の相手をしていた時と大して差がない。てか、カスガノって誰の事だ? リッカワじゃないのか?


 無言で睨み返すスバルは、力任せに半ば持ち上げていた煙草男の首から手を離した。男はイスに崩れ落ちた煙草男の容体を、面倒くさそうな手つきでおざなりに確認すると、自分の席へと戻ってしまった。もちろん、気を失っているであろう煙草男と、いきなり人の首を締め上げる危険人物を放置して、だ。


 猫のようなしなやかさは何処へやら、着席一つでこうも感情表現が出来るのは感心に値する。明らかにスバルの様子は不機嫌さを計る針を振り切った状態だと分かった。視線をそちらに向けずとも。


 学校まで、どれくらい走らなければならないのか全く分からなかったが、酷く憂鬱な、それだけで済めば御の字な道中を思うと、体中が緊張で固くなる気がした。


「えべっさん」


 バスの揺れ一つが、隣席の危険人物にどれほどの影響があるのか、心配になってしまうくらい神経質になっていたオレの耳に気安い声が聞こえてくる。声の元を辿れば、当然のように顔は真横を向く。


「ガム食う?」


 差し出されたガムを持つ手は、ついさっき人の首に食い込んでいた手と同じだ。いらないと答えるだけで、背中を嫌な汗が流れた。気を悪くしたふうもなく、スバルは自分でガムを噛み始める。金属音の中にクチャクチャというガムを噛む音が混じり出す。恐る恐るスバルの姿を直視すると、何事もなかったかのような、楽しそうな表情に戻っていた。オレの視線に気付くと、


「これクソまじぃ、ちょい食ってみ」


嬉しそうに笑って、手の中のガムをこちらに放り投げた。


 その無邪気な態度は、オレの中の不安を拭う事無く、さらに分厚く不安を塗り重ねた。必死に自分の警戒心を悟られないよう、受け取らざるを得なくなったガムを口に放り込んだ。


「……不味い」


 苦みと辛みと妙な甘みが舌に広がり、思わず口の中の味覚を吐き出すように呟くと、スバルはケラケラと本気で楽しそうに笑って見せた。


 乗り心地の悪いバスは延々と同じ景色を行く。山奥にあるとは聞いていたが、まだ山にさえ入っていない。元々あまり乗り物が好きではないせいか、窓の外を眺めているのさえも苦痛に感じてくる。そうなると、少々危険が伴おうと相手が居るのならば時間を潰してしまうと言うものだろう。


 バスのエンジン音やらで静かと言ってしまうのも違う気がするが、殆どの人間が口を噤んでいる沈黙が漂う車内で、何にも遠慮せず喋り続けるスバルと、どうでもいい話をして過ごした。


「さっき春日野って呼ばれてなかったか? リッカワじゃないのか?」


 あまり変な所を突いて、絞め殺されても困るのだが、どうしても気になってしまい疑問をそのまま聞いてみた。


「あー、アレね。アレもいちおうオレっちの名前かなー」


 相手の表情が一瞬で変わるのでは、と身構えたが杞憂に終わる。


「春日野遼一ってのが、今は使ってねーけど元からあった方。なんか知らん間に付けられてた名前で、気に入らなかったから変えてみた」


「知らん間にって……じゃあ『リッカワスバル』ってのは本名じゃないんだな」


 割とふざけた答えだが、コイツの言動を見てると「そうなのか」程度の感想しか浮かばなかった。自分の名前が気に入らないって所は共感も出来たせいかな。そうゆう事なら本人の希望通り『春日野』ではなく、『リッカワ』と呼ぶことにしよう。


「言ったじゃん。最初に。スバルでいいって。フルネームの語感は気に入ってるけど、どっちかならリッカワよりスバルの方がカッコイーだろ」


 その感覚は分からないが、なら本人に対してもスバルと呼ぶことにしよう。


「もしかして、えべっさんも清春って名前で呼ばれたい人?」


 その気遣いは無用だった。……まあ、えべっさん呼びもどうかと思ったのは事実だが。そう呼ばれるより何倍もマシだ。


「いや、オレも自分の名前、気に入らないから……名前で、清春って名前の方で呼ばれるとキレる」


 興味の有る無しが分からない相槌を打たれた。けれど何か思いついたと言わんばかりに、パッとスバルの表情が変わる。


「ならー、オレっちが新しいの考えてやろーか!」


「断る」


 下らない提案を即座に切り捨てると、隣でブーイングが起きた。


 どうして新入生を迎えに来るバスが、ここまで酷い状態なのかを納得出来る状況だった。

 学校があるらしい山の麓で、薄々だが嫌な予感はしていた。山が丸ごと学校の敷地内だと考えると、そこは校門とでも言うべきだろうが、どっから見てもそんな牧歌的なモノでは無かった。山の入り口は、オレらを山奥に放り込んで、殺し合いでもさせるつもりかと疑いたくなるような、物々しい雰囲気の有刺鉄線が張り巡らされている。それを挟んだ向こう側は、自然とほぼ一体化した通学路だ。かろうじて道として見えん事もない、そんな場所へバスは躊躇無く突っ込んで行く。普通乗用車くらいなら、確かに問題無く走れるのかもしれないが、いくら小型と言えどバスはでかい。小さな穴をこじ開ける勢いで走るバスは、大きく道の方まで伸ばされた木々の枝や、悪い時には木そのものをへし折って進んでいく。


 窓ガラスのない席へ座った奴ほど悲惨なのは一目瞭然で、車体を撫でるよう折れずにしなる枝が窓からその横っ面を叩いている。

 もちろん、道と言っても舗装された道路じゃない。車体を一層激しく揺さぶる原因は、石なんてかわいらしい物じゃなく、岩だと思った方がよさそうだ。シートベルトのない車内では、前の座席を手摺り代わりに、必死で掴まなければならなかった。


 それぞれ大なり小なり登校の洗礼を受けている中、会話の途中でいきなり寝落ちしたスバルだけが、冗談抜きでバスが大破しそうな揺れを物ともせず爆睡していた。


 窓から入って来るムッとする濃い森の臭いと、激しい揺れのせいで、すっかり酔ってしまった。乗り物が苦手とは言え、そうそう体調を崩す程のものではなかったはずだが、鬱蒼とした森を三十分近くも走れば、平常通りで居られる方がどうかしているのだ。


 日の光が届く、圏ガクへ到着した時、バスの中はボロボロの新入生で一杯だった。その中で、顔色一つ変えずに「とっとと下りろ」と指示を出す男を見て、もしかしたら本当に人ではなく鬼なのかもしれないと馬鹿みたいな事を考えてしまった。


「夷川、そこで寝てるの起こしてやれ」


 文句を口にしながらも続々と下りていく奴らの列に加わろうとして、男から名指しで厄介な事を押しつけられてしまった。視線を横にやれば、信じられない事に気持ちよさそうに熟睡したスバルの姿と、スバルに首を絞められ気絶した煙草男がのびている。前者は眠りを妨げると祟りがありそうだし、後者は起こして起きるものなのか疑問だ。


「スバル、起きろ」


 いきなり掴まれない距離を保ちつつ、とりあえず声を掛けてみるが、全く反応がない。このままでは埒が明かないと、覚悟を決めてスバルの肩を揺する。


「学校着いたぞ、起きろって……っ!」

 

 何かあったら男が助けに入るだろうと、楽観視していたのもあるが、オレの襟ぐりに伸びてきた手の早さに血の気が引く。咄嗟に逃げようと後ろへ下がるが、寝起きとは思えない力で引きずられる。


「んな嫌そーに起こさなくてもいーじゃん」


 目と鼻の先にスバルの気怠い顔がある。機嫌が良いのか悪いのか読めない、そんな色の奴の目から、目を離せずにいたら、ふいに鼻先を生温かい何かが撫でた。濡れた感触に舐められたのだと頭が理解すると、後先考えずに掴まれていた手を振りほどいて離れていた。


「次、こんな起こし方されたらぁ……噛んじゃうかもねん」


 絶句するオレにニヤリと笑って見せるスバルは、バスに入って来た時と同じような軽い足取りで前を行く。


「テメェもいつまで寝てんだよ!」


 一瞬で声の調子が変わったと思ったら、スバルは前の座席へ問答無用に蹴りを入れた。呻くような声が聞こえ、オレがやったと思われたら堪らないと、慌ててバスを下りる。


 気持ちの悪い鼻先を袖で拭いながら、外へ出ると、そこは場違いなくらい普通に学校が広がっていた。


 森と学校の境界線の出発点である校門前にバスは停車していた。圏ガクは至って普通の門構えで、違う点はぐるりと敷地内を囲う高いフェンスの存在くらいだろうか。フェンスの外側は、薄暗い森が広がっているが、フェンスの内側は、日差しを遮る木々もなく、だだっ広いその全容が窺える。


 校門の真ん前にあるのが校舎だろう、お世辞にもキレイとは言い難いが、腐りかけの木造という訳でもなさそうだった。規模も大きくもなく小さくもない恐らく一般的なもので、町中にある学校との違いは運動場の無駄な広さくらいだと思う。校舎に併設されているのは体育館。そして、少し離れた先にあるのが、学生寮だろう。遠目に見てもやたら真新しい建物と、学校と同じくらいの築年数のボロい建物の二棟が視界の端にある。


 それらと比べると小さめの部室棟らしき物さえあるのは驚いた。部活なんて健全な物が、圏ガクにあるのかという少々失礼な驚きなんだが……。


「そこぉ! 寝とんのかぁ! さっさとせんかい!」


 ぼんやりと眺めていると、門の側に控えていたこれまた人相の悪い教師陣が、怒鳴りつけてオレを急かした。荷物検査らしいが、その脇にはおそらく新入生の持って来たカバンだろう、それが山のように積まれている。


 中を確認するだけなんじゃないのかと思い、チャックを開こうとすると、素早く丸ごと持って行かれてしまう。カバンと引き替えに生徒手帳や『入学の手引き』と書かれた冊子を押しつけられ、同じバスに乗っていた連中が集められた場所へ突き飛ばされた。


 同じバスに同乗して来た教師の男は、全員揃っているのを確認するように一人一人指さして数えると、面倒くさそうに口を開いた。


「新入生が全員登って来たら、施設の説明やらを寮の食堂でやる。それまで、お前らは自室で待機だ。一年の寮は二年と同じ、あっちの古い方の建物になる。寮の玄関に部屋割りを張り出してあるから、とっとと行け」


 それだけ言うと、男は再びバスに乗り込み、バスは猛然と走り出した。バスがあの一台とは考えられないが、きっとあと何往復かはしないといけないのだろう。他人事だと言うのに、考えるだけで気持ちが悪くなった。


「チッ、んだよ、あのキレーな方じゃねーの? なんかムカツクなぁ」


 少し離れた場所でスバルが悪態を吐いていた。その軽口に周囲がどよめいて、ザッとそれぞれ寮に向かって黙々と歩き出していた。オレもこれ以上スバルと絡むつもりはなかったので、同じく無言でそれに続いた。冗談のつもりだろうが、平気で人の顔を舐めるような奴と連むつもりはない。寮で同室にならないよう祈りながら、人気がなく静まり返った校舎を横切った。

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