第36話

キクは、二口が女と一緒に出て行くのを知っていた。少し浅黒く、細身だがしっかり出来上がった身体をしている二口は女にもてる。こういう時は、直ぐに相手を決めてさっさとことを決めてくる。芳一と自分の横にも女がついて、乙の横には男が酌をしている。たっぷり何かの薬がはいった酒を、とうに三人とも気が付いているが気が付かないふりをして飲み続けている。日ごろの鍛錬でこの位はなんともない。どうしょうかと考えていると

芳一さんが、笑いながら側の女に「こいつは女は駄目だと」言ってきた。別に女が駄目ではないが、安い白粉の匂いは好きじゃない。ああ、芳一さんが相手をしてくれるのか、まあ甘えておけばええかと思っていると見映えのええ男が側に座った。暫くすると乙ねいも数人の男に運ばれるように座敷を出て行く。ああ、みんな始めたんやと思いながら側の男の話を聞いていた。この男が、相手か・・・

「私ね、結構な座で役者をしてたんですよ。これでも少しは知られたところでね・・・」

自慢話か、にこにこ笑いながら人の身体に触ってくる。嫌な奴やな、二口の方がええ男や

「そうですか。江戸の仕事が少ないもんで、存じ上げずに失礼いたしました」

「いや、こんなに綺麗なお人が・・・驚きました。今の一座を抜けて江戸で役者をすれば直ぐにでも江戸一番の役者になれますのに、いかがですか。お力添え致しますよ」

男は、そう言って酒をすすめてくる。ええかげんに面倒になってきたが、もう少し付き合ってやるわ

「いや、こないな田舎者が、お江戸でなんて滅相もございません」

「そんなことはございませんとも。見目もよいし、声もよい。その上人柄も良さそうや。直ぐに贔屓が付きますよ」

男は、ずいと膝を進めるとキクの腰を抱いてきた。キクの鼻がピクリと動く、もう少しだけ辛抱やと思うのだが、男の安い香の匂いがやたらと鼻についてくる。少し顔をそむけるのだが

「そんなに恥ずかしがらずに、こちらを向いておくれ」

男は、顎をとってこちらを向かせようとする。キクは顔を背けて顔をしかめていたが、声だけは恥じらいを含んだ声で

「いやや。恥かしい」

自分で言いながら気分が悪い。ああ、はよ帰って来いよ。いつまでこんな茶番をさせるきやねん。こちらがいらいらしているに気付きもせずに男は、べたべたと体に触れてくる。

キクの鼻が微かに動くと突然、男の方に振り返る

「兄さん、べたべた触らんといて。そんでな、臭いやん。さっきからその安い香が臭うて臭うてたまらんねん」

そう言ってにっこり笑った。男は一瞬、あっけにとられたが次の瞬間

「ほう、そんな口が聞けるのか。こりゃ躾けがいるな。せいぜい稼いでもらわないと困るのでね」

そう言うと平手でキクの顔を殴った。キクは口の端が切れたが、それでもにこにこ笑っている。

「ああ、痛い事が好きなんだ。それじゃあ、ゆっくりやろうか」

男がもう一度、手を挙げると

「動くな」

男の背後で、声がした。その途端に男の身体は、びくとも動くことが出来なくなった。男は何が起こったか分からぬまま、キクの顔を眺めるしかなかった。キクはもう男のことなど眼中にない様子で、背後の二口に話しかけていた。

「遅いで、いつまで姉ちゃんの相手してんねん。おかげで、こいつに一発殴られたわ」

「えっ、なに殴られてんねん。ちゃんと得物を持ってたやろ」

二口は、キクと話ながら動けない男の頬を打った。顔を打っても男の身体は、びくとも動かない。

「持ってるけど、面倒くさい。二口の匂いもしたし、自分でやらんでもええかなって思たんや」

そう言いながらキクは、どこからか薄い鋼の札を目の前にだした。南蛮カルタに模したそれには、西洋の子鬼の絵が描いてあった。

「ああ、もうそれ使えばすぐやろ」

「まあな。でもそいつ、俺には勝てるって思うとったみたいやで」

キクが手を出すので、二口は当然のように手をかしてやる。キクは立ち上がって、男のそばを通り過ぎるその時に、男の首を一つ優し気に撫で上げ、男に言った。

「さいなら」

キクは二口の方に向き直り

「二口、早よ行こ。なんか、火薬の匂いがする・・・」

「おお、そろそろ、皆を探そか・・・ちょっと待ってて」

二口はもう一度、男の側によると小さな声で

「静かに、確かめてみい」

そう言いおくと二人は、話ながら座敷をでて行った。

やがて残された男は、手が動く事に安堵した。そして、先ほどキクに撫でられた首にちくりと痛みを感じた何かと思い、手をやると生温いものに触れる。その手を見ると血が付いている。次の瞬間には、血が溢れて止まらぬ。首を押さえても血は止まらぬ。誰かに救けを呼ぼうとしても声が出ない足も動かない。男は、先ほど二人が出て行く時に二口と呼ばれた男が小さな声で、「確かめてみればよい」と呟いたのを思いだした。ああ、このことか・・・やがて気が遠くなり、そこに倒れ込むと男は辺りを真っ赤に染めて動かなくなった。

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