市side

189

「これは姫君、まだ上手く変身出来ないそうだな」


「……はい。申し訳ありませぬ」


「我ら一族は、今宵ルーマニアへと旅立つ。姫君は馬車でこの地を離れるがよい」


「はい、ロイド公爵、公爵夫人、短き間でございましたがお世話になりました。ありがとうございました」


「なんと他人行儀な。姫君はジョエルの妻となるお方、我らは姫君を我が娘だと思っていますよ」


「ありがとうございます」


「ジョエルも共にルーマニアに旅立つのだろう?」


「はい。イチ、馬車の用意は出来ている。道中気をつけて行くのだよ」


「はい、皆様もどうかご無事で……」


 わたくしはジョエルのご両親に挨拶を済ませ、ジョエルと大広間を出た。大広間にはブラムやロイド一族も集まっていた。


「イチは本当に人間なのか?日本からタイムスリップしたとは、本当なのか?」


「ジョエル様……本当でございます」


「俺が君を愛した……。わかる気がするな。その紅き唇を俺に差し出せ」


 わたくしはジョエルの言葉に、ドキリとする。東ローマ帝国ギリシャから戻ったばかりのジョエルが、同じ言葉で囁くなんて……。


 二人は同一人物なのだと、改めて実感した。


「そんな困った顔をするな。冗談だよ。さぁ姫君、もう一人の俺のもとに早く行くがよい。俺達もルーマニアに旅立つ」


 わたくしはジョエルと別れ、客室へと向かう。


 客室は二階の一番奥の部屋。客室に向かう途中、二階の広間の前を通らなければ行くことができない。


 二階の広間の窓から、何百もの大蝙蝠が夜空に一斉に飛び立つのが見えた。


 思わず広間に入り、窓際に近付く。

 これで、ジョエルの家族を救うことが出来た。


 吸血鬼が日本にタイムスリップすることはないだろう。戦国の世も吸血鬼に怯えることはない。


 あとは……

 ジョエルをこの地から逃がすのみ。


 窓際に飾られた薔薇の花に触れると、指先にチクリと痛みが走り血が流れた。


 薔薇の棘で傷付いた指先をハンカチで押さえ、二階の広間を出ようとした時、ドアがバタンと閉まり、窓際のカーテンがフワリと揺れた。


 背後に人の気配を感じた。と、同時に口を封じられ、ツンと鼻をつく薬品の匂いがし、わたくしはそのまま気を失った。






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