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 永禄十年、茶々を身籠っておった時じゃ。


 わたくしは情を通じた茶々の実の父親である殿方を、いまだに思いだせぬ。


 あの時も……

 確かに……首筋に痣が……。


 同じ位置に……

 同じ赤痣……。


 丈に口吻をされ、吸われた首筋……。


 丈に……?

 まさか……?


 ――『イチは悪い子だな』

 ――『イチは俺のものだ』

 ――『イチ……殺るならやれ』

 ――『お前に殺されるなら……本望だ……』


 断片的に現れては消える微かな記憶。


 ――『イチ……愛してる』

 指先がわたくしに触れる。


 ――『その紅き唇を俺に差し出せ』

 形のいい唇が、わたくしの唇を塞ぐ……。


 昨夜……

 丈がわたくしに申した言葉を、わたくしは以前殿方に囁かれたことがある。


 金色の髪……

 青き……瞳……。


 わたくしは思わず立ち上がる。


「お市の方様、籠が参りました。お市の方様!?どちらへ……」


 わたくしは寝所に向かい、天井を見上げ叫んだ。


「丈よ!丈はおらぬか!丈……!丈ー……!」


 確かに……

 聞いたのじゃ。


 あの言葉を……

 遠い記憶の中で……。


「丈……お願いじゃ。姿を見せてくれぬか……。丈……教えてはくれぬか。わたくしに……本当のことを……」


「お市の方様、しっかりなされませ。お市の方様は柴田殿の元に嫁がれるのですよ」


 天井は静まり返っている。

 丈の姿はもうどこにもなかった……。


 泣き崩れたわたくしの体を侍女が支え、わたくしと三人の姫は籠に乗せられ清洲城を出立した。


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