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「丈……」


「なぜ泣くのです」


「わからぬ……」


「泣くな……イチ……」


 わたくしは丈を見上げた。丈の覆面に手を掛ける。


 はらりと覆面が外れ、口元が見えた。

 形のいい唇に、どこか懐かしさを感じた。


「なぜ……わたくしをイチと呼ぶ……」


「申し訳ありません。ご無礼つかまつりました」


「申せ」


「……わたくしは……お市の方様を、ずっとお慕い申しております」


「……わたくしを!?」


 丈はほどけた覆面を顔に纏った。


「どうか今の言葉はお忘れ下さい。わたくしの戯れざれごとでございます……」


 丈は私の体から手をほどいた。長政殿を亡くし清洲城で暮らすわたくしは、茶々同様心が寂しくて情緒不安定になる時がある。


 されど丈の青き眼差しを見つめていると、不思議と気持ちが和み安堵する。


 ――時折……

 頭に浮かぶ不思議な光景。


 鼓膜に響く……

 懐かしき殿方の声……。


 それがどこなのか。

 それが誰なのか。


 わからぬままに胸が熱くなり、自然と涙がこぼれ落ちてしまう。


 ――丈に抱き締められ……

 心が激しく揺さぶられた。


 長政殿をお慕い申していた頃と、似通ったおなごの感情。


 この胸の高鳴りは……。


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