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 その頃イチは二番目の姫を胸に抱き、兄信長の裏切りに心を痛めていた。


「殿……」


「お市、浅井と織田の同盟は破棄することとなった。浅井は朝倉軍とともに、織田徳川軍と戦う」


「……兄上と戦う!?殿……ご自分が何を仰っているのかおわかりですか!」


「お市、許せ」


 俺はこの時、信長の忍びでありながら、信長には一切報告しなかった。イチの傍にいてイチや姫君を守りたい。ただそれだけを考えていたんだ。


 平成の世で歴史書を読み、長政の末路はわかっていたが、その事実をイチに告げることも、食い止めることも俺には出来なかった。


 ただ、時の流れを静観するしかなかった……。


◇◇◇


 ――そのころ、戦いを終えた戦地には、何体もの無残な遺体が転がっていた。夜になり、傷を負い瀕死の状態の兵士に無数の人影が群がる。


 他の獣が捕らえた獲物に群がるハイエナのように、まだ生暖かい人間の血を貪る無数の人影。


 助かるはずの命が、ひとつ……またひとつと消えて行く。


 そして一度息絶えた人間が、目を見開き暗闇の中を再び歩き始める。


 一人……

 二人…………。

 あらたな……獲物を求めて。



 ―城下の武家屋敷―


「旦那様お帰りなさいませ。よくぞご無事で」


 戦いを終え、傷付いた主人を妻が労る。鎧兜を外し、主人の体に出来た傷の手当てをする。


 男はその場で妻の体を捩じ伏せた。


「……旦那様、なりませぬ。このような場所で。お許し下さい」


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