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 殿方の名も……

 顔も思い出せぬ。


「どのような夢か存じませぬが、無茶をされてはなりませぬ。首筋にも紅き痣が出来ておりますよ」


「紅き……痣?」


 ◇


 ――あれから、ひと月が経過したが、わたくしの体調は思わしくなく、床に伏せる日が続いた。頭を強く打ったせいか、記憶は欠落し、気分がすぐれぬ日が続いた。


 そして……


御匙おさじの方に診ていただきわかったのですが、市姫様にはややがおられます。殿は、稚の父君は不問にいたすゆえ、一刻も早く浅井長政殿の元へ嫁がせるようにとおおせでした」


「わたくしに稚?わたくしは……そのような……」


 唇に触れる……

 殿方の……唇……。


 夢と現実が交差し……

 わたくしは混乱する。


 記憶の断片が……

 脳内を巡り、殿方の目、殿方の手、殿方の唇が、断片的に現れては消えた。


「お腹に稚を宿された市姫様を、浅井殿は迎えるとおおせです。織田家と浅井家の同盟は約束通り結ぶと」


「わたくしに……稚とな」


 呆然とするわたくしに、お花は話を続けた。


「婚儀は明後日、市姫様宜しゅうございますね」


 わたくしが契りを交わしたお方は……。

 なぜ……思い出せぬ。転倒し、強く頭を打ったからか?


 なんと、不埒な。

 契りを交わした相手が思い出せぬとは。


 そんなわたくしを嫁に迎え入れるとは、浅井長政殿も懐大き方……。


 いや、兄、信長(上総介)の力を恐れ、受け入れざるをえぬのやもしれぬ。

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