ep.「パンとワインと」03



弟が、幸せそうに笑っている夢を見た。

 「ねえ、やっと一つになれたね。」

 彼はそういって、笑っていた。

 そこはとても暗くて、彼の顔なんて、見えないくらいだった。しかも、私の夢らしく彼は私に覆いかぶさっていて、ああ、今わたしたちは、ほんとうの意味で一つになっているんだと、多幸感に満たされる。暗いはずの何も見えないはずのそこで、けれど確かに、彼は笑っていた。

 こんなに暗いところでないと、私と彼はつながれなかった。一つになれなかったのだと思うと、涙も出た。笑顔で涙を流しているんだろう私を心配して、ディエゴは手を伸ばしてくれる。なんて、なんて幸せな夢だろう。


 私は、そこで目が覚めた。


 目を覚ましたそこは、私の部屋のようだった。私は、ベッドにいる。サイドテーブルには、椀に入った水と、濡れたタオル。熱でも出していたのだろうか、と、ぼんやり、考えた。うちに、私を看病してくれる者などディエゴしかいない。というか、私とディエゴの二人暮らしなのだから、それで当然だ。ということは。

 あの夢の、幸せそうなディエゴの表情を思い出して、私は心を決めた。今まで避け続けて、きちんと言葉にしたことがなかったけれど。いい加減、それも不誠実に過ぎるだろう。ディエゴがここに戻ってきてくれたら、そうしたら、私はなぜ急にあんなことを、彼と距離をおくようなことをしたのか、だとか、それに至る経緯とかを、洗いざらい、話してしまおう。

 それからディエゴが来るまでの時間、私は今までのことを思い出して過ごした。死ぬ間際、走馬燈、というものがあるらしいが、きっとそれに似た何かだ。私は今日限りで、今までの、ディエゴの影としてのアイザックをやめるのだから。一度死ぬも同然だろう。

 そうして思い出されるのは、今までの罪の記憶。

 このベッドに横たわっていることが、記憶の引き出しを開ける、何よりも優先度の高い鍵だから。


 私は、このベッドで、何度も夢を見た。

 それは時にはディエゴを犯す夢であり、時には、ディエゴに犯される夢であり、ディエゴが誰かとセックスをしているのを、ただ眺めているだけという夢のこともあったが、そのどれを見た時も、私は下着を汚して目を覚ました。はじめこそ、彼をそんな風な目で見ている自分に嫌気もさしたが、何度も続くと、「現実ではこんなことできもしないのだから、夢でくらい」などという免罪符を、自分に与えた。

 彼のことを想って、自分を慰めたこともあった。彼が私を呼ぶ声。彼が笑った、その顔。私はそれを思い出して、何度も手のひらに欲を吐き出した。

 そう、今のように。ドアに背を向けて、ベッドに転がって。


 けれど、それもさっきの夢で終わりだろう。

 つながる、という行為自体が目的の、自分本位の夢ではなくて、さっきのは、つながった、ということに、私と、そして彼が幸せを共有している、という、ある意味「終わり」の夢だったのだから。


 大丈夫、大丈夫。

 私は、そう心の中で何度も唱えた。

 そうであってくれと願うように。そうなるはずだと、縋るように。私はどこまでも弱く、愚かで、汚い。それを知ってしまったからには自分に期待などできないが、これだけは、そうであってくれなくては困るのだ。

 とん、とん、と、軽い足音がする。ディエゴの足音だ。

 あぁ、彼が来てしまう。

 私の罪の淀んだこの部屋に、彼が。


 「大丈夫、調子悪いの。」


 ドアを開けたディエゴは、他意などまったくない、穏やかな表情をしていた。彼の語るに、図書館のエントランスでいくら待っても私が来ない、と思った頃、私が倒れていることに気付いた職員が、彼に声を掛けたのだそうだ。持病の有無や、何や。救急車を呼ぶべきか、それとも。そんな相談をされた、ともいう。

 「……迷惑、かけたな。ごめん、」

 「大丈夫、昔はぼくの方が身体が弱かったし、これが迷惑だっていうなら、ぼくの方が兄さんにたくさん、迷惑かけてるよ。」

 そんな記憶はないけれど、そうだったのかもしれない、と、ディエゴの優しさを素直に受け取ることにした。そして、その優しさを実感したがゆえに、私はこれ以上彼を騙し続けていることに耐えられなくなって、一度は、彼が部屋の扉を開けた時にそちらを向いていた身体を、ごろりと、転がした。

 彼に背中を向けて、いたたまれなさに身体を丸めて、浅い呼吸の合間に、私の内側にたまった汚物を喉に指を刺して吐瀉するように、言う。

 今まで、彼と同一であろうとしていたこと。私は、そうであることがふたりの幸せだと思っていたこと。けれど最近、眼鏡をかけたり、時計を変えたりしたのは、そうではいけないのだと気付いたからだということ。そして、これからもそうしようと、思っていること。

 その方が彼のためになるのだ、と、お前に迷惑をかけたくないから、と、何度も繰り返して、その言葉で、私が彼を想い続けていたという、その事実をごまかした。それだけは、言えなかった。


 「兄さん、大丈夫だよ。」

 ディエゴは、優しかった。私が、兄がこんなに惨めな姿を晒していても、いつもと変わらず優しかった。受け入れてくれた。ディエゴは、そして私のその惨めな背中を、抱きしめてくれた。

 「大丈夫。分かってるから。」

 何年、弟してると思ってるの。なんて、いつも話していたのと変わらないトーンで言われて。彼のあたたかさが、抱きしめられた背中から伝わって。私は、また少し、泣いた。

 「でもね、隠れて悩んで、調子崩したのはダメだよ。相談くらいしてくれないと、どうしようもないじゃない。」


 そして、涙混じりに鼻をすする私に、彼はすりおろした林檎の入った小さな器を見せる。昔、二人して熱を出した時、母が作ってくれたものだ。

 「ほら、元気出して。」

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