ep.「わらうひと」



 結局、私は彼に嫌われたかったのだと知ったのは、その数日後の話だ。それはもう身に染みるほどに、十分すぎるほどに、知った。


「わらうひと」


 ディエゴは、あの日、優しかった。

 私は、あの日、許されたと思った。

 あの日に感じた彼への違和感、私の知る彼との乖離、そして、私は今の彼のことをなにひとつ知らなかったのではないかという、疑念。

 私はディエゴに執着することをやめたつもりで、それでもまだ、「私の知る彼」を信じようとした愚か者で、ディエゴは、そんな私のすべてを分かっているからこそ、知っているからこそ、私を己から切り離すことのできる人間だった。


 話し疲れて、そして泣き疲れて、ディエゴに促されるままに磨り林檎を口に運んだ私は、彼に頭を撫でられながら、目を閉じた。今にして思えば、きっとこれが彼なりの別れの合図だったのだろうと思う。

 私がそのまま眠りに落ちて、次に目を覚ました時。

 彼は家のどこにも、いなかった。


 ディエゴと二人で暮らしていても広く感じる我が家に、私ひとり。空気の動く気配もなく、誰かのいる物音のひとつもないそこは、冷たかった。

 我が家だというのに初めて訪れた場所のようによそよそしく、私はリビングにしばらく、呆然と、立ち尽くした。

 時計だけが、かちかちと音を立てる。

 それは、登校にはまだ早い時間をさしていた。

 けれど、私には分かった。ディエゴはひとり、学校へ行ったのだと。昨晩一通り私の世話を焼いて、それで彼の中での、兄としての私は死んだのだろうと。


 安心した。


 これでもう、私は、彼に許しを請う必要はなくなったのだと、ほっとした。心の底から、じんわりとその気持ちが湧いて出た。それはぼんやりとした淋しさと、切なさと一緒に。けれどそれらの感情よりもずっとはっきりと、その存在を伝えてくる。

 私はどこまでも愚かで、利己的な人間だったのだ。


 弟に愛されたいと願いながら、愛されることはないと諦めて。許されたいと願いながら、許されることはないとも、諦めて。そして、彼に欲を向けながらも、欲を向けられたいとは思っていなかったのかもしれない。私にとってのディエゴは、いつまでも美しく、けがれなく、尊いものだったのだ。そんな身勝手な理想を、彼に抱いていた。きっと今も抱いている。

 だから、彼が私を捨てたことに、こんなにも安心しているのだ。


 私は、彼に嫌われたかった。

 嫌われることこそが私への唯一の罰であり、嫌われることで、私は私を許すことができた。彼が私を許さなければ、私は、それに甘えて生きていることができた。

 誰もいないリビングで、考える。

 柱時計の音だけを聞きながら、考える。

 ダイニングテーブルにぽつりと置かれた付箋には、かかりつけ医を往診に呼ぶための、見慣れた電話番号。


 それが、あの日の翌日のこと。

 そして今日までの何日かの間。

 部屋にこもりきりになった私に、ディエゴは一言もかけることなく、彼は彼の日常を送っている。


 こんな卑怯な私を、気にかけてくれとも、赦してくれとも、いうつもりはない。気にもかけず、赦してもくれない、だからこそ、こうして穏やかな気持でいられるのだから。

 そして、こんな卑怯な私だからこそ、彼に罰されたいとすら、思わない。もう、なにも、私には関わらないでほしかった。私のことは忘れて、双子の兄なんてはじめからいなかったのだと、そういう顔をして、これからを生きていってほしかった。

 私は、ベッドの中で自分を慰めながら、ぼんやりと考えた。何度も手を汚し、そしてシーツも汚したベッドは、なまぐさい臭いがする。きっとその臭いは、私の部屋を満たしていることだろう。部屋の臭いは遠いから、何度も泣いたせいで鼻が詰まった私には、もう分からないけれど。

 こすりすぎて痛みすらおぼえる自身を、私の手は、何度も往復する。まるで、それが自分の欲への罰だとでもいうように。


 この手が、ディエゴのものだったら。


 そんなことを考えた瞬間に、私の脳は痛みを捨て、快楽を拾う。あんまりにもばかばかしく愚かなそれに、思わず、笑いがこぼれた。ふふ、ははは、と、私の笑い声がする。


 あぁ、きもちいい、きもちいい。

 ディエゴ、ディエゴ。愛しい弟、私を許さない、愛しい弟。私は今でもお前のことを。

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