ep:「パンとワインと」02



 今日もディエゴは、生徒会があるといっていた。

 私はここ数日ですっかり「あの本」に縋るようになっていたから、今日も、あの本を読みに図書館へ向かう。いつものように。終礼の後、すぐに。

 最近、というか、眼鏡をかけ始めてディエゴとの差別化を図りはじめてから。シンディをはじめとする私の数少ない友人たちは、私に「弟離れ」と言わなくなった。けれど不思議なことに、彼らは私に声を掛けることもまた、以前に増して少なくなった。

 彼らにしてみれば、かねてから進言していたそれに私が従ったことで、安心や何やのプラスの感情を持つはず、だと思っていたのだが、もしかすると、私との話題がそれしかなかったのかもしれない。私はディエゴの影であろうとするあまり、彼らと極力会話をしなかったから、仕方のないことだ。

 とはいえディエゴとはクラスも違い、学校にいる間はほとんど会話をすることができない。加えて、私が今まで彼にしてきた仕打ち――行為自体はとりわけ異常なものはしてこなかったはずだが、その行為に潜む私のよこしまな気持ちが問題だ――に罪悪感をおぼえて彼を遠ざけるようになってから、彼との接触を目に見えるほどに減らしてからというもの彼も「兄離れ」をしようとしているのだろう、私のそれに合わせて、距離を置くようになっていたから、始業から終業まで他愛のない会話をひとつもしない、というのもまた気の滅入るものだった。終業後、シンディなどとふたことみこと、申し訳程度に会話をしていたのすらないのだから、私は自然と、逃げるように教室を後にするようになっていた。


 私の居場所は、もはやこの図書館の、いつもの薄暗がりにしかないような。そんな気分で、「あの本」を開く。


 幸か不幸か、この本が貸し出し中になっていたことは、私が読み始めてからというもの一度もない。あんまりに生々しい情動の描写がいけないのだろうか。たしかに、万人受けはしないよなあ。なんて、私の子の本に対する印象も、ここ数日で随分変わったものだった。

 そこに描かれている女は今や、想いを寄せた男に抱かれることだけを喜びとするようになっている。そのさまはまるで獣のようで、読み進める度に、あぁ、私はこうはならない道を選べたのだ。と、安心感につつまれる。あれだけ不快だった本は、救いだった。


 『ねえ、足りないんでしょう、あなた。』

 女は、男の後頭部を淫蕩な目をしてたぐり寄せ、答えを待たずに口づける。彼を食らいつくさんとするかのように唇をこじ開け、舌をねじ込み、鼻にかかった高い、今にも消えそうな喘ぎを洩らして、男を誘う。

 『ずっと一緒よ。ずっと。あなたは私を置いていったりしないものね。』

 女の言葉は、男の脳髄までを溶かす、甘美な毒のようだった。額どうしをつけて、至近距離で、そして上目遣いに囁く女。

 『大丈夫。信じてる。だってあなたが私を置いてどこかへ行くだなんて。そんな行先なんて、もうどこにもないものね。』


 女の声が、私の頭の中で響いているように錯覚すらするほどに、私はのめり込んでいた。そうならなかった安堵。そして、私はそうはならないという、確信。のめり込むほどにそれは鮮明になる。しまいには活字を追うだけでなく、私は、そこには描かれていないもの――具体的には、情事にベッドの軋む音や、口づけ、行為に伴う濡れた音まで――を、あたかも描かれているか、聞こえているかというほどまでになっていた。


 色事に耽る女の、低く掠れた囁き。ぎし、ぎし、とベッドの軋む音。粘質で卑猥な水音。


 それは、本のページをめくった先に「あとがき」の文字をみとめるまで、続いた。

 あとがきなど、読むつもりはなかった。私にとってのその本の意味は私一人が見出したものだと分かっているし、筆者が何を思って書いたかなど、せっかく見出したその意味も、救いも、すべて無に帰してしまうようなものだと思ったから。

 私はそういうわけで、あとがきを読まずに本を閉じた。そして時計を――父親にもらった例の時計はあの翌日に回収していたが、それではなく、新しく自分で買った、青い革バンドの安物だ――見ようとして、ぐわん、と、思い切り前後に揺さぶられた時のような眩暈に襲われた。

 ぐるぐると揺れる世界。どこにも痛みはないから、ほんとうに殴られたわけではない。そんなことを遠ざかる意識でぼんやりと考えていると、がたん、と音がして、頬に柔らかいものの触れる感覚が続いた。倒れてしまったのかもしれない。ふとディエゴの声が聞こえた気がして、そしてそれでほんの少し浮上した意識が、長時間座っていたせいか少しだけ、尻が痛いことに気が付く。


 「アイザック、」


 そう聞こえたから、弟の声は、きっと幻聴だ。ディエゴは、私のことを兄さんと呼ぶ。アイザック、だなんて呼ばれたことは、今までに一度もなかった。体調を崩すと精神的に不安定にもなるというから、私の心が、きっと彼を求め、彼に縋っているのだ。私のことをアイザックと呼ぶ、私を愛してくれるディエゴのことを、私は今でも、あさましいと、汚いと気付いた今でも、求めているのだ。


 この場に彼がいなくて、よかった。

 安堵した瞬間、緩んだ意識の糸はぷつりと途切れる。

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