ep.「パンとワインと」
目覚めは、最悪だった。
鬱屈とした気持ちで、彼ともう、今まで通りではいられないのだという悲しみを抱えて、私は、昔に戯れに買って以来机の引き出しにしまいこんでいた黒縁の眼鏡に手を伸ばし、レンズのないそれを、かける。
ディエゴと揃いの手鏡に、いつか嫌悪と忌避をした、彼と同じ顔とは思えないほどに雰囲気の変わった、私の姿があった。
パンとワインと
あの日、私はディエゴと食卓を共にすることもなく、自室にこもった。ディエゴと居たくなかったとか、彼の顔を見たくなかったとか、そんな思いがあったわけではない。ただ、彼を変わらず愛しく思っていたとしても、彼が私を同じに思ってくれているという保証はどこにもなくて。そして、私の独りよがりなその愛しさが、彼をいつか傷つけることになるかもしれない、というおぼろげな恐怖があったから。
ディエゴは私の体調が悪いのかと心配してくれたし、「大丈夫、」と不安げに私の目を覗き込み、そして熱でもあるのかとさえ心配して、昔母がしてくれたように、額どうしを触れさせてみたりもした。私はそんな彼の気遣いがどうにも息苦しく、そして申し訳なく、後ろめたく。ぐるぐると渦巻く淀んだ思いを振り払うように首を横に振り、すぐ近くにある彼の瞳を見ていられないで視線を逸らし、傷つけてしまうとも考えずに、彼の肩を押して遠ざけた。
「……大丈夫。風邪かもしれないから、移さないうちにおとなしく寝るよ。」
結局、そうして自室にこもってしまったから。私はその日、図書館のエントランス以降。いつもはあんなに、それこそ私の視線で彼が焼け付いて穴が開くほどに見つめていたディエゴの顔を、一度もまともに見られなかった。
私が彼を愛したことは、間違っているのだろうか。
ベッドに横になり、いつもより静かで暗い部屋を、ぼんやりと眺めながら考えた。
私はエレメンタリの頃には既に、彼を愛していたように思う。誰よりも優秀で、美しい彼のことを何より誇りに思っていたし、そのために、思春期には同一たることをやめて、彼の影になると決めていたはずだ。
家具の輪郭くらいしか見えない視界で、枕元にいつも置いてある手帳を手に取り、何度も何度も開いたせいで開き癖のついたページを、開くに任せて眺めた。ぼんやりとした闇。その黒に覆われて、何が書かれているかを読みとることはできない。けれど、いつもクラスから校庭のディエゴを眺めているように。私には、あんまりにも見慣れたそのページの中身が、はっきりと分かる。
そのページには、見よう見まねで描いたステンドグラスの絵がある。幼い頃、両親に連れられて四人で行った、異国の教会。そこで見た、十代半ばだろう、少年と青年の間のような御主。
当時、私は絵を描くことだけに関してはディエゴよりも優れていると言われていた。幼い私はその褒め言葉がただ嬉しくて、なにかにつけ絵を描いていた記憶がある。このページも、その絵のひとつだった。
拙いながらに必死に描いたことが今でも分かる線。そうだ。このステンドグラスを見た時、描かれた御主の姿が、ディエゴの未来の姿のように思えたのだ。
当時の必死な気持を、思い出す。美しい御主、美しいディエゴ。ひとめ見た時に気持ちを揺さぶられ、描かずにはいられなかったことを、思い出す。私は、こんなにもディエゴに焦がれていたのだ。そしてその気持ちは今でも。
今と昔と、私の気持ちに違うところがあるとすれば、それは私が「欲」を知ったという、それだけだろう。ディエゴに笑っていてほしい。ディエゴのすべてを知っていたい。ディエゴを愛し続けていたい。ディエゴに、愛されたい。いつしか私の気持ちは、澄んだ崇拝から、淀んだ愛に変わっていたのかもしれない。
自分の気持ちが無償の愛ゆえだと思おうとしても。私の心の奥底はいつも叫んでいるのだ。彼が喜んでいれば、私も嬉しい。そんなことを言っている時には、「私が彼を喜ばせたい」と。彼が悲しんでいれば、私も悲しい。という時には、「その悲しみは、私のものであるべきだった」と。彼が誰かを愛するならば、祝福する心つもりはできている。なんて、言おうものなら「彼の愛をいちばんに欲しているのは私だ」と。あわよくば。ひとかけらでも、可能性があるなら。そんなことを考えている、私がいるのだ。
私はそんな後悔と自省の中で、眠りに落ちた。
ああ。私の気持ちが、あの頃と変わらず純粋なままであれば。あの小説の女の欲のようにあさましく、薄汚いものでさえなければ。
きっとこれから先も、なんの気兼ねもなく、彼になんの迷惑もかけることなく、彼を愛し続けられたのに。
それから今日までの日々は、ディエゴの顔をまともに見ることもできなかった。ずっと。ひとりで悩んでいたのだ。今までと変わらずに彼と接しても良いものか。そして、もういい加減に彼を、無垢なままの彼を、私の欲から解放すべきか。
今にして思えばそれは考えるべくもないことなのだが、私の欲は、今までと変わらずにいたい、と、数日の間ずっと、泣きわめいていた。
私がその声をねじ伏せられたのは、ひとえにあの、図書館で手に取った小説のおかげだった。
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