ep.「ひだまり」03



 その本で描かれていたのは、男女の愛憎の物語だった。ひとりの男を愛した女が、その愛にとらわれ、そして男を巻き込んで破滅してゆく物語。

 三分の一ほど読み終えたあたりで、ぎし、とまた不愉快な音がして、私はページから目を上げた。ちょうど、女が男の不貞を疑い、そしてその「不貞を疑った」という事実に己の愛を疑い、それでも愛しているのだと、愛ゆえなのだと己に言い聞かせて、真っ暗な部屋の中、見えもしない彼の写真を手に独り言を繰り返す、という場面。

 気が滅入りそうになっていた私には、その不快な音すら救いの手のようにも思えた。女がこれからどうなるのか。どうするのか。読みたいようで、どこか私の心の内側が「読むな」と悲鳴を上げてでもいるような、理不尽な拒否感があった。それに悩んでふと時計を見ると、もう、ディエゴの来るであろう時間の十分前だった。いつもはこの程度のページ数を読むのにこれほど時間はかからない。そんな時間を、ディエゴとおそろいで父親に、誕生日プレゼントとして贈られた時計が指し示す。そうだ、本なんかよりも、ディエゴが来るのだから、待っていなくては。

 私は本を閉じ、席を立ち、そして、あんなにも読みたくないと思っていたのに、不思議なことにそこで、栞を挟まなかったことを後悔した。

 続きを読みたいと思う、読書中の「当然そうあるべき心理」だけでは説明のつかない自分の感情に混乱しながら、その本を、後ろ髪を引かれる思いで書棚に戻す。きっと私は、どれだけ嫌だと思っても、どれだけその本を不快に思っても、次にここへ来た時にはまた、手に取るのだろう。願わくは、これが誰かに貸し出されて、その時にここにはないように。


 スペースの上に広げた荷物はない。椅子にかけていたコートも着たし、忘れ物はないはず、とちらりと去り際に視線を投げて、そのまま、エントランスへ出る。万一なにか忘れて行っても、ディエゴの生徒会としての仕事は、一度招集がかかると長引くことが多い。きっとすぐにまた来ることになるだろうから、大丈夫。そんな安心感から、私はそれをディエゴに見咎められるまで、手首から落ちた揃いの時計が、毛足の長いカーペットに音を吸われて静かに、そこにあったことに、気付けなかった。


 「お待たせ、兄さん。」

 エントランスに出てソファに腰掛けると、すぐにディエゴがやって来た。彼を待たせることがなくてよかった、と安堵し微笑む私に、ディエゴは人懐こい、穏やかな笑顔を向けてくれる。

 「お疲れ様、ディエゴ。」

 労う。その域を出ないように、私の手がそこに、愛おしさや恋を乗せないように、ゆっくりとディエゴの頭を撫でた。こうして頭を撫でるのは昔から私の専売特許で、ディエゴが私の頭を撫でることはないし、それはきっと、私が「兄」であるからなのだと思う。幼い頃からの付き合いがある人間には、「頭を撫でる方がアイザックだ」と言われたことすらあるほど長く習慣になっている、私たちの、現状唯一の――たとえば顔立ちとか、成績とか、その辺りの、私が劣等感を抱くものを除いた――違い。

 こうして頭を撫でると、幼い頃と同じ笑顔になってくれるのが、なんとなく、私はディエゴの特別なのだと感じさせてくれるから、私は好きだ。こうでもしていなければ、私はもうすっかりディエゴからは遠いものであるかのような淋しさを感じる。弟離れなんてできっこない。する必要もないと思うけれど、きっと、いつかはディエゴが私から離れていくのだから。

 彼の頭を撫でながらふと、そうして、私の中で、すとん、と何かのピースが嵌ったような気がした。

 弟離れをしておけ、と友人たちが言っていたのは、きっと彼らは、ディエゴがいつか私から離れていくのだということを知っていたからだ。私以上に。その話をするたびに彼らが心配そうな顔をしていたのは、私が弟離れをできない限り、離れていく弟に、そう、あの物語の女のように、執着し、しがみついて、彼を不幸にしてしまうのだと、分かっていたからだ。


 「……兄さん、聞いてる。」


 不思議そうに首を傾げたディエゴの声と視線に、思考が引き戻された。ああ、彼の言葉を、仕草を見落としてしまうだなんて。そんな思いが湧いてきて、そして、それと同時に、その思いこそがいけないのだと、実感する。

 「ごめんよ、すこしぼうっとしていたみたいで。……今日は、帰ったらすぐに休むことにする。」

 風邪でも引いたかな。

 なんて、ディエゴに初めての誤魔化しを、バレてはいけない隠し事をしながら、我が家の門扉に手を掛け、開く。ひゅう、と冷たい風が、手首を撫ぜた。その時だった。

 「待って、兄さん。時計、」

 門扉を開けようとしたことでコートの袖が上がり、そこから、本来時計に覆われているはずの吹きさらしの手首が見えたのだろう。さあっと青ざめたディエゴの顔に、私は、そこまで心配しなくてい、と笑いかける。

 「……あぁ、落としてしまったんだろう。きっと図書館だから、大丈夫。明日取りに行くよ。」

 ぎし、と音がして、門扉が開く。やっぱりどこかが錆びついてでもいるのだろうか。今度両親と電話をするときにでも、言っておかないと。

 そんなことを考えて家の敷地へ歩を進める私は、はやく何も考えないでいいように、眠ってしまいたいとばかり願う私は。私が時計をなくしたこと、それを、「明日取りに行く」と言ったことでディエゴがどんな思いをしていたか。それを推し量る機会すら、逃してしまっていた。

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