真夜中の美大生たち
阿呆論
真夜中の美大生たち
1
「世界に約七十億の人間がいるなかで、お前にしか描けない絵が、本当にあると思うか?」
鏡に映る自分にそう問いかけられたとき、僕は絵を描くことをやめた。
だが美術大学を中退することはなかった。私立の美大の学費は年間で百五十万円。画材代や入学費諸々を合わせ、現在までに掛かった費用は五百万を優に超える。中退なんて、できるはずがなかった。
昔から絵を描くのが好きだった。自負もあった。でもそれは、何かを見て描くという「デッサン力」が他の人より少し長けていただけで、絵が描けるという能力ではなかったのだ。自分には表現したいことがない。描きたい絵がない。出来上がったものに対して意味を見出せない。そこにあるのは空っぽの絵。
個性って、何だろう。僕を僕たらしめる性質は「卑屈」くらいだ。
結局、僕には才能がないんだ。
遅ればせながらも気づいてしまった、大学三年の冬。
「絵でやっていくって決めたら、潰しが効かないからね」
中学の頃に美術系高校の進学を勧めてくれた教師の言葉が蘇る。
潰しが効かない。その言葉の意味が今、痛いほど身に沁みる。美大生である僕が絵を描くことをやめたら一体何が残るのか。
答えは知っている。何も残らない。
卒業したら僕は何になるのだろう。何になれるのだろう。
未来にぽっかりと空いた、限りなく黒い、暗黒の穴。
落ちる。落ちる。飲み込まれる——
「おい寝るなよ」
唐突に、脇腹に軽く肘鉄を食らったような痛み。
「この講義、寝たら単位取れねーぞ」
顔を上げると隣で城戸がペンを走らせている。
少し船を漕いでしまっていたようだ。城戸の言う通り、この授業内でレポートを書き終えなければ出席扱いにならない。期末試験を実施しない講義は出席点を重く見るため、たった一回の欠席も避けたい。
まだしばしばとする瞼を強く瞬かせ、シャーペンを掴み、前方に映し出されたパワーポイントを見つめる。
単位を取るという目的のためだけに出席する講義。その日の夜には内容を忘れてしまう。
これが一体、何になる。
「それで?」
三限の終わりを告げるチャイムと同時に、城戸は伸びをしながら僕に言う。
「絵を描きたくないって、これからどうする気だよ。卒業制作だってそろそろ始まるだろ」
否応無しに突きつけられる現実に、胃の辺りがきゅっと締め付けられたような感覚に陥る。これからどうするか、という問いは大学生にとって最もシビアな問題だ。特に、今の僕にとっては。
「コラージュとか立体作品とか、インスタレーションとか……とにかく今は真っ白な画面に向き合いたくないんだよ。絵を描かずに作品を作り上げたい」
「そんなことできるのかねぇ」
「親友なら応援してくれよ……」
語尾にトホホなんて文字が付きそうなほど情けない声になってしまう。
「俺だって応援したいけど。ていうか、明日講評だろ?」
その通り。何も作品が出来上がっていないのに明日は講評会なのだ。それも三年生最後の、卒業制作に繋がる重要な講評。教授たちもいつもより厳しく批評することだろう。もういっその事、真っ白なキャンバスを「染まらない私」とか「無垢な心」なんて題名で提出してしまおうか……いや、そんな勇気はないけれど。
「もうおしまいだ、留年だぁ。留年してまた馬鹿みたいに高い学費を払うんだ。あんな高い学費、一体何に使ってるんだよ。トイレか? トイレが改装されて最新式になったのは良いけど、あんなに広くする必要あったか? 天井すごい高くなってたぞ。僕の学費もこの大学のトイレに消えるのかなぁ。ねぇ、どう思う?」
「うるさいな。諦めるなよ。まだ時間はある」
「ないだろ。半日で何を作れって言うんだ」
その言葉に城戸はニヤリと笑い、
「そう、半日もある。さて、この大学の最終下校時刻は何時でしょうか?」
なぞなぞを出題する小学生のような無邪気さを装って問う。
「二十時」
と、僕は即答。
「その通り。だが、ある一部の学生たちは最終下校時刻が適用されないんだ」
「え、なんで。どこの学科?」
「版画科だよ。版画の担当教授の唐沢さんはこの大学の副学長だからいろいろと融通を利かせてくれるんだ。だから版画の学生たちは講評のときは毎回、ほとんど徹夜で制作してるみたいだぜ」
「そりゃいいね。美大生の在るべき姿って感じがするよ」
「だろ。で、俺たち油画科と、それから日本画科はアトリエが同じ絵画棟にあるから、唐沢さんに頼めば俺たちも二十時以降の居残りが許されるんだ。だからお前も今から頼みに行って今日は徹夜するぞ。頭じゃなくてとにかく手を動かせ、手を。何でもいいから提出できるモノを作れ」
「ひええ、城戸はスパルタだなぁ……」
「心を鬼にしてんだよ。留年したくないだろ」
これも親友の優しさか。彼の意地悪そうなニヤケ顔を見る限りでは、そんな優しい感じはしないのだが。
四限の授業を取っていなかった僕と城戸は、我らの住処である絵画棟に戻るも、油画のアトリエには顔を出さなかった。行ってもそこに僕のやるべきことは何もない。今僕がすべき事は、ひとつ、唐沢教授に会い、ふたつ、徹夜で制作する許可を貰い、みっつ、何を制作するか決める、である。最後に最大の難問を抱えているのは承知だが、時間がなければ何も作れない。とりあえずは時間を稼がなければ。
世の美大生たちはこんな経験したことないだろう。講評前日に作品が何もないなんて。講評前日から制作を始めるなんて……なんかもう、ある意味すごくないか?
明日までに作品は完成するのだろうか。一ミリも自信がない。もう、明日の朝に教授が事故に遭うか何かして講評中止になってくれはしないだろうか……。
「バカ、そんなの百パーセントねぇよ」
「あれ……城戸、お前は人の心が読めるようになったのか」
「心の声がゲロみたいに口から溢れ出てんぞ」
「ところで、城戸は作品完成してるの? 僕なんかに付き合ってて大丈夫なの?」
「完成してるに決まってるだろ。もう暇だよ」
「なら帰ればいいのに……」
そんな言葉を交わしながら地下へと続く薄暗い階段を下りた僕らは、マジックで手書きされた「版画アトリエ・関係者以外立入禁止!」の貼り紙の前で立ち止まる。今にも剥がれ落ちそうなそれはマスキングテープの力でかろうじて扉にしがみつき、今まさに二人の侵入を阻止する役目を果たした。
「立入禁止って書いてあるけど」
「デザイン科は入るなってことだよ。版画で使う道具を勝手に使われると汚れたまま放置されたり、酷い場合は壊れたりするからな。それなりに専門的な知識がある人しか入っちゃいけないんだ」
「僕は専門的な知識ないよ?」
「大丈夫だよ」
「不審者と思われないかな?」
「うるせえ、つべこべ言うな、とにかく入れ」
城戸に尻を蹴られてアトリエに足を踏み入れる。背後で閉まる扉の向こうから、パサリと貼り紙の落ちる音がした。
ぷんと漂うインクの匂い。油画のアトリエに充満するテレピン油やペインティングオイルの刺激臭とはまた違う。でも、空気が埃っぽいのはどこも同じだ。それなりに広いアトリエなのだろうが、大きな機械など物が多くて圧迫感を覚える。同じような形の機械が五台ほど整列しているが、そのほとんどにハンドルが付いているところを見るとこれがプレス機なのだろう。ハンドルのないものは電気で動くのだろうか。
絵の具で汚れた黒いツナギの女が、小さな体でプレス機のハンドルを回しながらこちらを振り返った。肩から垂れる束ねた髪の毛の先っぽが、グリーンアッシュに染められた名残を留めている。全体的な黒にその差し色が、小さな孔雀を思わせた。
「あれぇ、上の住人じゃん。何しに来たの」
「あ、森田さん。ちょっと唐沢先生に用があってね」
僕は少しホッとする。知り合いがいて良かった。と言っても絵画棟の学生はほとんど顔馴染みなのだが。ずっと同じ建物で制作していれば自然と会話を交わすようになるし、同級生は取っている講義もほとんど一緒だ。油画科も日本画科も版画科も仲良くやっている。が、しかし版画科だけは少し距離があるように思える。というのも版画はアトリエが地下にあり、制作を始めればほとんど地下に篭りっぱなしゆえにあまり顔を合わせないのだ。だから版画科の人間は油画科と日本画科を「上の住人」と呼ぶし、上の住人たちは版画科を「地下の住人」または「地底人」と呼んでいる。べつに、そこに悪意は含まれていない。
「唐沢先生、今日はまだ見てないけど。たぶんそのうち来るよ」
森田茜という小柄な彼女は、プレス機の上からペラリと紙を持ち上げながら言った。
「それ、リトグラフ?」
城戸が尋ねると、
「そうだよー。刷りたてほやほや」
そう言って彼女はそれをステンレス製のドライラックに乗せた。
一人蚊帳の外のような気分を味わいながら僕は城戸に尋ねる。
「リトグラフって?」
「版画の技法のひとつだよ。版画には四種類あって、凸版、凹版、孔版、平版がある。リトグラフは水と油の反発を利用した技法で、平版だ」
「城戸くん、先生みたいだね。上の住人たちも版画をやりたくなったのかい?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……なるほど、版画か。森田さん、ちょっと版画のこと教えてくれないかな」
絵を描くことができない今の僕に、何かヒントを与えてくれるかもしれない。
「えっ、めんどくさ。明日講評だから忙しいんだけど」
そんなぁ……。
「なーんて冗談冗談。そんな泣きそうな顔しないでよ。私もちょっと休憩したかったし、案内してあげるよ」
そう言って彼女はけらけらと笑った。
「リトグラフは城戸くんが説明した通り、水と油の反発作用を使って絵を描くの。アルミ板に油性の画材で絵を描いて、アラビアゴムとかラズンパウダーとかストーンパウダーとか、いろんなもの使って製版して、水拭きしてインク乗せて刷るのよ。こんな雑な説明で大丈夫?」
「もっと知りたければ自分で調べろって感じだよね。でも、今の話聞くだけでも難しそうなことは分かったけど」
「まぁ、そうだね。他の技法より複雑で時間がかかるかも。じゃあリトは終わりにして次はシルクスクリーンね」
森田はさっさとアトリエの奥へと進むが、僕と城戸は辺りの機材に触れないよう神経をすり減らしながら狭い空間を歩いた。版画のアトリエにはプレス機や作業台、裁断機、ドライラックやその他諸々の画材などが所狭しと並んでおり、これは確かに関係者以外は入らない方が無難だとしみじみ思った。
森田が小さな扉の前で振り返る。
「ここは感光室です。シルクスクリーンは孔版で、アルミの枠にシルクとかポリエステルとかを張って、それにインクを通して紙に刷るからイメージがそのまま絵になるのね。つまり絵が反転しない。そこが四版種の中で唯一、孔版の特性。製版は下絵を描いて、この感光室で一定の時間紫外線を当てるだけだから版画の中では一番簡単かも。プレス機も必要ないし。でも簡単だからこそ、商業的な作品になりやすくてアートとして作品に仕上げるのは試行錯誤が必要だね」
なるほど。工程としては簡単そうだが美術という答えのない問題に苦悩している僕には一番向かない技法かもしれない。
「その感光室には入れないのか?」
意外にも城戸が好奇心に駆られている。
「感光室はあまり徒らに扉を開けちゃいけないの。シルクスクリーンで使う感光乳剤は紫外線に影響されるから、余計な光が入って固まっちゃったら使い物にならなくなる。今はたぶん作業してる人がいるから、邪魔しない方がいいよ」
それもそうか。翌日の講評のため、前日に追い込みをかける熱心な学生は多い。僕のような奴が邪魔したら悪いや。少し図々しかった。自重しなければ。
「じゃあ次ね。凹版の銅版コーナーへ行きましょ」
森田はまた別の扉の前へと移動し、
「ここが腐蝕室」
そう言って今度は扉を開く。甘ったるいような匂いが鼻腔を通った。食欲をそそるような甘さではなく、薬品的な匂いがそこに充満していた。
室内には黄色っぽく汚れたポリタンクやガスコンロ、醤油など、何に使うのか疑問に思うような物が並ぶ。部屋の大部分を占めるのは流し台にしては大きめの水回りだった。そして白衣を着た美女が一人。
「彩ちゃん、この二人が見学したいんだって」
森田がアヤちゃんと呼んだ彼女が小野寺彩という名であることは僕も知っていたし、恐らくそれは絵画棟で作業する男なら誰でも知っている情報だろう。男は美人の顔と名前は忘れないものだ。
作業台で何かを描いていた小野寺は顔を上げると僕らを見て言った。
「おやおや上の住人たち。ついに地へ堕とされたか」
こんな天使がいるのなら地獄も悪くない、なんて歯の浮くようなセリフは胸にしまい、久しぶりの友人として相応しい言葉を返す。
「小野寺さん、僕たちの名前覚えてる?」
「そりゃ、一年生のときは授業のグループワークで一緒になって仲良くやってたじゃない。あんまり話さなくなったからって名前を忘れるワケないでしょ。城戸篤志と……」
そう言って小野寺は決めポーズのように人差し指を僕に向け、
「キンダイチくん!」
「金田ハジメだよ……あだ名の方を覚えてるのね」
カネタという苗字と、一と書いてハジメと読ませる僕の名は幼い頃からキンダイチと誤読されることが多く、それがそのまま渾名となった。かの有名な探偵と同じ名前なんて、なんだか恐れ多い。
「失敬な、本名だってちゃんと覚えてるよ。でも金田一くんの方が親しみやすいじゃん」
「そうかな。周りで人がたくさん死にそうな響きだけど」
「江戸川よりはマシだろ」
と、城戸。どっちもどっちである。
「彩ちゃん、銅版画のやり方教えてあげてくれる?」
「いいよー。それでは。銅版は、銅にグランドというものでコーティングしてそれをニードルで削って絵を描きます。それをエッチングって言うんだけど、他にもアクアチントとかメゾチントとかいろんな技法があって。でも私はエッチングだけで制作してる」
そう言って小野寺は作業台の上にあったそれを掲げた。鼈甲色の板に金色の絵が描かれているように見える。
「これはまだ途中なんだけど、削っただけじゃ刷っても絵にならないの。このグランドを削った状態で塩化第二鉄の腐蝕液に浸けることで、化学反応が起きて絵になるの」
小難しい言葉は僕の耳を右から左へ通り抜け、小野寺の整った顔の美しい瞳に吸い込まれそうだった。
「それでね、グランドを落とすときに使う溶剤とか腐蝕液なんかはあまり体に良くないからゴム手袋をして作業するの。君たちも、もしやるならゴム手袋を使ってね」
キッチンやバスルームの掃除に使うようなピンクのゴム手袋を見せながら言った。
流し台の中を覗くと、四角形の容器に黒々とした液体が満たされていた。これが腐蝕液か。確かに、人の体に良さそうなものではないな。
「いやぁ、難しそうだな」
「慣れればそんなことないんだけどね」
「それじゃ、あんまり彩ちゃんの邪魔しちゃ悪いしそろそろ出ようか」
「うん。小野寺さん、ありがとね」
美人の御尊顔をしっかりとこの目に焼き付け、再びロールプレイングゲームのように僕らは森田について行く。四版種最後、凸版の作業スペースへと向かう。
「凸版と言えば木版なんだけど、プレス機はリトグラフと共用だし、そもそもバレンを使って刷るからプレス機を使う人は少ないの。木の板と彫刻刀があればできるから、感光室とか腐蝕室が必要なくて、そこら辺の机で作業してる。あ、ほらあそこで二人、木を削ってるでしょ」
森田が指差した先では二人の女が黙々と作業していた。お揃いのメガネに、洒落っ気のない服装、同じくらいの長さの黒髪。遠目に見れば姉妹にも見えるが、ファインアート系美大生のスタンダードな形容と言える。ちなみにデザイン系の典型は茶髪にオシャレな洋服、可愛らしい化粧となる。美大は主に三種類の人間で構成され、残りの一種類は「個性を主張したいがために派手な色に髪を染め、奇抜な格好をする奴」である。
「うわ、めっちゃ集中してるな。邪魔したくないね。まぁ木版は中学とかでやったことあるでしょ。説明しなくてもやり方は分かるよね」
「そうだね、昔やった記憶ある。版画と言えば真っ先に木版が思い浮かぶしね」
木を削って、絵の具をつけて、紙を当てて擦る。一番シンプルなやり方だ。美術に詳しくなくても木版は知っているという人は多い。
「三年生にもなると授業の空きコマが増えるが、版画の学生はみんな四限を取っているのか? ここはなんだか人が少ない気がするが」
辺りを見回しながら城戸は言った。彼の言う通り、このアトリエに入って姿を見たのは四人だけだ。
「必修の授業は午前でしょ。だから午前中に制作が終わった人はもう帰ってる。たぶん夜遅くまで残って制作するのも今残ってる人たちだけかな。毎回同じメンツだから」
「ああ、他の皆さんはもう作品が完成していらっしゃるのね」
まだ制作を始めてもいない学生がここにいるというのに……。
猛烈な脱力感に打ちひしがれていると、背後で扉の開く音がした。
「あらぁ、立入禁止剥がれちゃってるよ。貼り直さなきゃ……」
独り言をぶつぶつ呟きながら入ってきたのは白毛の目立つ中年男。片手に例の貼り紙を、もう一方の手には湯気の立ち上るマグカップを握っている。
「あ、先生」
「やあ森田。二人も彼氏がいたのか」
「違いますよう。この人たち、先生に用があるんですって」
「へえ。何かな」
我らが副学長、唐沢教授は僕に視線を向ける。
「お願いがあるんですけど、僕も今夜遅くまで残って制作してもいいですか?」
「ああ、そんなことか。いいよいいよ。ただ、このアトリエ以外は全部施錠されちゃうから、制作するならここでやってね」
「ありがとうございます」
「二人とも熱心だねぇ。意欲的なのは良いことだよ」
「あ、いや俺はこいつの手伝いです」
馬鹿正直過ぎるだろ、城戸。それ言う必要あったか? これじゃあまるで僕が一人では何もできない出来損ないのようではないか……!
まぁ実際、出来損ないなんだけど。
さて、これで時間の確保はできた。これでやるべきことはただひとつ。
何かを、どうにかして、制作するのみ!
……はあ、涙が出そう。
2
横から城戸にぼうっと見つめられながら、僕は一心に木を削る。静かな空間にサクッサクッと小気味良い音が響く。
ずっと猫背で作業をしているせいで首が痛い。目も疲れてきた。なんだか頭も痛いような気がする。
ネットでも版画のことをいろいろ調べてみたが、リトグラフをやるにはアルミ板を買わなくてはならず、シルクスクリーンをやるには版となる枠を用意しなくてはならず、銅版をやるには銅板を買わなくてはならなかった。結局、僕にできることは廃材置き場から使えそうな木の板を拾ってきてそれを削ることだった。すなわち、木版画である。
「彫刻刀、貸してもらえて良かったな」
「うん。後で森田さんにお礼しなきゃ」
城戸が思い出したように話しかけてきたが、腕時計を見ると口を開くのは約二時間ぶりであった。時刻は午後九時。木を削り始めてから三時間が経つ。
「紙と水彩絵の具は貸してやるんだから、俺にも何かお礼しろ」
「はいはい」
「紙と絵の具なんて消耗品だ。貸すんじゃない、あげるも同然だ。これは昼飯一回奢られるくらいじゃ割りに合わないぜ」
「分かったから静かにしてくれ。こっちは集中してんだから」
城戸は何かぼそりと悪態をついたが、よく聞こえなかったので無視をする。よく聞こえなくとも悪口だったことは勘で分かる。
油絵は絵の具が乾くのをいちいち待たなくてはならない。それを考えると、短い時間で制作しなくてはならない今、木版は得策かもしれない。版画は油絵と違い、完成が分かりやすい。永遠と描き続けることができる油絵に対し、版画は刷ったところで完成と区切りをつけることができる。
とにかく木を削り、ここぞというときに刷ろう。プレス機で刷ればムラができにくく、素人がバレンで刷るより綺麗に仕上がるそうだ。もしプレス機でも上手くできなかったら、その時は森田が代わりに刷ってくれると言う。それってなんかズルくないかと訊いたら、
「版画には彫師と摺師という職人がいて、作業を分担することがあるんだよ。だから何もズルいことはない」
と諭された。
まさに至れり尽くせり。森田には感謝してもしきれない。
僕はなんだか、明日の講評に向けて一筋の光明が見えた気がした。それは紛れもなく森田の(あと、もしかすると城戸の)後光だ。
せっかく感謝の気持ちが芽生えていたのに、やる気に満ち溢れる僕の隣で城戸は間の抜けた欠伸なんかをしやがった。
「はぁ、眠いな。暇だな。つまんないな。ちょっくら外でタバコでも吸ってくるわ」
暇なら帰ればいいのに。とは思うが、それでも一緒に居残ってくれるのはやはり親友の優しさなのだろう。一応ありがたく思うことにする。
城戸が出て行ったところで、僕も行動伝染現象により欠伸が出た。ついでに背伸びをしたら全身がミシミシと鳴った。
「頑張ってるね。彫刻刀、しばらく使ってなかったんだけど切れ味大丈夫?」
森田がやって来て向かいの席に座る。
「問題なく削れてるよ、ありがとう。本当に助かってる」
「ん、良かった良かった」
「森田さんは終わったの?」
「いや、小腹が空いたからひとやすみ」
そう言ってポテトチップスの袋を開け、差し出してくる。
「食べる?」
「うん、いや、あ……ありがとう」
己の図々しさを恥じながら一口齧る。集中している間は空腹を忘れていたが、体は栄養を欲しているらしく、研ぎ澄まされた味覚がコンソメ味をやけに美味しく感じ取った。
「夜の学校っていいよね。私たち以外は誰もいなくて、静かで、なんだか不思議な空間」
「昼間とは雰囲気が違うね。こんなに遅い時間まで居残るのは初めてだよ」
「そっか、私たちがこんなに遅くまで学校にいられるのは唐沢先生のおかげだもんね。いつも私たちの最後の一人が帰ってからアトリエを施錠して、帰宅しないで徹夜するときは先生も泊まり込みで協力してくれたし」
「すごい、良い先生だ」
「だからこのアトリエの隣にある事務室には先生用の布団まで置いてあるんだよ」
ずいぶんと熱心な教授もいたものだ。僕もかつては美術の先生に憧れを抱いた時期があったがとても真似できそうにない。もっとも僕は、教職課程すら取ることはなかったが。なぜなら僕が誰かに教えられることなど何もありはしないと気づいてしまったから。
自分の卑屈さに心底うんざりしていると、荒んだ心を浄化するように腐蝕室から小野寺が現れた。こういうとき、美女とは本当に素晴らしい生き物だと思う。もはや存在が正義。その崇高さに、合掌。
「お疲れ彩ちゃん。休憩?」
「うん。腐蝕し始めたから一時間は暇」
小野寺は森田の隣に座ると、差し出されたポテチを草を食むウサギのように食べた。
「かわいいなぁ」と、言いながら小野寺の頭を撫でる森田。「あ、ごめん手汚れてたわ」「もぉ〜、モリリン!」……女同士の茶番的なじゃれ合い。うむ、良い眺めである。
ガチャリと音を立て、城戸が出て行った扉から今度は唐沢教授がひょこっと顔を出した。
「ちょっと一服してくるから何か用があったら事務室じゃなくて外に呼びに来て。ま、何もないか」
まったく、誰も彼もニコチン中毒で困る。
さて、目の保養もしたことだしそろそろ作業を再開するか。
最後にもう一度美人を拝んでおこうと小野寺を見るとスマホをいじっていた。ゲームをしているというより文字を打っているような指の動きだ。
「……小野寺さんって彼氏とかいるの?」
ふと頭に浮かんだ言葉がそのまま口から飛び出した。
「ええっ、いきなりだね」
小野寺さんは驚いたような、困ったような、それでいて少し笑った表情になった。
「彩ちゃんはいるよ。今日もお昼に彼氏が腐蝕室に入って行くの見たもん。美大生とは思えない筋肉ムキムキのイケメン。たしかあの人、ボルダリング部の部長でしょ」
「あちゃ、見られてたか」
「中で二人で何してたんでしょうねぇ。もう、公共の場でイチャイチャしないでよねー。ここは学校だぞ」
森田の茶化す声が脳内で無情に木霊する。自分で質問しておいて、敢え無く撃沈。
そりゃこれだけの美人なら彼氏の一人や二人いるか。いや二人もいたら困るが。言葉の綾というやつだ。
「金田一君は彼女いないの?」
「いるわけないじゃん」
「えー、こんなに女の子がたくさんいる学校なのに」
「ほらよく言うよね、喉は乾いているけれど海の真ん中にいる感じって……」
「そっか……なんかごめんね」
なんだか物悲しい雰囲気になってしまった。
さて今度こそ作業を再開……やっぱりトイレに行ってからにしよう。
暖房の恩恵を知ることができたのはアトリエを出てからだった。冷たい夜の空気が僕の体を包み込む。
「さっむ……」
尿意尿意と小走りで階段を駆け上がり、開け放たれた裏口代わりの非常口を通過する。流れ込んでくる夜風に城戸のタバコの匂いが帯びていた。
当然のことだが誰もいない一階は消灯されており、絵画棟は真っ暗だった。正面入り口付近にあるトイレから洩れる明かりだけを頼りに歩く。
小便器に向かって用を足していると、ふと何か違和感を覚えた。何かがおかしい。だがそれが何かは分からない。魚の骨が喉に引っかかったようにもどかしかった。
「……まぁ、いいか」
寒さに身を縮めながら地下に戻る途中。
裏口の前で、僕の平凡な日常は、非日常へと化したのだった。
「誰か! 誰か来てくれ!」
今までに聞いたことのないような、ひどく動揺した城戸の声。
咄嗟に非常口を飛び出し、城戸の声がした方へと走る。
暗闇の中で城戸のシルエットを見つけた。地面に座り込み、彼は誰かを抱えている。
ポケットからスマホを取り出しライトで照らすと、抱えられていた唐沢教授にの姿が見えた。
「一体どうした……」
言いかけた口が固まった。
教授の背中一面が、赤黒く塗れていたのだ。その液体は抱えている城戸の腕にも付着している。結構な量だ。
「それって、血? ……死んでるの?」
「意識はある! そんなことより今向こうへ誰かが走って行った! そいつが犯人だ、捕まえろ!」
僕は弾丸のように走り出した。
絵画棟を回り込み、表側へ出て歩道を正門の方に向かう。
手を振り回し、心臓が爆発しそうになりながら、真っ暗な夜の大学をがむしゃらに走った。
頭の中では濁流のような思考が渦を巻く。
版画のアトリエ以外全ての建物が施錠されている今、隠れられる場所はない。唐沢教授を傷つけた犯人は大学から脱出するに違いない。夜闇に紛れて消えてしまえばいいのだから。だから僕は姿なき犯人を追って、正門へ向かって走るのだ。唐沢教授を殺そうとした犯人を追って……。
そんな殺人鬼に追いついたら、僕はどうするつもりだ?
思考が恐怖へと変わってしまう前に、僕は正門にたどり着いていた。
明かりの灯る小さな詰所の窓から、守衛が眠たそうな顔でこちらを見ている。
「しゅ、しゅえさ……たいへんれす」
息が上がってしまって上手く話せない。
「どうしたどうした。深呼吸してから話してごらん」
吸って吐いて、吸って、吐いて。吸って。
「い、今、ここを誰か通りませんでしたか⁉︎」
「いやぁ、誰も来てないよ」
興奮する僕とは対照的に落ち着いた守衛の声。それが僕をさらに焦らせる。
「大変なんです! 唐沢教授が——」
「待て!」
言葉を遮ったのは、猛スピードでこっちに向かって来る城戸だった。
そして彼もまた息を整え、
「守衛さん、唐沢教授が転んで怪我をしてしまったので救急車を呼びました……いえ心配しないでください。大したことはありませんので」
……転んで? 大したことはない?
大怪我だったじゃないか!
「どういうこと?」
僕は小声で城戸に訊く。
「教授が隠密に済ませてくれとのことだ。大ごとにして大学の評判を下げたくないと」
「そんな……先生は大丈夫なの?」
「意識はハッキリしているし、痛みに耐えながら言葉も話せる」
僕らのヒソヒソ話に怪訝そうな顔をしながらも守衛は納得したようだ。
「了解した。救急車が来たら対応しよう。絵画棟へ案内すればいいね?」
あのおびただしい出血を知ったら守衛はきっと応急処置を施すため絵画棟へ駆けつけるだろう。しかしあの傷を見せたら唐沢教授の危惧する「大ごと」になってしまう。
守衛を教授の元まで連れて行かなくていいのだろうか。教授の意志を尊重することが、本当に正しい判断だろうか。
まさか、ここでの判断の誤りが原因で教授は死んだりしないよな?
僕たちのせいで、死んだりしないよな?
城戸の顔を見た。しかし彼は僕の考えを察したように、ただ頷くだけだった。
アトリエ横の事務室を開扉すると微かに鉄っぽい匂いがした。視界に飛び込んで来るのは悲惨な現実。うつ伏せで呻く教授と、その背中に真っ赤な布を押し当てる森田。彼女は突然のことに動揺しているのか涙を流している。
どうやら城戸の指示により適切な止血は行われていたようだ。
「唐沢先生、あなたに言われた通り、警察は呼んでいません」
城戸は開口一番そう言った。
「あ……りがと、う」
「犯人の姿は見ていないんですか?」
「真っ暗、だった、から」
「男か女かだけでも分かりませんか?」
首が少しだけ左右に動いただけだった。
それから五分後。唐沢教授は救急車で運ばれて行った。
僕と城戸、森田はアトリエに戻って椅子に座り、茫然自失としていた。
城戸も森田も手に付いた血は洗い流したが服はそのままだ。森田のツナギは黒いから分かりにくいが、城戸は所々に血が目立つ。
端っこの方の机で木版の制作をしている女二人は集中しているのかこちらを見向きもしない。彼女たちは夕方に見た時とほぼ同じ体勢で作業を続けていて、よく見ると二人ともイヤホンをしていた。救急車のサイレンすら聞こえなかったかもしれない。小野寺の姿は見えないが腐蝕室だろうか。
守衛がアトリエの扉を開けてこちらに話しかけてきた。
「それじゃあここも施錠しちゃうから、みんな帰る支度をしてもらえるかな」
「だめだ」
芯の通った声が響く。声の主は城戸だった。
「だめだ、逃したら。今逃してしまったら証拠を隠滅する時間を与えるようなものじゃないか」
彼は独り言のように呟く。
「……城戸?」
「金田、犯人はこの中にいるんだ。俺たちで犯人を突き止めなきゃいけない」
彼の目は背筋がゾクッとするほど真剣だった。城戸は茫然としているのではなく、たった一人で今回の事件の真相を掴もうとしていたのだ。
でも、僕たちは探偵じゃない。ただの美大生だ。
ただの美大生にこの事件を解決することができるだろうか。
いや……できるかできないかなんて関係ない。やらなきゃいけないんだ。警察を頼ることができないなら、自分たちで犯人を捜すしかない。
もし何かが間違っているのなら、その間違いを正せる人間こそが正さなくてはならない。
城戸の気迫に圧され、奮い立つのを感じる。
「守衛さん、施錠はもう少し待ってくれませんか」
僕たちで、必ず犯人を突き止めてみせるから——
3
失くした貴重品を探す、という建前でアトリエの施錠を待ってもらえることになった。咄嗟にしては賢い口実だったのではないかと思う。
時刻は午後十一時。僕たちの犯人捜しは始まった。
アトリエに残っていた学生全員を集めると、森田と小野寺の他に、木版をしていた高木美波と山口ゆいの二人組、それからずっと感光室の中にいたという内村志保で全員だった。
五人の女に囲まれて少し緊張した僕の隣で城戸は説明を始める。
まず事の発端は、城戸が聞いた呻き声だった。
二本めのタバコに火をつけた城戸は、どこからか「ぐあっ」という呻き声を耳にした。異様な雰囲気を感じ取った彼は走って音がした方へと向かう。すると校舎の脇で唐沢教授が倒れているのを発見し、走って遠ざかる足音を聞いたという。
すぐさま助けを呼ぶと僕が現れ、足音の方へと追跡を始める。城戸はその時咄嗟に追いかけろと言ったものの、後になって凶器をまだ持っている犯人の危険性を認識したらしい。それについて謝られたが、べつに城戸を恨んではいない。
僕が走り出した後すぐに、唐沢教授は城戸に向かってこう言った。
「あまり大ごとにして大学の評判を悪くしたくない。私が一人で転んだということにしてくれ」
それを聞いた城戸は、駆けつけた森田に止血を任せ、僕を追いかけた。森田は僕同様に城戸の叫び声が聞こえたらしい。
そして守衛に嘘の説明をした、という訳である。
「……守衛さんは誰も大学から出ていないと言った。救急車が来るまでは門を見張り続けていたし、救急車を絵画棟へ誘導した時も誰ともすれ違わなかったらしい。絵画棟の周りに身を潜められる場所はない。となると、犯人は現場から逃走した後、正門へ逃げたと思わせて絵画棟の正面入り口から回り込み、この地下のアトリエへ戻ったんだ。だから犯人はこの中にいる誰かということになる」
城戸は厳かに宣言した。
「守衛さんが犯人という可能性は?」
そう言ったのはピンク色のツナギにモデルのような長身、内村志保だ。今初めて姿を見る彼女は、夕方からずっと感光室で落版(シルクスクリーンの版枠の掃除)をしていたそうだが、版の数が多くサイズも大きいためかなり時間がかかっているらしい。
「守衛さんが教授を刺したとすると、全速力で逃走したのに息を全く切らしていないことになる。金田が正門に到着する前には詰所に入り、眠そうな顔の演技をする。そんなのほとんど超人だ。守衛さんはシロ。ついでに俺と金田と森田が犯人である可能性もゼロ」
「ちょっと待って、唐沢さんって刺されたの? 怪我をしたとは聞いたけど」
と、高木美波。
「服の上からしか傷口を見ていないが、五センチほどの幅があった。そしてあの血の量は、切られたというより刺されたと考える方が普通だろう」
「それって……」
「これは単なる傷害事件じゃない。殺人未遂だ」
殺人。その重々しい響きにアトリエ内の空気は凍りついた。
「警察に通報した方がいいじゃない!」
山口ゆいが叫ぶ。
「表沙汰にならないことを唐沢教授が切望された。俺たちの独断でそれはできない」
「殺人未遂なんて、私たちにそんなことできるワケないよぅ。やっぱり、まだどこかに外部から侵入した犯人が隠れているんじゃない?」
未だ泣き顔の森田が、小野寺に背中をさすられながら言った。
「こんな夜遅くの大学に侵入して、敷地の一番奥にある絵画棟の裏側で、よりによって一人きりでいた教授を刃物で刺す。外部犯の仕業のわけがない。犯人は教授が一人でいることを知って狙ったんだよ」
「先生を狙ったって、誰かに恨まれるような人だったかしら。こんな遅くまで居残りを許してくれて。飲み物とか出してくれたりする優しい先生なのに」
「そうそう、わざわざ紙コップにジュース注いでね、みんなに配ったりしてたよね」
高木も山口も、話しながら涙目になっていった。彼女たちの担当教授が殺されかけたのに、彼女たちの中から犯人を探さなければならないのも酷な話だ。
それでも、やらなきゃいけない。
「それじゃあ、みんなつらいと思うけど持ち物検査をさせてくれるかな。一応森田さんの荷物も。犯人が誰かの荷物に凶器を紛れ込ませたかもしれないからね」
僕がそう言うと版画女子たちは自分の鞄を持ち寄り、机の上に中身を広げた。
何気ない日用品、財布、スマホ、化粧道具、クロッキー帳。それから、彫刻刀やカッター、ハサミ……多種多様な刃物は出てくるものの、どれも刃は小さく、幅五センチの刺傷をつけられるものではない。僕と城戸も、互いにリュックの中を調べたが何も出てこなかった。
「凶器をいつまでも持っているわけないか。どこかに捨てたんだろう。金田、隈なく探すぞ。絶対どこかにあるはずだ」
4
凶器が見つからない。
アトリエ、腐蝕室、感光室、事務室、学生用のロッカー、廃材置き場……建物の外もライトを照らし血眼になって探した。だがしかし、最初からそんなものはどこにも存在しなかったみたいに、凶器は発見できなかった。
ゴミ箱の中まで調べたが、夕方に収集されたらしくほとんどは空っぽで、唯一、掌の部分に小さな穴が空いたゴム手袋が腐蝕室のゴミ箱に捨てられているだけだった。
幅五センチの刺傷をつける刃物を、そう簡単に隠せるものだろうか。僕はナイフや包丁を探したが、鋭利な氷やガラスの破片、そんな「凶器になりそうなもの」すら何もありはしなかった。
「鋭利な氷か……金田一らしい推理だな。そんな物で人体に重傷を与えられるかは疑問だが。どちらにせよこの寒さじゃ溶けないし、砕かれた跡もない。アトリエの中は暖房が効いているが、氷が溶けた痕跡もなかった。やっぱりまだ犯人が凶器を隠し持っているのかもしれないな」
結局、何の収穫もないまま僕たちはアトリエに戻った。
「女子全員でボディーチェックもしたけど、何も出なかったよ」
心身共に弱った僕らに森田の言葉が追い討ちをかける。
「女子全員が口裏を合わせてなければの話だけどね」
非日常的な出来事に興奮しているのか、どこか楽しそうな内村が冗談めかした。
「私はクリスティとか好きだからさ、翌日の講評会が憂鬱な学生たちが一致団結して教授の殺害を計画する妄想とかしたことあったけど……でもまさか、本当にやる奴がいるとはね」
「志保ちゃん、不謹慎だよ」
「その動機で考えるなら、最も怪しいのは金田、お前ということになるな。翌日に講評を控えていると言うのに、何も作品が出来上がっていないんだから」
「乗るな、城戸。僕が版画の教授を殺したところで油画科の講評はなくならないだろ」
「冗談だよ」
こんな状況で冗談なんか言うな。
頭の働きが鈍くなっているのか、あるいはハイになっているのか……深夜だから無理もない。城戸にまともな推理を期待するのはよそう。
僕がしっかりしなければ。皮肉にも、やはり探偵役は僕の役目なのか。
「アリバイから崩していこう。森田さん、僕がさっきトイレに行った後のアトリエの状況を教えて」
「金田くんが出て行ってから、彩ちゃんが腐蝕室に戻ったから、私も作業を再開するためにプレス機の近くにいたよ。プレス機は出入り口に近いから、誰もそこから出て行ってないことは私が証言できる。教授を止血してる間のアトリエの状況は分からないけど」
出入り口の近くにいたから城戸の声も森田だけが聞こえたのだろう。
「山口さんと高木さんは?」
「二人とも、そのときも相変わらず黙々と作業をしてた。この部屋からは出てない」
小野寺と山口、高木もシロか。
となると……。
「じゃあ内村さんは?」
「ウッチーは……分からない。ずっと感光室にいたとは言うけど」
「森田ちゃん、何よそれ!」
森田が言いにくそうに口を開きかけたのを、僕が代弁する。
「本当は最初から外にいて、教授を刺した後に森田さんと入れ違いでアトリエに入れば内村さんにも犯行は可能だ。なにせ、アトリエで君の姿を見たのはさっきが初めてなんだから。そして内村さん以外の全員にアリバイがある」
「そんな……私やってないよ」
内村は青ざめた顔で呟いた。壊れた人形のように首を左右に振り続ける。
「でもまだウッチーが犯人と決まったわけじゃないんだから落ち着いて。可能性の話だから、ね?」
「……ほとんど決まったようなものだよね……」
誰かがぼそりと呟いた。その場にいた全員が内村に疑惑の視線を向けている。
「冗談じゃない。私は絶対にやってないから!」
彼女の顔は青から赤に変わり、目から大粒の涙を流す。僕には、それが演技とはとても思えなかった。
彼女の言うことは、嘘か、真か。
僕は考えてみた。
明るい事務室で正面切って襲うのではなく、夜闇に紛れて背後から襲うのは理にかなっている。恐らく教授が外で一服する時間はほぼ毎日決まっていたのだろう。時として体に染み付いた習慣は時計の如く正確だ。そして夜遅くまで居残るメンバーはいつも同じだと言うから、その事実はここにいる女子全員が知っていたに違いない。逆に言えば、いつもこの時間まで残っている彼女たちしかその事実を知らない。だから外部犯の可能性が消えたのだ。つまり、教授が外に出るタイミングを狙うことは彼女たち全員にでき、彼女たちにしかできないというわけだ。
しかしどうだろう。今日は「いつも通り」ではない。
本来なら僕と城戸はここにいない。目撃者が増えるリスクを考えれば、犯人からすれば僕たちは招かれざる客である。
城戸がいなかったら刺された教授は発見されず、森田がアトリエの出入り口付近からいなくなることもない。そうなると、誰にも見られずにアトリエに入ることはできなくなる。
つまり内村犯人説は城戸がいなければ成立しないし、その上、内村が最も疑わしくなってしまうわけだから、彼女が犯人のはずがない。
やはり、真犯人は他にいる。
唐沢教授は、偶然にも城戸がいたおかげで命拾いした。もし明け方まで発見されなかったら出血多量で死んでいただろう。
仮に、朝までに誰かが制作を終えて帰宅するとしても、裏口ではなく正面入り口から出るはずだ。裏口から出ると建物を回り込んで正門に向かわなくてはならないため遠回りになる。裏口を利用するのは喫煙者くらいだ。
そう、犯人は運が悪かった。今日に限って部外者が二人もいて、さらにその一人は喫煙者なのだ。城戸がタバコを吸わなかったら裏口から外に出ることもなかっただろう。
しかし、だとすると怪しいのは誰だろう。内村以外は全員にアリバイがある。
やはり版画女子に犯行は不可能か……。
ふと、夕方に聞いた森田の言葉が蘇る。
——版画には彫師と摺師という職人がいて、作業を分担することがあるんだよ。
ふむ……?
なら、こう考えたらどうだろう。
アトリエ内にいる犯人の他に、実は共犯者が存在する。共犯者が実行役を担い、まだ凶器を持ってこの校舎のどこかに隠れている。彫師と摺師のように作業を分担して。
外部犯の可能性はなくても、内部に通ずる人物がいれば犯行は可能なのではないか。例えば、そう、誰かの恋人とか——
「……そう言えば、教授が襲われる直前、誰かにメールを打っていたよね。小野寺さん」
僕の言葉にアトリエ内が静まり返った。小野寺の美しい顔が、僅かに強張ったように見える。しかしすぐに微笑み、
「メールなんて打ってないよ。送信履歴を見せたっていい」
証拠となるメールは送った後すぐに削除しているか……。
「金田、いきなりどうしたんだ。何か分かったのか?」
「僕の推理はこうだ。教授が外にタバコを吸いに出た時、この中にいる誰かがアトリエの外にいる仲間に連絡を取ってそれを知らせた。どこかに身を潜めていた仲間は教授を刺し、再び隠れて夜が明けるのを待つ。本来なら教授は朝、死体となって発見されたはずだ。アトリエに残っていた五人の女子にはアリバイがあり、互いにそれを証明できる。そして仲間は隠れてた場所から出てきても登校してきた学生に紛れることができる」
「なるほど。だが犯人にとっては運の悪いことに、俺が早々と教授を見つけちまった」
「だから共犯者はまだどこかに隠れているはずなんだ」
「でもあんなに隅々まで凶器を探したのに、どこにも人の姿はなかったぞ」
たしかに。
でも、僕たちはずっと下を向いて探していた。当たり前だ。物を探すのに宙を見上げる必要はない。
もし共犯者が、僕たちの視界より上にいたとしたら。
そこまで考えた時、僕はあることに思い当たる。
「僕がトイレに行ったとき、違和感を覚えたんだけど、それがなぜなのか今やっと分かったよ。うちの大学のトイレは最新式で、照明は人感式だ。なのに僕が行く前から照明は点いていた。城戸と教授は外でタバコを吸っているはずなのに、誰がトイレにいたのだろう」
共犯者、いや実行犯と言うべきか。恐らく僕は実行犯と入れ違いでトイレに入ったんだ。そして犯行を終えた犯人が再び僕と入れ違いでトイレに戻ったとしたら。
今もそこで夜明けを待っているのでは——
「行くぞ城戸。そいつが凶器も持っているはずだ。動かぬ証拠になる。これで一件落着だぜ!」
駆け出した背後で、鼻で笑ったような音が聞こえたのは、僕の気のせいだろうか。
5
男子トイレの掃除用具入れを開け、見上げなければその姿は見えなかった。
手足を壁に突っ張り、天井に張り付く忍者のように、男はそこにいた。
「うわぁぁ!」
まさかとは思ったが、本当にそこにいられると悲鳴をあげてしまう。
男は目の前で軽やかに着地した。
「よく俺の居場所が分かったな」
「あんた、ずっとあの体勢でいたのか?」
「まさか。誰かの足音が聞こえたときだけ上るんだ」
筋肉隆々のイケメンはなぜかどこか得意げだ。
「ボルダリング部の部長で、小野寺彩の恋人か。そして、唐沢教授を刺した真犯人」
「俺の名前は新堂司だ。たしかにボルダリング部で部長を務めているし彩とも付き合っているが、最後のは何のことか分からないな」
「とぼけるな。お前が凶器を隠し持っているんだろ」
そう言って城戸は新堂をボディーチェックする。が、しかし。
「おい金田、こいつ何も持ってねえ」
「そんな馬鹿な!」
「人を犯人扱いしやがって。そういうのは証拠を突き付けてからするもんだろ」
「それなら、あんた一体ここで何をしていたんだよ」
「何って……なんだっていいだろ。なぜお前たちに言う必要があるんだ。そうだな、黙秘権を行使する、とでも言っておこうか」
新堂は不敵に微笑んだ。
見るからに怪しい男め。間違いない。絶対にこいつが犯人なのだ。
なのに、証拠となる凶器が見つからないなんて……。
不完全燃焼のまま、新堂をアトリエに連れて帰る。
「ああっ、やっぱり真犯人が隠れてたのね!」
「ほら、私は犯人じゃないって言ったでしょ!」
「あれって、彩ちゃんの彼氏じゃない?」
「金田君、城戸君、大丈夫⁉︎ その人まだ凶器を持っているんじゃない?」
彼女たちは口々に言う。しかし、小野寺は無言のままだった。
「小野寺さん。きみの彼氏、こんな時間に男子トイレにいたんだけど、何をしていたのかな」
僕は彼女の目を真っ直ぐ見据えて言う。くそ、見惚れそうだ。
「さあ。私には分からないわ。筋トレでもしていたんじゃない?」
あくまでシラを切り通すつもりか。絶対にこの二人が共犯なんだ。
犯行に使われた凶器さえ見つかれば……。
「なぁ、金田」
唐突に城戸が肩を叩いた。
「何?」
「あの男、見るからに強そうだよな」
「それがどうした。ビビってんのか?」
「違う。教授の傷は深かったけど致命傷ではなかったし、吐血もしてなかった。内臓は無事だった可能性が高い。もしあんなガタイの良い男に刺されたら、普通は内臓まで到達するんじゃないか?」
たしかに。即死でもおかしくないくらいだ。だが刃物は筋肉、あるいは骨までしか達していない。屈強な男なら骨くらい貫通できそうなものだが……。
「致命傷を与えられなかった原因は人間じゃなく、凶器にあったとしたら」
不完全な凶器。鋭利な金属。共犯者。小野寺彩。腐蝕室。ゴム手袋に空いた小さな穴……。
「そうか、銅版だ!」
その言葉に、小野寺と新堂は明らかに動揺の色を示した。
「制作で使っている銅板を加工してナイフのような形にしたんだ。もしかしたら強度を増すために二枚重ねたりしたのかもしれない。そして、腐蝕室のゴミ箱に捨てられていたゴム手袋は、銅に包丁のような持ち手がないからそれを装着して犯行に及んだ。しかし持つ部分の角が尖っていたため掌に食い込んで穴が空いてしまったんだよ。犯行後、銅のナイフを裁断機で細かく切り刻み、腐蝕液に浸ける。腐蝕液は塩化第二鉄。金属を溶かす性質がある。まだ疲れていない新しい腐蝕液なら小さな銅はあっという間に溶けて失くなってしまう。それこそ、一晩あれば十分だろう」
「金田、裁断機で銅の板なんて切れるのか?」
「このアトリエには裁断機が二台ある。ひとつは紙用で、もうひとつは銅版用だ。銅版画をやる人は、最初に大きい銅板を買い、それを自分の好きなサイズに切って使うんだよ」
「なるほど。森田が教授を止血している間に、小野寺はトイレに行くフリをして新堂から凶器を受け取り、細切れにして腐蝕液に入れたってことか」
「ああ。まさか僕たちも、あんな口の小さいポリタンクに凶器が入るとは思わなかったから中身までは調べなかった。もし調べていたら、まだ溶け切っていない銅のカケラが見つかっただろうね」
「金田君! きみの言う通り、ポリタンクの中身をバットにあけたら銅の破片がたくさん出てきたよ!」
推理を開陳している間に森田が確かめてくれたようだ。
「よく調べればきっと教授の服の繊維なんかも出てくるんじゃないかな。金属は溶かしても布は溶けないからね。当然、裁断機を使う前には血を洗い流しただろうから、流し台や、それから捨てたゴム手袋なんかも、拭い切れていない血の痕跡が見つかるはずだ。警察がルミノール反応による検査をすれば動かぬ証拠になる。凶器を腐蝕液に入れることができたのは、ずっと腐蝕室にいた小野寺さん、きみだけだ」
それまで下唇を噛み締めていた小野寺だが、観念したようにため息をついた。
「そう、私がやった。でも教授は警察なんか呼ばないから、検査はされないよ」
「彩ちゃん……どうして……」
戸惑いを隠せない森田。他のみんなも複雑に表情を歪めている。
「小野寺さんと新堂くんが教授を殺そうとした動機は一体何だったの?」
「……あの男が通報を阻止した理由、それは大学の評判のためなんかじゃない。保身のためよ」
そして小野寺は息ひとつほどの間を置いて語り出した。
「前回の講評の時、一番最後まで残って制作してたのは私だった。みんなが帰った後、教授はいつもみたいに紙コップに入ったお茶をくれた。でも、その日はいつもとは違った。飲んで二十分くらい経った頃、猛烈な眠気を感じたの。私、制作に集中してるときは全く眠くならないのに。たとえ深夜でもね。なのに、頭がクラクラして、立っていられないくらいの睡魔に襲われた」
憂いを帯びた表情から、抑揚も感情も搔き消して、小野寺は続ける。
「それからの記憶はない。気がついたら事務室の教授の布団で寝てた。服は乱れ、下半身には違和感。ゴミ箱には、使用済みのコンドーム……私はそれで全てを悟った」
僕は、いや僕たちは言葉を失った。
教授に睡眠薬を盛られ、犯されたのだ。その時の彼女の苦しみは、察するに余りある。
「私は泣いた。自分が穢されたという悲しみよりも、信頼していた教授に裏切られたショックの方が大きかった。教授を問い詰めることはしなかった。顔も見たくなかった。存在を消してしまいたかった。親にも言えなかったけど、司には隠し事をしたくなかったから全部話した。そしたら司は——」
「俺が殺してやるって言ったんだ」
「それから二人で計画を練った。そして今日のお昼休みに、私が作っておいた銅板のナイフとゴム手袋を渡した。でもその時になって迷いが生じた。私のために、司に手を汚して欲しくない……」
「だが、俺は彩のためにやるんじゃないと言った。俺自身が、あの腐った教授を殺したいと心から思った。だからほとんど俺が単独犯のようなものだ。彩は何も悪くない」
互いを想うがゆえの犯行。彼らはたしかに人を殺そうとした。それは許されないことだ。だが、今回の事件の一番の悪は誰だろうか。
おもむろに城戸が口を開いた。
「教授が警察を呼ぶのを阻止したとき、俺は少し疑問に思ったんだ。あのときはまだ外部の人間に刺された可能性も捨てきれなかったのに、教授は大学の評判を気にした。べつに、ナイフを持って大学に忍び込んだ悪漢に運悪く襲われたからって、大学のイメージはそんな下がるものでもないだろう。それに早く犯人を捕まえなきゃ次の被害者が出る可能性だってある。だが教授は、まるでうちの学生が犯人であるかのように、大学の評判が下がることを恐れた。教授は最初から犯人が小野寺と新堂だということに気づいていたんだ。そして警察を呼ばなかった本当の理由は、事情聴取をされたら自分の淫行もバレてしまうから」
どこまでも卑怯な野郎だぜ。城戸は吐き捨てるように言った。
版画女子たちも、小野寺に責めるような視線を向ける者は誰もいなかった。
「それにしても、どうして司にメールを打っていただけで私を疑ったの? 他の人だって連絡くらい取れたでしょうに」
「他にも疑う理由はあったんだよ。銅版は、紙を湿したり刷ったものを水張りしたり、刷りの工程に時間がかかる。でも小野寺さんは明日が講評だと言うのに今日の時点でまだ描画をして腐蝕を始めた段階だった。もしかすると、小野寺さんは明日の講評がなくなることを知っていたんじゃないかと思って」
「そうだよ。それに、今日の計画を練るのが忙しくてとても制作なんかしてられなかった」
精神的にも追い込まれていたのだろう。良心の呵責と必死に戦っていたのだ。
「お前たちさえいなけりゃ、教授は死んで、凶器も溶けて失くなって、完全犯罪だったのによぅ」
完全な犯罪なんて、きっと存在しない。絶対にどこかで綻びが生じるんだ。今回の綻びは僕と城戸の存在だった。でも僕たちがいなくたって、日本の警察は優秀なんだから銅版の凶器もたぶんバレていたと思うよ。……それを屈強な新堂に伝えるには、僕は少し臆病者過ぎた。
「でも少し感謝してるぜ。俺と彩が、一生十字架を背負って生きることにならず済んだんだからな。だから礼を言う。金田、だっけか? ……ありがとよ」
僕は頰が緩むのを感じた。
「あんな教授のために、きみたちが重荷を背負うことはないんだよ」
小野寺の美しい瞳に潤みがさす。彼女は込み上げてくるものを必死に抑えるように笑顔を作り、おどけて言う。
「それにしても、私たちがあんなに練りに練った計画を見破るとはね。流石は金田一君だね!」
僕は苦笑する。
「その呼び方はやめてよ。僕は人の死ぬ話が苦手なんだ。僕にとっての名探偵は……折木奉太郎かな」
6
空は白み始めていた。正面入り口の扉を開くと、夜明け特有の一層厳しくなった冷気が流れ込んで眠気を吹き飛ばした。
「施錠、待ってたら解錠の時間になっちゃったよ!」
なんて愚痴ってはいたものの、守衛は怒ってはいなかった。もしかすると本当の事情を察してくれていたのかもしれない。
僕が再びアトリエに戻るとみんな机に突っ伏して眠っていた。その光景は異様で、まるで怪盗に眠らされた金庫前の警備員たちのようだった。
僕は削りかけの木の板に向き合う。さあやるぞ、と意気込んだ数分後には僕もその警備員たちの一員になっていた。
版画科は助手から講評中止の知らせが伝えられたそうだ。唐沢教授はしばらく入院するというが、いつ大学に戻るかは不明らしい。油画科のアトリエまでわざわざそれを教えに来てくれたのは内村だった。僕の手にルーズリーフの切れ端を握らせて彼女は行ってしまった。
『私の疑いを晴らしてくれてありがとう。お礼がしたいから、今度ご飯でも奢らせて』
そう書かれていた。文末には電話番号も。
べつに感謝されることをした覚えはないが、内村は恩義に思っているようだ。
偶然目が合った城戸が気味悪そうな顔をしたことで、僕は自分の顔がにやけていることを知る。
「次、金田君」
教授の声で現実に引き戻された。講評は僕の番になっていた。
水波を思わせる荒々しく削られた木の板に、ボロボロの銅の破片が刺さり整列している。銅は黄ばんだり緑青が生えていたりして、禍々しいオーラを放っていた。いや禍々しく感じるのは僕だけかもしれない。殺意のオーラを感じ取ることができるのは、この中ではきっと僕と城戸だけ。
油絵が並ぶ講評で、その作品は際立って目立った。
「……なんだね、これは?」
「『裁きのカケラ』です」
教授はふむむと唸ってから、言う。
「うん、悪くないね」
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