対話~怯え~ あだ名付けばあさんシリーズ

 ここに定期的に通い始めて長い彼はその日、表情に不安が見て取れた。椅子に腰かけてもそのままなので、私は問いかけてみた。そういう仕事を、私はしている。

「何かありましたか?」

「あの……何と言えばいいか……」

「思った事を話してみて下さい。ゆっくりで大丈夫ですから」

 彼とはある程度の信頼関係を築けていると思うので、切り出すのにそう時間はかからないだろう。間もなく彼は話を始めた。

「あの、うつ病の人間だって、腹を抱えて笑ったりしますよね?」

「症状によりますけれど、ええ、別におかしな事はありませんよ」

「そうですか……それと、食事でお腹一杯食べたりもする」

「そういう方もちゃんといます」

「薬が効いているんだから、ぐっすり眠れたりもしますよね」

「それが望ましいです。最近は眠れていますか?」

「お陰様で。逆に眠れない日があっても変ではありませんよね?」

「夏場とか、寝苦しい季節はそうですね。あなたも夏場は厳しかったかと」

「はい……そうか、別におかしくないんだ」

「誰かに何か言われましたか? 理解するつもりのない人は多いですから、軽はずみな発言をする事がしばしばありますけれど」

「何か……うーん、

『詐病だ』

と言われました」

「詐病ですか。どこの誰かは知りませんが、失礼な話ですね。

 あなたは現在、薬を定期的に服用する事で症状を抑えていられる。勿論、それで治っている訳ではない。確かに対症療法と言われればその通り。ですが、これは一気にどうこう出来るものではないのです。脳も今や、内臓の一つ。そこの不調の病気ですから、世間で言う、やれ根性だなんだでどうにかなるものではありません。

 そう言い切れる程酷い状態で、あなたはここを訪れ、以来、受診されている。これは立派な病気なんですよ。詐病などでは断じてありません」

 実際、一度脳のレントゲンを撮ってみたが、彼の脳は、恐らくストレスによるものだろうが、通常の大人の脳に比べてかなり縮んでいた。精神的な病として、うつ病の人間にはよく見られるものだ。

「ですよね……妙なものが見えてしまう事はありますか?」

「幻覚ですか?」

「視界の隅に、時折見た事のない男性が映るのです。慌ててそちらを見ても、もういない。最初は焦っていましたが、幻覚だと分かったので、今は

『またか』

と思う様になりましたが」

「すると、現在はその幻覚への対処は出来ている」

「はい。実は、先程の

『詐病だ』

と言い出したのも、そいつなのです」

「話しかけて来たのですか?」

「一度限りでしたが、はい、確かに

『詐病だ』

と言われました。それがどうにも頭から離れなくて」

「何も言わなくても、相手がそこに見えれば、その時の発言を思い出してしまう。それは厳しいですね……頓服とんぷく(不安抑制)のお薬を、少し強いものにしましょうか?」

「お願い出来ますか?」

「いいですよ。それで少し、様子を見ましょう。

 何かまた変わった事があったら、すぐにお電話を下さい。昼間なら出られます」

 その後、二言三言、言葉を交わし、今回の彼の診察は終わった。




 数日後、彼は住まいの近隣の、その辺りで一番高い建物の屋上へ忍び込み、飛び降りて死んだ。警察から、彼のかかりつけの医師という事で事情聴取を受けたが、話の途中で聞いた近隣住民の証言によれば、彼は飛び降りる直前にも

『詐病じゃない!』

と叫んだのだという。

 私は刑事に、診察の時にも幻覚で男が見えると言っていた事、一度だけ詐病を疑う言葉をかけられたのを覚えていると話していた事を打ち明けた。

 私にはアリバイがあったので、

『また何かご質問をさせて頂く事があるかもしれませんが』

と、お決まりの挨拶をされ、帰る事が出来た。




 それから何日後だろうか。休憩中、視界の隅に男が見えた。奴は

『カウンセラーなどインチキ稼業だ』

と言った。何と無責任な言葉か。瞬時に激高し、慌ててそちらを見たが、誰もいない。

……もしや、彼を悩ませていたのも、この男なのだろうか。

 これから断続的に現れ、私を苦しめるのだろうか。

 そして私を追い詰め、やがては彼の様に―


 私は実家の祖母に電話をかけ、その事を話した。

 電話の向こうからゲームの音が聞こえて来る。多分、最新機種で遊んでいるのだろう。最近は珍しくない、PCや携帯などにも詳しい老人なのだ。ボケ防止にはいいだろうと思う。

 さておき、祖母は一通り私の話を聞いて、こう言った。

「まーんずまんず、そりゃあ『ささやおに』だもい。おめえの患者さんや、おめえに昔、悪意を向けていた奴の、誰かをいじめてぇっつう気持ちが、今も残っていると、そういう風になって、おめぇ達にとっつくのよ。で、そういう悪さするっちゅうこっちゃなあ。

 それぬすても、弱ってる人を死なせるたぁ……患者さんはあわれなこっちゃもい」

「わっす、どすればいいのさ、ばさま!」

 私もつい地元訛りで訊ねる。

「そいつが出て来る度に、

暇人ひまじんだなあ、おめえ。変態だわぁ』

と繰り返し呟いてやればいいっさ。言葉に出さねえでも、心の中で唱えればいいっさ。

 すっと、相手は自分のその毒で、いずれコロッと逝っちまう。自業自得だもい」

「『ささやおに』……あんがとう、ばさま! おら、試してみっど!!」


 私は祖母に言われた通り、その方法を試してみた。

 繰り返している内に、果たして奴は消え、出て来る事はなくなった。


 しばらくして、同級生が亡くなったという知らせが入った。

 学生時代、私をいじめのターゲットの一人にしていた奴だった。唐突に内臓をやられ、死ぬ寸前まで、大層苦しんだと聞く。

 私の方に出て来た『ささやおに』はもしかしたら、こいつだったのかもしれない。


「変態だったのか……おぞましい……」

 私は自分の部屋で、誰に言うともなく、そう呟き、身を震わせた。

 

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