対話~喪失~ あだ名付けばあさんシリーズ

 ここに定期的に通い始めて長い彼女はその日、表情に不安が見て取れた。椅子に腰かけてもそのままなので、私は問いかけてみた。そういう仕事を、私はしている。

「何かありましたか?」

「あの……何と言えばいいか……」

「思った事を話してみて下さい。ゆっくりで大丈夫ですから」

「その、えーと……うつ病でも、幸せな気分になる時はありますよね?」

「勿論あります。砕いて言えば、その時に幸せだと思わせる物質が出ているかどうかなので。同じ様に砕いて言えば、それの分泌を遮断し、緊張した状態が途切れなくなるのもうつ病です」

「ふむ……うつ病でも身体が軽い時はありますよね?」

「あります。嘘みたいに軽いんです。ただ、躁状態の可能性があるので、見極めが難しいですが」

「そうですか……同じ事で同じ印象を受けたのに、動けないくらいに具合が悪くなったり、そこまでいかなかったりしてもおかしくは」

「ないですね。対処の仕方が分かるかそうでないかもありますけれども」

「そうか……うつ病って……こういう言い方、変かもしれませんけど、大変ですよね?」

「大変ですよ。私が想像するよりずっと大変だと思いますよ。定期的に薬を服用しないといけない、そして定期的に観察したり、お話を伺わなくては状態が判断出来ない、立派な病気ですもん」

「あたしみたいに、他の医院で投げ出されたから、うつ病でないと言われる筋合いとかは」

「絶対にありません。単にそこが診ないと決めただけです」

 そういう事は起こりえるのだ。理由はそのクリニックによって色々あるだろうが、患者が何も問題を起こしていなくても

『こちらを紹介します』

と言われたり、放り出されたりする。更に男性は敬遠されたりもする。暴れたりわめいたりする、そういった悪い例が多いせいだ、と私は見ている。

 だからこそ、患者が余計に混乱したりするのだけれど。

「何かあったのですか?」

「あたしの大事なものが、最近よく壊れるんです」

「例えばどういったものが?」

「時計、スマホ、PCなどの身の回りの物。包丁、まな板などの調理用品が壊れました。

 昨日は大事にしていた、好きな色の石が付いたネックレスが、手にした途端に粉々になってしまって……粉々になる様な安い石だとかそういうのはどうでもよくて、とにかく悲しくて、しばらく泣きました」

「それは、使おうとしたり、身に着けようとした時ですか?」

「はい。靴紐も、突然全部切れたりして、それが原因で約束の時間に遅刻した事もあります。それだけでとても疲れてしまって、その日は帰宅してからほとんど寝て過ごしました」

 うつ病は不意のアクシデントへの耐性がゼロになる事もある病気だ。突然どっと汗をかいたり、動悸、息切れ、めまいがしたり、彼女の様に帰宅の際まで持っても、ぶっ倒れたりする。

「前触れみたいなものはありましたか?」

 彼女は考える様な表情を見せ、こう言った。

「うーん……物が壊れてしまうのは、いい事があるその寸前が多かったかもしれません。約束というのは友達と久しぶりに会える日だったし、調理用品が壊れたのは、何となく手をかけた料理をしようとした日でした。

 ネックレスはお気に入りのチェーンを見つけて、それに取り換えようと決めた日に壊れちゃったかも」

「いい事がある寸前に、気分を台無しにする様な事が起きる。それも大事にしているものが壊れる、か……頓服とんぷく(不安抑制)のお薬を、少し強いものにしましょうか?」

「お願い出来ますか?」

「いいですよ。それで少し、様子を見ましょう。

 何かまた変わった事があったら、すぐにお電話を下さい。昼間なら出られます」

 その後、二言三言、言葉を交わし、今回の彼女の診察は終わった。




 数日後、彼女は住まいの近隣の、その辺りで一番高い建物の屋上へ忍び込み、外側に背を向け、飛び降りて死んだ。警察から、彼女のかかりつけの医師という事で事情聴取を受けたが、話の途中で聞いた近隣住民の証言によれば、彼女は飛び降りる直前に

『あたしの大事な物を、もう壊さないで!』

と叫んだのだという。

 私は刑事に、診察の時にも彼女が、最近、大事にしているものがよく壊れると話していた事、いい事が起こる寸前にそれが発生すると話していた事を打ち明けた。

 私にはアリバイがあったので、

『また何かご質問をさせて頂く事があるかもしれませんが』

と、お決まりの挨拶をされ、帰る事が出来た。




 それから何日後だろうか。私の大事な物が、私にとっていい事が起こる寸前に壊れる様になった。

 お気に入りの使い捨てT字カミソリ、お気に入りの使い捨てフォーク、お気に入りの靴下、お気に入りのトランクス、お気に入りの、100円ショップの腕時計。それらが全て壊れてしまった。

……もしや、彼女を悩ませていたのも、この現象なのだろうか。

 これらが断続的に発生し、私を苦しめるのだろうか。

 そして私を追い詰め、やがては彼女の様に―



 私は実家の祖母に電話をかけ、その事を話した。

 電話の向こうからゲームの音が聞こえて来る。多分、最新機種で遊んでいるのだろう。最近は珍しくない、PCや携帯などにも詳しい老人なのだ。ボケ防止にはいいだろうと思う。

 さておき、祖母は一通り私の話を聞いて、こう言った。

「まーんずまんず、そりゃあ『ストライク』だもい」

「妖きゃあ変化の話じゃあ思うちょったら、はーれまぁ、エンゲレッシュ(イングリッシュ)が入っちょる……!」

 その手のネーミングは土地の言葉や日本語オンリーだと思っていたので、カルチャーショックに打ちのめされる私であった。

「おめえの患者さんや、おめえに昔、欲望を向けていた奴の、誰かの大事なもんをづぶんのもんぬすてえつう気持ちが、今も残っていると、そういう風になって、おめぇ達にすり寄って、大事なもんさ、バーン!よ。もうイチコロよ。たまったもんじゃねすけもい」

「ばさま、無理に『もい』付けてね?」

「もい……」

 祖母はそう呟き、何を考えているのか、やや間が空いた。私は感心し、

「汎用性たけぇな、『もい』て」

と告げると、祖母は推し量る様に言った。

「それぬすても、弱ってる人を死なせるたぁ……患者さんはあわれなこっちゃもい」

「わっす、どすればいいのさ、ばさま!」

「だーれ(どれどれ)、今度そういう事が起こったらばさ、

『あんだも好ぎねぇ、ドゥヒヒヒ』

と、嘲笑ってやんのさー。そすたって(そうやって)繰り返し呟いてやればいいっさ。言葉に出さねえでも、心の中で唱えればいいっさ。

 すっと、相手は……そっさな、ほれ、おいが昔東京見物さ行った時みゃー、途中立ち寄った築地の市場、あそこの魚っこの開きみてえになっつまう。バーン!よ。もうイチコロよ。たまったもんじゃねすけもい。

 ヘッズに大人気のサイバーパン〇ニンジャ活劇も真っ青だもい」

「……あんがとう、ばさまナウいもい! おら、試してみっど!!」


 私は祖母に言われた通り、その方法を試してみた。

 繰り返している内に、果たして、物が壊れる事はなくなった。


 しばらくして、同級生が亡くなったという知らせが入った。

 学生時代、女王様気取りで、私や私の友人達の様に大人しいタイプの人間に害を成して、更に大なり小なり、色々と巻き上げていた女だった。

 唐突に全身を人食いバクテリアにやられ、遺体となった彼女を回収するのすら一苦労だったと聞く。

 私の大事な物を破壊した『ストライク』はもしかしたら、こいつだったのかもしれない。


「好きものだったのか……おぞましい……」

 私は自分の部屋で、誰に言うともなく、そう呟き、身を震わせた。

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