提示

 祖母と私は、川沿いを歩いていた。散歩である。仕事から離れて久しい祖母。仕事に生きて来た人なので、一人の時間を持て余している様子だった。

 祖父はいつからか知らないが、長く酒浸りであり、随分耳が遠くなっているので、最近では会話もままならなくなっている。私が小さい頃にはこんな有り様ではなかった事が、地味にしんどい。そして、そんな彼の様子が尚更祖母に、家での居心地を悪くさせている様子だった。それとなく私が家族、中でも一番近い立場にある母に聞いてみたが、

『お義母さんたら、気の回し過ぎよ』

と苦笑するばかり。そのまま伝えると、祖母はまた恐縮するだろう。なので、少しぼかして

『誰もそんな事は思っていないよ』

と、伝えてあげた。


『ある程度の距離を歩かなければ、次第に足腰が弱る』

との事なので、祖母の散歩のお供として、現在時間が空いている私が付き添っているのだった。

 夕方であるが、春が近い。ふっと気を抜くと、眠ってしまいそうな、そんな心地の良い時間。

 少し休憩。備え付けのベンチに祖母を座らせ、私も腰掛ける。結構な距離を二日に一度の割り合いで歩いているものの、祖母は最近、丸い身体からは良く分からなかったが、腰の痛みに悩まされている。私は経験から針灸を勧めているのだが、新しく治療法を生活に組み込むのは不安の方が大きいと見え、祖母は悲しげに目を伏せるのだった。それを見ると、さすがに家族も強くは言えず、その状態が続いている。トイレに間に合わなくなる事はない様子なので、医師も、家族も、そして私も、様子を見守っている状態であった。


 そんな私達の視線の先に、川向こうの同じ様なサイクリングロードが見えた。

 そこを、誰かが走っているのが見えた。どうやら女性だ。後から走って来るのは男だった。遠目に見ても恐らくは、どちらも二十代。ヒールの高い靴で走っていると見え、女性は走るのが大変そうだった。そこへ男が追い付く。

 私は、男が彼女を抱き止めるのだと思った。そう思って見ていた。なので、男が女性に飛び蹴りを浴びせ、突っ伏す様に女性が倒れ込むのを見てから、ただ事でない事が発生しているのに気付いた。男も着地に失敗し、尻から滑り込む様に転んだ。

「何だ、あれ……」

 祖母の返事はない。彼女の顔を見ると、じっと様子を見据えているのが分かった。幼少の頃から祖母を見ているが、滅多に見る事のない厳しい視線だった。

 再び見やりながら携帯を取り出す。警察を呼ぶべきだろう。どんな関係か知らないが、暴行事件に間違いはない。しかし、遠目とはいえ、あまりに唐突で緊張しているのか、思う様に取り出せない。こちらには祖母がいる。男の方がこちらに気付き、何らかの危害を加えに来るかもしれない。こういう場合、距離は関係ない。来ると言ったら来るのだ。何処までも追って来る。


 そんな事を考えていたら、視線の先では、女性が男に馬乗りになって何か、握り締めたものを振り下ろしていた。相手が反応するよりも早く。そんな必死さの様なものが伺えた。勢いのある暴力を振るわれた事で、頭に血が上っているか、もしくは自制心を上回る恐怖故の行動かもしれない。

 こちらとの微妙な距離と風向きのせいか、断続的な悲鳴が微かに聞こえた。男のと言うよりは、変な声を上げた時の鴉のそれに似ていると思った。あの、何かの前触れの様に電線の上にずらりと並んで、ひたすらに喚き散らしている時の。


 やがて、男の防御の腕が、ゆっくりと下がって行った。どうやら、刃物ではなかった様だ。それだけは確認した。

 女性は立ち上がり、何か泣き叫んでいた。それから、男を慣れない蹴りで数度蹂躙すると、頭を抑えながら、歩き出した。男はピクリとも動かない。

「あぁ……」

 何と言ったらいいのか分からぬまま、私は声を漏らした。

「いや、あれでいいの」

 祖母の確信に満ちた声が、私の右耳を撫でた。

「どういう事?」

「オレもああだった。若かった祖父さんにぼてくられて、逃げられなかったのがオレなんだ。だから何があったのか知らねえども、あの子はあれでいいの」




 初めて聞いた話だった。

 祖母は農家に嫁いだ身だった。農家は男に継がせたいものだと聞く。しかし、祖母はなかなか男の子を生めなかった事で、曾祖母からきつく当たられていたと、叔母達から耳にしている。

 祖母の実家に関しての意見などを聞いた事は一度もなかった。今、この瞬間に至るまで、それについてただの一度だって、考えもしなかった。

 そして、農家とはいえ、何処も裕福とは限らない。そんな時代に腹を痛めて、ひたすら男の子を求められた祖母の立場は、私の想像を絶していた。


 更に、その前にそんな出来事があっただなんて。




 私はそっと、かけるつもりだった携帯をしまった。もう必要はない。

 祖母が腰を上げ、穏かに言った。

「暗くなってった。帰るべ」

「うん」




 とぼとぼと、二人して歩く。ぽつりと祖母が言った。

「腰も……痛えままでいい。痛くない時はずっと、昔の事ばっか思い出してほれ、やんたくなってたじゃ」

 腰が痛くなる前の方が辛かったのか。ずっと、何十年も、一人で抱えていたのか。

 私は少し考えてから、言った。

「腰はなぁ……もうちょっと考える事にしよう」

「うーん……」

 祖母の声なのに、子供の困惑する様な声に思えた。私は穏かに続けた。

「俺も腰をやった事があるけれど、後ですごく不便だった。

 後ね、針灸はあったかかったよ」

「痛くねぇの?」

「ああ、全然痛くない。

『何かじんわりあったかいな』

って感じ。だから、痛みもかなり引くよ」

「そっか。あったけぇか……」

 私は祖母の手をそっと取った。

「どったの?」

「誰も教えてくれなかった話を聞かせてもらったから」

「んだの。ごめんな」

 何となくそこで私は、身の振り方が分かった気がした。それを祖母が、先ほど偶然に出くわした出来事から学ばせようとしている。そんな気がした。

 泣きそうな声になっていたかもしれないが、私は前を見たまま訊ねた。

「祖母ちゃんが何で謝るの」

「ごめんな、お祖母ちゃん、何もしてやれねぇで。色々と」

「こっちこそ」


 祖母はそれから、人の多くなる所まで、ずっと、

『ごめんな』

と、繰り返していた。

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