孤哭(ここく)
天を覆わんばかりの高層ビル群を赤い夕日が照らしている。
遠近法がかろうじて保たれている様な湾曲な空。その最下層だった。
一人は壁に背を預けて座り込み、一人は彼に向き合って立ち尽くしていた。搾り出す様な声が、立ち尽くす影から漏れる。
『この街を出よう。一からやり直すんだ』
唐突に浴びせられたデスクライトの光の様な不快感に顔をしかめながら、座り込んだ陰がこぼす。
『出来やしねぇ』
『最後だ。この一回に賭けてみよう』
『いや、俺達だからこそ出来やしねぇのさ。俺達はもういい年だ。そこからにしちゃ、夢の方がでか過ぎる。抱え損ねて、尻餅つくのがオチさ。
そんなのは……そう、何も知らないガキが思い描く、将来の夢みたいなもんさ』
「くっ……!」
かっと目を見開き、ベッドに仰向けで深く沈んだまま、マロオカは荒く呼吸をした。
またあの夢だ。沈みゆく夕日を浴びながら、相棒だったクゲザワが決定的な一言を吐露する。両者の立ち位置は夢を見る度に違った。自分が彼を見下ろしていたり、クゲザワが自分を見下ろしていたり。
立ち尽くしている時のクゲザワの眼差しは、どこか哀れみを帯びていた。
汗だくでの目覚めはこれで何回目だろう。当の昔に数え忘れてしまったそれをまた考えてしまい、マロオカは苦笑した。
起き上がる。そしておもむろにシャワー室へ。
熱いシャワーが彼を包む。
彼を人たらしめていた外部コーティングが見る見る溶け、はがれて行く。頭のてっぺんから、雪の様に白い頭髪……いや、それだけではない。それは首筋から肩を撫で腰から下、爪先までの体毛を露わにした。曇りひとつない新雪色の、筋骨隆々としたイヌ科の顔を持つ姿が、吹き散らす湯に打たれ、洗い流され、そこにあった。
どれほど進化し、お手頃価格ながらも立派で巧妙に姿を変えるこの時代の特殊メイクでも、この様に熱を帯びた湿気のある場所ではごらんの有り様。狂った科学が生み出した彼らにも無論、法的な諸々の権利は認められていたが、このマロオカ達本来の姿を見て、人々は悲鳴を上げて逃げ出すのだ。
それまで笑顔で歓談を交わし、紅茶やコーヒーや様々なデザインと味でその舌を楽しませていたケーキを放り出し、その店頭から一人残らず。
「俺は諦めないぜ、クゲザワ」
タオルとドライヤーで全身から水気を払った白い狼男はそう呟くと、トランクスとパンツを身に付けた。頭には三角巾。大きな耳が覗いているが、気にしない。そして首元から膝の辺りまでを覆うフリル付きのエプロン。これがキッチンでの作法であり、狼男に生まれ付いた彼なりの流儀だ。
腕も味も認められた。衛生面も勿論クリアしている。法的に何の問題もない。
だが、姿だけが受け入れられない。
マロオカは、これまた屈強に肉と骨の盛り上がった五指から伸びる、サバイバルナイフを思わせる巨大で鋭い爪の先で卵をつまんだ。
……クゲザワと袂を分かつ事になったあの日。世を儚んだ彼との死闘、その果てにクゲザワの命を奪ったその爪で。
この爪が今日の自分をここに立たせ、あの日のクゲザワを冥府へと追いやった。
お互いに腹を決めての結果だった。後悔はない。だが、その事実がマロオカに時折、あの夢を見せる。
……それでも。
「そうさ、俺は諦めない。一人ででもこの世界に、ケーキ職人として、店を構えてみせる」
ボールで卵の黄身を、絶妙な爪捌きで保持している泡立て器でかき混ぜながら、マロオカはかつての相棒に誓うのだった―
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