エピソード8 森の中を走る影

私は夢を見る。もう何度も繰り返す悪夢を。楽しいはずの夢が、悪夢に切り替わる時ほど、嫌なものはない。


『運命とは、自分の手で切り開くものだ』


幼い頃、書物や両親に代わって、私に知識を与えてくれたテレビという名の箱の中で、誰かがそんな事を言っていた。


その頃は何を言っているのか、さっぱり分からなかった。それでも私は、その箱の中で繰り広げられる少女たちが悪者と闘うアニメや、愛らしい動物たちが出てくるドキュメンタリーなどが、大好きだった。


私の話し相手…と言っても、向こうが一方的に話をするだけのテレビという存在は、つかの間の幸福を与えてくれる、まさに魔法そのものだった。


だが、そんな夢の世界は、外部者によって強制終了させられた。一方的に画面が暗くなり、振り返った後の記憶は、今の私にはない。


気が付けば、服を脱がされた状態でお風呂に入っていた。入浴時間には早すぎる私だけの『お風呂の時間』。


やかんで沸かした熱湯をかけられ、熱いと泣きさけべば、顔をお湯に付け込まれ、息をしようともがいても、強制的に止められて…。


やっと終わったと思ったら、今度は鞭や平手、一斗缶で叩かれ、殴られの繰り返し。時にはロープで縛られて、蝋を垂らされることもあった。今考えれば、現役SM女王もびっくりの事を幼い頃にされていたのである。


『お母さん…お父さん…いい子にするから、もう止めて…』


何度その言葉を言って、あいつらに許しを乞いただろう。病院に行くことも許されず、学校から家に帰ることが恐怖だった。先生にこっそり相談すれば、なぜかその先生が大けがをして入院した。友達に話せば、その翌日に転校していなくなっていた。それほど『元両親』たちの権力は壮大なものだった。


『あんたみたいな出来損ないは、家にいらないわ!』


『お前は、俺の子供じゃない!悪魔はここから立ち去れ!』


何度、『元両親』から、その言葉を言われただろう。


薄れ行く意識の中で、それでも私は、『恨み』という感情を知らずに育った。私は彼らの『操り人形』になるしか、自分を守る方法を知らなかったのだ。


その感情が芽生えたのは、あの人達と出会ったからだった。これまでに嫌がらせなら、この世界でも何度も受けてきた。私が来たからだ。


泥を投げられ、家を壊され、それでも二人は苦笑いをしていた。私のせいだ。私がいるから、二人に迷惑ばかりかけるのだ…。


『父』が言っていた言葉の意味がようやく分かった。


やっと巡り合った理想の『母』と『妹』は、私の希望だ。そんな『家族』に迷惑が掛かるなら、私は死んでも構わない。その決意が、揺らぐことは無い。私は…『悪魔バグ』なのだから…。



    ※※※


「お兄さん、次の角を左に!足が遅いよ!捕まりたいの!?」


「はぁ、角って、どっちだ!?分かんないよ!それに、無茶、言わないでくれっ!…これでも、はぁ、全力、疾走…なんだよ!」


青年とルーはそれぞれ人をおぶりながら、夜の嵐の森中を逃げ回っていた。


魔法で天気と朝夜が入れ替わったことは、彼にとって驚くべき出来事だったが、感心している場合ではなく、必死に走り続けた。


いくら体の丈夫な青年でも、雨がしみ込んだ土の上を革靴のまま走るのは、かなりの体力を消耗する。それも、約60㎏の重さの少女を抱えながらなので猶更だ。


時折、停止を命ずる声が聞こえ、彼らの後方が明るくなる時がある。追手が、魔法を使いながら追いかけているのだ。


彼らは茂みに隠れて追手が去るのを待ったが、一向にその気配はなかった。


地面に座らせるわけにもいかないので、ルーは魔法でじゅうたんを敷き、そこに全員を座らせた。


「ああ、くそっ!ここが見つかるのも、時間の問題か…」


息を切らしながら青年は言った。


「あんた…達…」ラポがゆっくり目を開いた。


「目が覚めたのか、ラポちゃん!」


「お姉ちゃん!良かった…」


二人は彼女のもとに目線を向けて、安堵の息を漏らした。


「…ごめんなさい」


「「えっ?」」青年とルーは突然謝罪したラポに対して、驚きの声を上げた。


「私のせいよ…。昨日ルーの服が汚れたのも、今日処刑されそうになったのも、全部、全部私のせいなの」


二人を見ようともせず、ラポはただただ泣きじゃくった。


「何言ってるの。お姉ちゃんのせいじゃないよ!」


「そうだよ。何でかは分からないけど、少なくとも、こうなったのはラポちゃんのせいじゃない」


二人は懸命に励ますも、ラポはそれを否定するかのように、首を何度も横に振った。


「一番のバグは…きっと私だわ…」


「なあ、気になってたんだけど、そのバグっていうのはどういう意味なんだ?」


青年は声を潜めながら言った。


「流れ者のことよ…」ラポは青年の顔を見ずに言った。


「流れ者?」青年の問いにルーが答えた。


「元々は、コンピューターにおいてのシステム上の不具合の事なんだけど、ここでは侵入者の事をそう呼ぶの」ルーは淡々と説明した。


この世界にもコンピューターがあるのか、と青年は納得したが、同時に疑問も浮かんだ。


「侵入者…。それなら俺一人だけを狙えばいいのに」


青年にしてみれば、見たこともないような服を着ている自分こそ、『バグ』といわれても仕方がないと思っていた。


「それが…そうもいかないのよね…」今度はダウメが声を上げた。


「ダウメさん!お怪我は?」青年が駆け寄ろうとするのを、彼女は手の平を前に突き出して静止させた。


「良いから、そのままで。実はラポはこの世界の住人たちから認められていないの…」


「認められていない…?どういう事ですか?」


「この世界に生まれた者は、その直後から夫婦が女神イシューに新たな妖精が産まれた事を報告する習わしがあるの。でも、ラポは人間界から来たから、妖精ではなかった…。だから私が彼女に修行をさせて、妖精として生きてもらうことにしたの…。連中は、それが気に入らないのよ。


『ただの人間のくせに、魔法を使うなんて生意気だ』ってね…。


この子は生まれながらにして、無意識に魔法が使えた。そんな子があなたという存在を招き入れたということが問題なのよ。奴らは恐れているの。もしあなたが魔法を使えるようになったら、自分たちを殺しに来るんじゃないかってね。だから私たちを捕まえて、あなたを殺すように命令させるのよ。自分たちの保身のために…ね」


弱々しく話す彼女に、青年は状況を想像して身震いした。とたんに茂みがライトに照らされ、周りに妖精が集まった。


「まずい!皆こっちに!」ルーがじゅうたんを消して、走り出した。


「いたぞぉ!全員、捕えろ!!」妖精の一人が叫ぶと、一斉攻撃が始まった。


「捕えろって言ってる割には、攻撃がありすぎやしないか!?」


青年はぎりぎりの体制で攻撃をかわしながら、抗議の声を上げた。


「『無傷で』とは言ってないでしょ!?捕まりたくなかったら、さっさとその足を動かす!」走りながらルーが怒鳴った。


「くっそおおお!」


そこからさらに逃げ回って、青年は三人と一緒に古い小屋の中にいた。


「ここまで来れば…安全…かな…」息を切らしながらルーは言った。


青年も、もはや体力の限界だった。もしここで捕まったら、せめてこの一家の命だけでも助けてもらおうと思っていたが、もしそんな事になれば、あとで後悔することになるのは目に見えていた。


「あいつら、しつこいんだよ!別に僕たちは何もしてないじゃないか!」


ラポをルーが敷いた絨毯の上に下した青年は、疲れを忘れて怒りの声を上げた。


「無駄よ…あいつらに…そんな言葉は…通用、しないから」声を震わせながら、ラポが答えた。


「お姉ちゃん、あんまり動いちゃダメだよ。お水飲む?」


「いらない…」ラポは短く言った。そう言うのが限界だった。


彼女はそのまま何も話さなくなった。


「夜明けまで待つしかない…のか?」


青年はどっかりと腰を落として、何度目か分からないため息をついた。腹の虫が鳴りそうになるのを、力を込めて何とか抑えた。妖精は耳が非常に良いということは、事前にラポから聞いていたからだ。


やがて、小屋に向かって足音が聞こえてきた。1人2人程度ではない。多くて100、少なくても50、軍隊の行進のように鎧のような音がガチャガチャと重なって、こちらに近づいてくる。


(万事休す…だな)


青年はもはや立つ気力さえもなく、百鬼ひゃっき夜行やこうならぬ百人ひゃくにん朝ちょう行こうが向かってくるのを見ることしかできなかった。ドアが開けられ、怒号が響く。


「貴様らぁっ!よくも手こずらせてくれたなぁっ!人間、お前はすぐには殺さないでおいてやる。…初めて見る死体というものをじっくり見てみたいからなぁ」


シュタールという男が、狂気じみた笑い声をあげる。彼の後ろには、重々しい鎧を付けた男達がぎらぎら目を光らせている。


「フェアリル・ランド治安維持法違反により、人間、貴様を捕らえる。抵抗しない方が身のためだ」


シュタールは勝ち誇った顔をしたが、そのすぐ後ろで「あっ!」と部下の一人が叫んだ。


「隊長…。シュタール隊長!」


「何だ?」部下の震える声にぶっきらぼうに答えて、後ろを振り向いた彼は、即座に青ざめた。


「あ、あなた様は…!」


「…通せ」声の主が一言いうと、シュタールは即座に道を開けた。


(何だ?あれほどの男が、何に怯えているんだ?)


青年は朝陽が輝く道をよく観察してみた。


彼の目に飛び込んできた声の主は…一匹の茶色の猫だった。


「おみゃーら、こんな朝早くから何してるにゃ?」


猫は低い声で話し、その場の空気を凍らせた。青年も口を閉じることが、出来なかった。

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