5 黒板

掃除時間が終わり、五時間目の授業が始まった。


授業の内容は頭をすり抜けていた。機械的に板書をノートへ書き写しながら、昼休みに築島の発した言葉を美邦は反芻する。


――再び、神送りを行わなければならない。


平坂町という地名を聞いて以来、この地へ帰って来なければならない気がしていた。それを怠ってしまったら――何か、大変なことが起きるような気がしていたのだ。


――大変なこと?


それが何であるのか、美邦自身にも分からない。


そもそも――なぜこの町に帰ってこなければならなかったのであろう。


分からなかった。


美邦はちらりと、右隣の席へ目を遣る。かつて由香の席があったその場所には、別の生徒が坐っている。由香のことを思い出して居た堪れない気分となり、視線を逸らした。本当は窓の外へ視線を向けたかったが、左眼を失明している美邦には難しい。


開け放たれた窓から冷たい風が入ってきて、美邦の頬を撫でた。


悲鳴が上がったのは、そんなときだ。


悲鳴は美邦の後ろのほうから聞こえてきた。振り向くと、一人の女子が震える手で黒板を指さしていた。美邦は黒板のほうへと顔を向ける。


そして言葉が出なくなった。


黒板に白墨チョークで書かれた文字が、融けていた。


窓硝子を露が這うように、たらりと流れ落ちている。


しかもその軌道には濃淡があり、何らかの模様を浮き上がらせていた――まるでミミズの這った跡のような、ぐにゃぐにゃした模様を。


教室にいた誰もが、口々に何事かを発した。


恐怖に駆られたためか、一人の生徒が教室の外へと逃げ出した。それにつられ、何人かの生徒もまた逃げ出す。


そんな中、美邦は黒板の模様を静観していた。


遠い過去のことを、無意識に思い起こしていたからだ。


十年前の幼少期のことではない。生まれる前の出来事であった。美邦の意識は、一瞬のうちに海の向こうの死者の島へ――そして数千年前の平坂町へと飛んだ。


ただしそれも一つの覚醒夢であり、自我を取り戻したときには思い出せなくなった。たとえ思い出したところで、美邦に理解できる内容ではなかっただろう。

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